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執務室の空気は、冬の朝の氷原のように張り詰めていた。
机の上に広げられたマレリアからの緊急報告書には、俺の逆鱗を逆なでする内容が、事細かに記されていた。
成金の象徴とも言えるロドレス卿が、その薄汚れた手をテッサに伸ばしたのだ。
奴の手口は、卑劣かつ巧妙だった。まず、酒場の荒くれ共を金で抱き込み、マルザの店の近辺で乱闘騒ぎを起こさせた。警備に当たっていたフェリックとログナーは、職務に忠実であるがゆえに、民の安全を優先してその場を離れざるを得なかった。
その空白の時間。買い出しで留守にしているマルザの代わりに店を一人で回しているテッサの前に、ロドレス卿は「救いの手」を装って現れたという。
「……『お抱えパン職人』としての独占契約書、か」
報告書を握りしめる俺の指が、白く強張る。
ロドレス卿は言葉巧みにテッサを追い詰めた。「マルザ夫人の店は老朽化している」「このままでは火事の危険がある」「私なら最高の設備と、マルザ夫人が余生を安らかに過ごせるだけの隠居金も用意できる」と。
身寄りのない自分を受け入れてくれたマルザを想うテッサの優しさを、奴は食い物にしようとしたのだ。介入しようとしたマレリアも、ロドレス卿の私兵の数と、何より「マルザさんのためになるなら……」と揺らぎ始めたテッサの表情を見て、強引な制止を躊躇った。
「ミラ、来い」
俺の呼びかけに、部屋の闇が揺れ、影護官が姿を現す。
「奴が持っている契約書、今すぐ、この偽物とすり替えろ。サインをしても法的な効力を持たぬ、ただの紙屑にな」
「御意。」
「頼むぞ」
ミラが風のように消えた後、俺はすぐさま執政官と布告官を呼び、震えるような怒りを「冷静な行政手腕」へと変換させた。
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「恋愛のプロ」としての俺は知っている。人の心は、目に見える金銀財宝よりも、日々積み重ねてきた「場所への愛着」に強く縛られるものだ。
ロドレス卿が「新しい厨房」を餌にするなら、俺はテッサに「今ここにある厨房こそが、彼女にとって唯一無二の聖域である」ことを再認識させればいい。
「これより、下町地区の『景観維持および公衆衛生向上に関する緊急整備事業』を発動する。直ちに布告を出せ」
俺が執政官たちに下した命令は、一見すると極めて公平で、私情を挟まぬ「公務」であった。
特定の一軒を贔屓すれば、領民の反発を招き、テッサを特別視する火種を作る。ゆえに俺は、マルザの店を含む一帯の全店舗を対象とした「工房改修助成」という枠組みを、瞬時に構築した。
「具体例を出す。窯の排煙効率の改善、壁面の耐火構造化、および貯蔵庫の定温管理システムの導入。これらを行う職人の派遣費用を、領主府が七割負担する。ただし、条件がある。『現行の窯の魂を活かしたまま、性能を極限まで引き出すこと』だ。古いものを壊すのではない。今の場所を、最高の場所に変えるんだ。多くの店にもすべて布告せよ」
布告官が街角で声を張り上げ、公式な書状が次々と貼り出される。
「領主様の慈悲深い都市計画だ」と街が沸き立つ中、俺は裏で専門の「窯職人」をマルザの店に送り込んだ。彼らには、テッサが気づかぬうちに、彼女のパン作りの癖や好みに合わせた「究極のカスタマイズ」を施すよう、極秘に指示を出していた。あくまでも、どんな風にするかは、マルザとテッサの自由だ。
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数日後。
ロドレス卿は、意気揚々とマルザの店に乗り込んできた。手には(偽物とは知らずに)サインされた契約書を携えている。
「どうも、マルザ。さあ、テッサ。約束通り、私の城へ来てもらおうか。そこには、こんな辺境には届かぬ、王都から取り寄せた、最新式のドワーフ型魔導オーブンを用意してある。こんな煤けた古い窯など、捨ててな」
テッサは、新しくなった工房の壁や、驚くほど火力の安定した愛用の窯を、愛おしそうに撫でながら振り返った。
その瞳には、数日前の迷いは微塵もなかった。
「……お断りします、ロドレス卿」
「な、何だと!? 契約書があるんだぞ!」
「昨日、領主様の事業でこの窯を直してもらったんです。そうしたら……あんなに悩んでいた温度管理が、魔法みたいに思い通りになって。……この窯、今は私の心と繋がっているみたいに、最高のパンを焼いてくれるんです」
テッサは、誇らしげに胸を張った。
「職人さんが言っていました。道具は使い手と共に成長するものだって。……私、この窯でしか焼けないパンがあることに気づきました。どんなに豪華な厨房よりも、私にとってはこの工房が、世界で一番誇れる場所なんです。ここを離れるわけにはいきません」
背後で控えていたマルザも、ふんわりと微笑んで付け加えた。
「あら、卿。うちの娘は、物より『馴染み』を大切にする質でしてね。お宅のきらびやかなお城じゃあ、このパンの味は出せませんよ」
ロドレス卿は真っ赤になって契約書を突き出したが、それはミラの工作により、ただの「パンの配合メモ」にすり替わっていた。周囲の客たちから「領主様の事業に泥を塗るのか」「強欲な悪党貴族め」という冷ややかな視線を浴び、奴は捨て台詞を残して逃げ帰るしかなかった。
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その日の夕暮れ。
俺は、変装した姿で店の前に立っていた。
「景観整備」の成果を確認するという名目で立ち寄った俺に、テッサは満面の笑みで駆け寄ってきた。
「ようこそ領主様! 見てください、この窯! 領主様のおかげで、すっごく使いやすくなったんです。今までで一番、いい焼き色が出るんですよ!」
「……そうか。それは良かったな」
俺は、彼女が嬉しそうに窯を撫でる姿を見て、内心で安堵の溜息をついた。
金で買える場所など、所詮はその程度の価値しかない。
だが、俺が彼女に与えたのは「この場所こそが自分の城だ」という誇りだ。彼女がこの地に根を張れば張るほど、外敵から彼女を奪うことは困難になる。
「この窯で焼いたパン、真っ先に、その……領主様に献上したいくらいなんです。……でも、私みたいなパン屋が城に行っても、門前払いですよね?」
「……いや。結論を出すのは早い。しかし、二つ返事で決められるような事でない。機会があれば、その時は、快く頼もう。それまでは、 今まで通り 最高のパンを作て、私や領民たちを幸せにしていてもらいたい」
テッサは「またまた、そんなお上手ばっかり!」と笑っていた。
俺の独占欲は、また一つ形を変えて彼女を包囲した。
彼女がこの場所を愛する限り、彼女は俺の領地から離れない。
――そして、俺もまた、彼女の焼くパンの香りが漂うこの街から、一生離れるつもりはないのだ。
俺はテッサの言葉を一噛み締め、誰にも見せぬように、勝利の微笑を浮かべた。




