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《久良木様》  作者: 天月瞳


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6/7

拝謁


盆を受け取った瞬間、視界の端に白いものが映った。


神饌の皿の下から、わずかに覗いている。


意図的に押し込まれたような紙切れだった。


私は小森さんの顔を盗み見た。


彼女の表情に変わりはなく、口元には相変わらず柔和な笑みを湛えている。

だが、その完璧すぎる平穏が、かえって不自然極まりなかった。


私は気づかぬ振りをし、盆を受け取った。

「ありがとうございます。後でいただきますね」


「はい」


彼女は軽く頷いた。


「私は管理室にいますので、ご用があればお呼びください」


鈴の音が彼女の歩みに合わせて揺れ、廊下の奥へと溶けていく。


部屋は再び、異様な静寂に包まれた。

私は神饌を脇に避け、その紙切れを取り出した。



ヘッドライトを点ける。


光が紙面を照らす。


ノートから破り取られた一枚っぽい。

端は黄ばみ、丸まり、長い時間を経ていることが分かる。


そこに記された文字は、最初は整っていたが、後半にいくにつれ乱れ、書き手の極限の焦燥を物語っていた。


息を詰め、読み進める。


『根が、広がっている』

『すべての真実は奥社 本殿裏の禁足地にある』

『もう遅い 私 私たちは 同化している』

『奴らは火を恐れる。火こそが唯一の解だ』

『すべて理解した』


最後の数行は、もはや判別不能なほどに歪んでいた。

筆跡は途切れ途切れで、まるで指が思うように動かなくなったかのようだった。


紙を折り、ポケットにしまった。

心臓が、鉛のように重く脈打っている。


私は荷物を背負い、音を立てずに襖を開けた。

外は完全な闇だった。


旅館を出ると、すでに夜は深い。

村のどこにも、灯り一つない。


火の気も、音もない。

まるでこの村は最初から、空っぽの抜け殻だったのではないか。

私は立ち止まり、ある事実に気づいて戦慄した。




この数日、一度も見ていないものがある。


火。


灯りだけではない。

電気がないのはともかく、炊事の煙も、囲炉裏の火も、蝋燭の炎すらも。

電気のない辺境の村でありながら、生命の根源たる「熱」が、どこにも存在しなかった。


喉の奥が引き攣れる。

あの紙切れの言葉が脳裏に蘇る。

『奴らは火を恐れる』


村の出口へ向かおうとする私の脳内に、「行くな」と引き止める声が響く。

それに抗いながら、私はなんとか道標まで辿り着いた。


車は静かにそこに佇んでいた。


運転席に座り、鍵に手をかける。

これを回せば、ここから去れる。

この狂気から、すべてから逃げ出せる。


『行くな……』


その声は耳ではない。


頭の内側から響く。


どんどん大きくなり、思考を埋め尽くす。


私は弾かれたように手を引っ込めた。

呼吸が激しく乱れる。



これは私の思考ではない。


だが、私の肉体は、この声を受け入れようとしていた。

心身から湧き上がる強烈な拒絶反応に、私は脱出を断念した。


逃げるように車を降り、後部座席から予備のガソリン缶と、使えそうな道具をいくつか掴み出した。


車を振り返る余裕さえなく、私は再び村へと足を踏み入れた。

神社は暗闇の中に、沈黙して鎮座していた。

守衛も、気配もない。それは捨て去られた「殻」のようだった。


本殿を抜ける際、八足机の上の面が視界の端に入った。

私は本能的に、視線を強く逸らした。




本殿の裏。

重厚な木の扉が、銅の錠前で閉ざされている。

私は野戦ナイフを抜き、その柄で力任せに錠を叩き壊した。


――キンッ!


乾いた音と共に錠が弾け飛ぶ。

音が夜気に伝播していくが、反応は何一つない。

私は扉を押し開けた。


その先には、狭く暗い木造の廊下が続いていた。

どこまでも長く、光の届かない闇の回廊。

踏み出すたびに床板が微かな音を立てる。

足下の感触が、緩やかに傾斜し始めた。


地中へと、誘われている。

長い。


あまりにも長い。


時間の感覚が曖昧になる。


数分か、数時間か。


意識が朦朧とし始めたその時、ようやく終わりが見えた。


それは、巨大な洞窟だった。

入り口には極太の注連縄が張られ、黒ずんだ紙垂が垂れ下がっている。

それは何年も、得体の知れない「何か」に浸され続けてきたような色をしていた。


私は一瞬躊躇したが、意を決して注連縄を跨ぎ、洞の中へと踏み込んだ。


その瞬間――。

空気が一変した。

甘ったるい匂いと、腐敗した生臭さ、そして乾草のような苦味が混じり合った、濃厚な悪臭が鼻を突く。


ヘッドライトを点けると、光の束が前方を切り裂いた。

洞内には人工の痕跡はなく、ただ原始的な闇が広がっている。


足下の土壌は異常なほどに柔らかく、踏むたびに沈み込む。


まるで何か生きているものの上を歩いているような感触。

そしてその「土」は、私の重みに呼応するように、微かに脈打っていた。


……これ以上考えるのをやめようか。


進む。


奥へ。


さらに奥へ。


深部へ行くほど、静寂は深まる。


「……ん?」


足下に、何かが落ちていた。古いノートだ。

拾い上げて確認すると、表紙の端に端正な筆跡で名前が記されていた。


――小森 憐。


「これは……小森さんの?」


私は息を呑み、ページを捲った。


この村には神がおり、飢饉を救ったという。

八百万の神の国である日本において、それは珍しくない話だ。

だが、村人の話はどこか歪んでいた。


かつての大飢饉の折、山の中で「腐ることのない肉」を掘り出した者がいた。

それを祀ったところ、作物は実り、村は救われた。


人々はそれを「命を授ける神」だと信じた。


だが、それは神などではなかった。


ただ地下に存在している何がだ。


人々はそれを理解するために、『久良木様』と名付けた。

奥社の史料には別の名『根の御神』が記されていた。


人々は酒と食物を捧げ、神楽を舞った。

村の名も変えた。やがて村人は、久良木様に触れると病に罹りにくくなることに気づいた。

それを「服用」すれば、驚異的な回復力を得ることも。


備考:これが神饌の正体のようだ。村人の勧めで少し口にしてみたが、味は菌類に似ており、食感はゴムのように強い弾力がある。


「やはり……あの神饌が……」


読み進める私の喉が、不随意に鳴った。

――記憶にはないはずの「味」を、身体が思い出そうとしている。


違う、私は食べていない。これは私の記憶じゃない……!

私は激しく首を振り、先を読んだ。


摂取量が増えるにつれ、身体能力は劇的に向上する。

そして夢の中で「大いなる存在」と連結し、その末端の一部となる。

この神饌はおかしい。身体に異常が起きている……。


村人は言う。「神と共に在るのだ」と。


違う。

ち が う。

私たちは、喰われてい――


そこから先は破り取られていた。あの紙切れは、たぶんここから剥がされたものだったのだ。


「待て……小森さんは、村の人間じゃないのか?」


背筋に冷たいものが走る。


そして、ノートに挟まれていた一枚の白黒写真を見て、私は声を失った。

そこには小森さんと、三人の若者が写っていた。

だが、一番右側に写っている青年に見覚えがあった。

教授の父親だ。


教授の自宅で、彼の若い頃の写真を見たことがある。


もし小森さんが教授の父親と同年代だとしたら、なぜ今もなお、少女の姿のままなのか。


そして不可解なのは、研究室にあった史料書いてた昭和の大火に関する記載が

一言も言及してない。


私はノートをポケットに押し込み、さらに奥へ進んだ。


匂いは濃密を極め、眩暈がするほど甘ったるい。

そして、わずか焦げ臭いも鼻に入った。

洞壁には紫色の菌糸が、血管のようにのたくっている。

でも所ところが、焦げている跡を見える。


よろめきながら進んだ先で、視界が唐突に開けた。

そこは、底の知れない巨大な縦穴だった。


穴を埋め尽くしていたのは、巨大な粉紫色の肉塊だった。

それは緩慢に、重厚に、脈打っている。


収縮。

膨張。


巨大な心臓そのものだ。

空気がそれに合わせて波打つ。

幾重にも重なる低周波の振動。


それは、無数の人間が同時に呼吸しているような音だった。


一つとして同じリズムはないのに、全体として一つの巨大な共鳴となっている。

ある瞬間、その鼓動が自分の胸の中から響いているような錯覚に陥った。


私は硬直したまま、その光景から目を逸らすことができなかった。

唇が震えて、無意識に言葉が零れ落ちる。


「……お前が、呼んでいたのか?」


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