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窓外に広がるロドキス領の街並みは、今日も穏やかな活気に満ちている。領主として、これほど誇らしい光景はないだろう。
だがしかし、俺の執務室の空気は、それとは対照的に、極めて不穏で甘ったるい香りに支配されていた。
原因は、ソファで優雅に脚を組み、見たこともない形状のパンを口に運んでいる我が妹、ミカーラだ。
「……はぁ。やっぱり、あの子は天才ね。この食感のコントラスト、既存の宮廷菓子職人を全員解雇したくなるわ」
ミカーラが手にしているのは、黄金色に焼き上げられた円形のパンだ。表面は格子状の模様が刻まれ、カリリとしたクッキー生地のようだが、驚くべきはその中身だった。齧り取られた断面からは、雪のように白いホイップが溢れ出し、上半分は艶やかなチョコレートでコーティングされている。
「……ミカーラ。公務の邪魔だ。菓子を食うなら自分の部屋でやれ」
俺は羽ペンを動かしながら、努めて冷淡に言い放った。だが、鼻腔をくすぐるバターと砂糖、そして焦がしチョコの芳香が、俺の集中力を容赦なく削り取っていく。
「あら、これはお菓子じゃなくて『パン』よ。例のあの子――テッサの新作。今、街で一番の評判なんだから。手に入れるのに、私直属の侍女を三人並ばせたのよ? 兄様は『効率』のために、その隅っこにある味気ない栄養ポーションでも飲んでればいいじゃない」
ミカーラは、わざとらしく「サクッ」と良い音を立ててパンを食した。
……テッサの新作。
その言葉が、俺の理性の防波堤に亀裂を入れる。
「……ふん。領民が何に心酔しているかを知ることは、領主としての義務だ。流行を把握せずして、正確な領地経営などできるはずもない」
「へぇ? だったら、一個食べる? ほら、沢山買ってきてるわよ」
ミカーラが、皿にある一個を差し出す。
俺は無言で立ち上がり、まるで極秘文書を検分するかのような厳格な面持ちで、そのパンを手に取った。
口に含んだ瞬間、脳内で何かが弾けた。
外側のクッキー生地の暴力的な甘みと、中のホイップの淡雪のような口溶け。それをチョコレートの程よい甘苦さが完璧に調和させている。そして何より、パン生地そのものが持つ、あの「テッサ特有の熱」が、喉を通るたびに胸を焦がした。
(……っ、う、旨すぎる。これを、彼女はあの細い指で捏ね上げたのか。この甘みは、彼女の優しさそのものではないか……)
「あら、兄様。顔が真っ赤よ? もしかして今、脳内で結婚式の聖歌でも流れてる?」
「――げほっ! げほっ!!」
あまりに図星を突かれ、俺はパンを喉に詰まらせかけた。慌てて冷めた紅茶で流し込む。
「……くだらんことを言うな。俺は、パン技術の進歩に感銘を受けていただけだ」
「はいはい、そういうことにしておいてあげるわ。でも、誰かさんが、変な片想いなんてしてなければ、今頃テッサとマルザを御抱えシェフとして城に雇えるのにねぇ。そうすれば私は毎日これが食べられるのに、本当に無能な兄様だこと」
ミカーラの毒舌が、紅茶よりも苦く脳に突き刺さる。
雇えるものなら、とっくに専用の工房を作って閉じ込めている。だが、それをすれば彼女の「自由な発想」が死ぬことを、俺は誰よりも理解していた。
一頻りパンを堪能したミカーラは、皿を置くと、今度は深い溜息をついた。いつもの俺が知識を深める為に読む、令嬢ファッション誌は読まないようだ。それはいつもの「巡礼期間」に入った騎士への愚痴が始まる合図だった。




