拝謁
盆を受け取った瞬間、視界の端に白いものが映った。
神饌の皿の下から、わずかに覗いている。
意図的に押し込まれたような紙切れだった。
私は小森さんの顔を盗み見た。
彼女の表情に変わりはなく、口元には相変わらず柔和な笑みを湛えている。
だが、その完璧すぎる平穏が、かえって不自然極まりなかった。
私は気づかぬ振りをし、盆を受け取った。
「ありがとうございます。後でいただきますね」
「はい」
彼女は軽く頷いた。
「私は管理室にいますので、ご用があればお呼びください」
鈴の音が彼女の歩みに合わせて揺れ、廊下の奥へと溶けていく。
部屋は再び、異様な静寂に包まれた。
私は神饌を脇に避け、その紙切れを取り出した。
ヘッドライトを点ける。
光が紙面を照らす。
ノートから破り取られた一枚っぽい。
端は黄ばみ、丸まり、長い時間を経ていることが分かる。
そこに記された文字は、最初は整っていたが、後半にいくにつれ乱れ、書き手の極限の焦燥を物語っていた。
息を詰め、読み進める。
『根が、広がっている』
『すべての真実は奥社 本殿裏の禁足地にある』
『もう遅い 私 私たちは 同化している』
『奴らは火を恐れる。火こそが唯一の解だ』
『すべて理解した』
最後の数行は、もはや判別不能なほどに歪んでいた。
筆跡は途切れ途切れで、まるで指が思うように動かなくなったかのようだった。
紙を折り、ポケットにしまった。
心臓が、鉛のように重く脈打っている。
私は荷物を背負い、音を立てずに襖を開けた。
外は完全な闇だった。
旅館を出ると、すでに夜は深い。
村のどこにも、灯り一つない。
火の気も、音もない。
まるでこの村は最初から、空っぽの抜け殻だったのではないか。
私は立ち止まり、ある事実に気づいて戦慄した。
この数日、一度も見ていないものがある。
火。
灯りだけではない。
電気がないのはともかく、炊事の煙も、囲炉裏の火も、蝋燭の炎すらも。
電気のない辺境の村でありながら、生命の根源たる「熱」が、どこにも存在しなかった。
。
喉の奥が引き攣れる。
あの紙切れの言葉が脳裏に蘇る。
『奴らは火を恐れる』
村の出口へ向かおうとする私の脳内に、「行くな」と引き止める声が響く。
それに抗いながら、私はなんとか道標まで辿り着いた。
車は静かにそこに佇んでいた。
運転席に座り、鍵に手をかける。
これを回せば、ここから去れる。
この狂気から、すべてから逃げ出せる。
『行くな……』
その声は耳ではない。
頭の内側から響く。
どんどん大きくなり、思考を埋め尽くす。
私は弾かれたように手を引っ込めた。
呼吸が激しく乱れる。
これは私の思考ではない。
だが、私の肉体は、この声を受け入れようとしていた。
心身から湧き上がる強烈な拒絶反応に、私は脱出を断念した。
逃げるように車を降り、後部座席から予備のガソリン缶と、使えそうな道具をいくつか掴み出した。
車を振り返る余裕さえなく、私は再び村へと足を踏み入れた。
神社は暗闇の中に、沈黙して鎮座していた。
守衛も、気配もない。それは捨て去られた「殻」のようだった。
本殿を抜ける際、八足机の上の面が視界の端に入った。
私は本能的に、視線を強く逸らした。
本殿の裏。
重厚な木の扉が、銅の錠前で閉ざされている。
私は野戦ナイフを抜き、その柄で力任せに錠を叩き壊した。
――キンッ!
乾いた音と共に錠が弾け飛ぶ。
音が夜気に伝播していくが、反応は何一つない。
私は扉を押し開けた。
その先には、狭く暗い木造の廊下が続いていた。
どこまでも長く、光の届かない闇の回廊。
踏み出すたびに床板が微かな音を立てる。
足下の感触が、緩やかに傾斜し始めた。
地中へと、誘われている。
長い。
あまりにも長い。
時間の感覚が曖昧になる。
数分か、数時間か。
意識が朦朧とし始めたその時、ようやく終わりが見えた。
それは、巨大な洞窟だった。
入り口には極太の注連縄が張られ、黒ずんだ紙垂が垂れ下がっている。
それは何年も、得体の知れない「何か」に浸され続けてきたような色をしていた。
私は一瞬躊躇したが、意を決して注連縄を跨ぎ、洞の中へと踏み込んだ。
その瞬間――。
空気が一変した。
甘ったるい匂いと、腐敗した生臭さ、そして乾草のような苦味が混じり合った、濃厚な悪臭が鼻を突く。
ヘッドライトを点けると、光の束が前方を切り裂いた。
洞内には人工の痕跡はなく、ただ原始的な闇が広がっている。
足下の土壌は異常なほどに柔らかく、踏むたびに沈み込む。
まるで何か生きているものの上を歩いているような感触。
そしてその「土」は、私の重みに呼応するように、微かに脈打っていた。
……これ以上考えるのをやめようか。
進む。
奥へ。
さらに奥へ。
深部へ行くほど、静寂は深まる。
「……ん?」
足下に、何かが落ちていた。古いノートだ。
拾い上げて確認すると、表紙の端に端正な筆跡で名前が記されていた。
――小森 憐。
「これは……小森さんの?」
私は息を呑み、ページを捲った。
この村には神がおり、飢饉を救ったという。
八百万の神の国である日本において、それは珍しくない話だ。
だが、村人の話はどこか歪んでいた。
かつての大飢饉の折、山の中で「腐ることのない肉」を掘り出した者がいた。
それを祀ったところ、作物は実り、村は救われた。
人々はそれを「命を授ける神」だと信じた。
だが、それは神などではなかった。
ただ地下に存在している何がだ。
人々はそれを理解するために、『久良木様』と名付けた。
奥社の史料には別の名『根の御神』が記されていた。
人々は酒と食物を捧げ、神楽を舞った。
村の名も変えた。やがて村人は、久良木様に触れると病に罹りにくくなることに気づいた。
それを「服用」すれば、驚異的な回復力を得ることも。
備考:これが神饌の正体のようだ。村人の勧めで少し口にしてみたが、味は菌類に似ており、食感はゴムのように強い弾力がある。
「やはり……あの神饌が……」
読み進める私の喉が、不随意に鳴った。
――記憶にはないはずの「味」を、身体が思い出そうとしている。
違う、私は食べていない。これは私の記憶じゃない……!
私は激しく首を振り、先を読んだ。
摂取量が増えるにつれ、身体能力は劇的に向上する。
そして夢の中で「大いなる存在」と連結し、その末端の一部となる。
この神饌はおかしい。身体に異常が起きている……。
村人は言う。「神と共に在るのだ」と。
違う。
ち が う。
私たちは、喰われてい――
そこから先は破り取られていた。あの紙切れは、たぶんここから剥がされたものだったのだ。
「待て……小森さんは、村の人間じゃないのか?」
背筋に冷たいものが走る。
そして、ノートに挟まれていた一枚の白黒写真を見て、私は声を失った。
そこには小森さんと、三人の若者が写っていた。
だが、一番右側に写っている青年に見覚えがあった。
教授の父親だ。
教授の自宅で、彼の若い頃の写真を見たことがある。
もし小森さんが教授の父親と同年代だとしたら、なぜ今もなお、少女の姿のままなのか。
そして不可解なのは、研究室にあった史料書いてた昭和の大火に関する記載が
一言も言及してない。
私はノートをポケットに押し込み、さらに奥へ進んだ。
匂いは濃密を極め、眩暈がするほど甘ったるい。
そして、わずか焦げ臭いも鼻に入った。
洞壁には紫色の菌糸が、血管のようにのたくっている。
でも所ところが、焦げている跡を見える。
よろめきながら進んだ先で、視界が唐突に開けた。
そこは、底の知れない巨大な縦穴だった。
穴を埋め尽くしていたのは、巨大な粉紫色の肉塊だった。
それは緩慢に、重厚に、脈打っている。
収縮。
膨張。
巨大な心臓そのものだ。
空気がそれに合わせて波打つ。
幾重にも重なる低周波の振動。
それは、無数の人間が同時に呼吸しているような音だった。
一つとして同じリズムはないのに、全体として一つの巨大な共鳴となっている。
ある瞬間、その鼓動が自分の胸の中から響いているような錯覚に陥った。
私は硬直したまま、その光景から目を逸らすことができなかった。
唇が震えて、無意識に言葉が零れ落ちる。
「……お前が、呼んでいたのか?」




