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いつもの日課となっていた潜入。しかし今日は潜入用の変装を解く間もなく、マレリアからもたらされた報告に、俺の指先が微かに震えた。


 テッサの店に、一人の男が現れたという。名はジャック。羽振りの良さを装った安物の宝石を散りばめ、言葉巧みに「あの小麦を工面したのは自分だ」と吹聴しているらしい。

 純粋なテッサは、あろうことかその詐欺師の手を取り、涙を浮かべて感謝しているというのだ。


「……私の理性が、これほど脆いものだとは知らなかったな」


 奥歯を噛み締める音が、静かな執務室に響く。

 俺が彼女の負担にならぬよう、血の滲むような思いで築き上げた「粋な計らい」を、こんな姑泥野郎に横取りされるなど、万死に値する。

 だが、今ここで俺が「本当の恩人は俺だ」と名乗り出れば、これまでの苦労は水の泡だ。彼女の中に、領主への「負債感」という消えない澱を残してしまう。


「ミラ。……そこにいるな」


 執務室の影から、音もなく一人の女が不可視魔法を解き、姿を現す。御抱えの密偵、影護官のミラだ。


「その男、ジャックの素性を洗え。一刻も早くだ」

「御意に、閣下。……相当お怒りのようですね」


 ミラの姿が再びかき消えてから、一時間も経たぬうちに報告が届いた。

 ジャックは街の酒場で「世間知らずのパン屋の娘を、いい金蔓に見つけた」と飲み仲間に自慢していたという。過去には寸借詐欺や偽造手形の売買に手を染めていた、救いようのない小悪党だ。


「……衛兵! 直ちに、この男を捕らえろ。罪状は詐欺、および領内秩序の攪乱だ。誰にも気づかれぬよう、裏路地で捕らえろ」


 城の最深部。分厚い石壁に囲まれた「厳重審問室」

 そこには、椅子に縛り付けられ、ガタガタと震えるジャックがいた。


「お前たちは下がれ。これより俺が……いや、審問官が直々に話を聞く」

守衛を下がらせ、一人、ジャックの元へ向かう。


 俺は仮面被り、深くフードで頭を包み、影に沈めたまま、冷徹な「審問官」として奴の前に立った。手には、わざとらしく鋭く研がれた短剣を持っている。


「な、なあ、あんた……俺が何をしたってんだ。たかが、しょうもない詐欺だぜ?」


ジャックの周囲をゆっくりと歩く。


「しょうもない詐欺、か。……まあ、そんなことはどうでもいい。残念だが、ここの留置場はいま、満員でな。そう……凶悪な重罪人で溢れかえっている。お前を牢屋に入れなければならない」


 俺はジャックの背後で、わざと低く、這い寄るような声で囁いた。


「だが、近いうちに空きが出る。…… 2日後か3日後か……いや1週間か……。同室の連中は、人の指を一本ずつ折って楽しむような、正真正銘の化け物揃いだぞ」


「ひっ……! た、助けてくれ! 詐欺なんて、本当に、そんな大層なもんじゃねえんだ!」


「もちろん分かっているさ。お前のやったことは、せこい詐欺だ。そんな男を化け物共の餌食にするのは、あまりに酷だと……我が領主様も危惧しておられる」


 俺はわざとらしく溜息をつき、情けをかけるような口調に変えた。


「お前がこの領地を今すぐ離れ、二度と戻らないと誓うなら……罰金だけで済ませてやってもいいんだが、どうする?」


「行きます! 今すぐ行きます! 罰金でも何でも払いますから、助けてください!」


 縋るように叫ぶジャックの顔に、俺は冷ややかな笑みを浮かべた。


────


 翌朝。

 ジャックは全財産(詐欺の被害金)に近い罰金を絞り取られた後、文字通り這うようにして領境へと消えていった。


 だが、それで終わりではない。

 俺は執務デスクに戻ると、隣領を治める知己、レドーム男爵への親書を書き進めていた。


『追伸。本日、貴殿の領地へ向かった男がいる。名をジャックという。詐欺の前科を持っており、特に純朴な女性を狙う。念のため、似顔絵と過去の罪状(真実)を同封する。適切な「管理」を願いたい』


 早馬の伝令が、土煙を上げて駆けていく。

 これであの男は、隣領でも常に監視の目に晒され、二度と、他者を騙し、甘い汁を吸うことはできないだろう。


────


 午後。俺は再び、いつもの「客」としてマルザの店を訪れた。

 テッサは少し寂しそうに、だがどこかスッキリした顔でパンを並べていた。


「あ、お客さん! ……あの、昨日お話しした『恩人』の方、急に旅に出ちゃったみたいなんです。お別れも言えなくて……」


「そうか。……きっと、彼も照れ屋だったんだろう。君に感謝されすぎて、居た堪れなくなったのかもしれん」


 俺は、彼女に差し出されたパンを一口噛み締めた。

 嘘をついた小悪党はいなくなった。彼女の心は守られた。

 

 だが、俺の胸の奥には、小さな棘が刺さったままだ。

 いつか、俺がこのパンの正当な対価として、彼女の隣に立つ日は来るのだろうか。


「……お客さん? なんだか、今日はお顔が怖いですよ。……ほら、これ! 焼き立てのクロワッサン、というんです。いつも大量に買って下さるので、特別に二個、おまけです!」


 向けられた無償の優しさに、俺の冷徹な仮面がまたしても剥がれ落ちる。


「……ああ。……ありがとう、テッサ」


 今はまだ、この距離でいい。

 彼女が焼くパンの温かさが、俺の歪んだ独占欲を、少しだけ優しく溶かしてくれた。

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