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「……ねえ、兄様。やっぱりあの方、返信をくれないわ。昨日、私の遠方の友人が、偶然街で彼を見かけたらしいんだけど、普通に同僚と笑いながら歩いていたんですって。指の骨が折れてるわけでも、病に臥せっているわけでもない。これって、どういうことかしら? めっちゃ、めっちゃ、気になるわ」
俺は、折れた理性を立て直すように、再び「恋愛のプロ」としての仮面を被った。
「いいか、ミカーラ。男という生き物は、時として沈黙を武器にする。返信を遅らせることで、自分の価値を高く見せようとする稚拙な駆け引きだ。あるいは、君という強烈な太陽から一時的に身を隠し、精神の均衡を保とうとしている。いわば、防衛本能だな」
「防衛本能? 私が獲物だとでも言うの?」
「そうだ。男は追われれば逃げる。だが、放置されれば不安になる。今はあえて『追い文』を止め、君が彼を忘れたかのように振る舞うのが正解だ。男の独占欲を刺激するんだよ。向こうが焦って門を叩くまで、君は大聖堂の奥で優雅に祈っていればいい」
我ながら完璧な理論だ。洗練された貴族の駆け引き。ミカーラは「ふぅん」と納得したような顔をしたが、すぐにその冷ややかな視線を俺に向けた。
「……じゃあ、兄様。その完璧な理論を、自分に適応してみたら?」
「……何、だと?」
「兄様がテッサに堂々と会いに行けないのは、どうして? 駆け引きのつもり? それとも……ただ怖いの? 正体を明かして、彼女に嫌われるのが。あるいは、領主という肩書きを外した自分に、彼女を惹きつける魅力がないと認めるのが怖いの?」
言葉のナイフが、俺の急所を的確に抉った。
……怖い?
この俺が、一人の町娘に嫌われるのを恐れているというのか。
俺はロドキス領の絶対的な支配者だ。望めば何でも手に入る。
だが、俺の脳裏には、あの変装を見破られた時の情けない姿や、彼女が「恩人」を探そうとした時の焦燥が蘇る。
「……ふん、笑わせるな。俺はりょ、領主だ。この領地で俺が恐れるものなど何一つない。彼女に会いに行かないのは、ただ時期を待っているだけだ。果実が最も甘く熟す、しゅ、瞬間をな」
「あら、そう。強気ねぇ。……あ、そういえば思い出したわ。さっき侍女が言ってたけど、テッサ、今日はお店をマルザさんに任せて、若い男の人と楽しそうに市場を歩いていたらしいわよ。なんでも、隣町の腕の良い職人さんだとかで――」
ガタンッ!!
椅子が激しい音を立てて後方に倒れた。
俺は立ち上がり、無意識に腰の剣の柄に手をかけていた。
「……そうか」
「……」
俺の動揺に、ミカーラは一瞬呆然とした後、くすくすと肩を震わせ始めた。
「……あはははは! 兄様、最高に馬鹿ね! ガセよ、ガセ。彼女は今頃、お店で必死に明日の仕込みをしてるわよ」
「……分かっている」
俺は力無く立ち尽くし、ゆっくりと倒れた椅子を戻した。心臓が、まるで戦場にいる時のように激しく脈打っている。
「……まったく、悪趣味だ。騎士も逃げたくなるわけだ」
「冗談にここまで釣られる方が悪いのよ。……『怖いものなどない』? 笑わせないで。兄様、今の顔、石像どころか、ただの迷子のオルトロスみたいだったわよ」
ミカーラは立ち上がり、勝ち誇ったような足取りで執務室の出口へ向かった。
「やっぱり男って馬鹿ね。理論武装なんていくら積み上げても、好きな女の子の名前一つで全部崩れちゃうんだもの。……あ、おまけのパン、美味しかったわ。ごちそうさま、ストーカー兄様」
バタン、とドアが閉まる。
静まり返った執務室で、俺は再びデスクに突っ伏した。
手元には、食べ終えたメロンパンの包み紙が、甘い香りを残して置かれている。
俺は領主だ。
冷静で、冷徹で、理性的であるべきこの危険な辺境の当主だ。
だが、テッサ。
君が他の男と笑っているという想像だけで、俺の築き上げた領地も、プライドも、すべてが崩壊して灰になるような感覚だ。
「……フェリック」
俺は、ドアの外に控えているであろう部下を呼んだ。
「はっ、閣下。何か?」
「……市場の……いや、何でもない。……明日の朝食も、あの店でついでにパンを買ってきてくれ。できれば、新作を中心にな」
「分かりました。」
俺は冷めた紅茶の最後の一口を飲み干した。
甘美な毒は、すでに全身に回っている。
この独占欲という名の不治の病に、俺は一生、抗うことができないのだと悟りながら。




