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《久良木様》  作者: 天月瞳


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5/7

異変

村長の家から逃げるように宿へ戻り、襖の掛け金を下ろすと、猛烈な疲労が襲ってきた。

リュックを傍らに放り出すのがやっとで、私はそのまま意識を失った。


朦朧とした意識の中で感じた。

何かが血管の奥から、脈に沿って、じわじわと全身へ広がっていく。

細い根のようなものが血流に絡みつき、一本一本の神経へと潜り込んでくる。


呼吸と共に、意識が拡散していく。

私の意識はもはや、この肉体という器に留まってはいなかった。


視界が跳ね上がる。


俯瞰。


足下に広がるのは、鬱蒼とした山林のすべて。


夜空から山全体を見下ろし、大地そのものが共鳴し、自らの肢体と化していく。

言いようのない解放感が押し寄せた。



自由。


境界のない、純粋な自由。


歓喜。


狂気に近い歓喜が、存在の隅々まで満ちていく。




「はっ……!」


私ははっと目を見開いた。


視界は瞬時に狭い部屋へと収束し、重苦しい肉体が再び意識を縛り付ける。

すべてが異常に……忌々しく感じられた。


激しく喘ぎ、胸が大きく上下する。


「水……」


喉はひび割れたように乾いている。


体を無理やり起こして、リュックから水筒を掴み、そのまま口へ流し込んだ。


透明な水が喉を通る。


本来なら清涼なはずのそれは、

今は妙に粘つき、生き物の粘液を飲み込んだような感触だった。


激しく咳き込み、水を吐き出す。


飛び散った水滴は畳に染み込み、

水染みではなく、淡い紫がかった斑点となって残った。


……中毒か?


それとも急性の感染症か。


いずれにせよ、病院へ行くべきだ。


ここを離れなければ。


出なければ。

今すぐ、この村を去らなければ。


立ち上がろうとしたが、足が床に縫い付けられたように動かない。


『この村から離れてはいけない』


そんな思考が、何の前触れもなく浮かび上がった。

理性的な判断ではない。

肉体が、意識が、拒絶しているのだ。


ここを一歩でも踏み出せば、何か「決定的に重要なもの」を失ってしまうという確信。


コン、コン。


ノックの音が響く。


「成田さん、起きていらっしゃいますか?」

小森さんの穏やかな声だ。



「……ええ、今行きます」

無理やり応じ、ふらつく足で扉へ向かう。



襖を開けると、そこには例の暗紅色の木桶を捧げた小森さんが立っていた。

その微笑みは、まるで貼り付けた仮面のようだった。


なぜか、強い恐怖が込み上げた。



「どうぞ、お手を清めてください」


差し出される盆。


一瞬躊躇したが、私は柄杓を取った。

透明な液体を手に注ぐ。

その瞬間、意識が揺らいだ。


ひび割れた大地が雨を吸い込むように。

枯渇した肉体が満たされていく。

液体は自然に、皮膚の奥深くへと浸透していった。


「神饌を、どうぞ」

小森さんが盆を差し出す。

あのくすんだ紫色の塊が、中央に鎮座していた。


「……ありがとう」

私が手を伸ばした瞬間。


彼女の手が、ふわりと私の手に重なった。盆を遮るように。

驚いて顔を上げると、小森さんは完璧な笑顔を保ったまま、指先で盆を軽く叩いた。


トントン、と二回。


言葉はなかった。


「では成田さん、大祭が始まる前にまたお呼びしますね」


何事もなかったかのように手を離し、一礼して去っていく。

鈴の音が遠ざかっていった。


私は盆を見下ろした。

表面に異常はない。

だが、指先にわずかな、不自然なざらつきを感じた。

盆を掲げ、底を確認する。


そこには乱暴で深い引っ掻き傷があった。


道具で刻んだものではない。

爪で、少しずつ、必死に削り取られた文字。

歪んだ筆跡が、木肌を抉るように刻まれていた。


『タベルナ



       ニゲロ』


その文字を見て、私は思わず笑い声を漏らした。


「……もう、手遅れだろうに」


盆を脇に置き、私はその場にへたり込んだ。


だが、まだ終わっていない。


まだ動ける。


思考もできる。


なら、まだ負けてはいない。


リュックから自前の食糧を取り出し、腹を満たそうと包みを開けて一口齧る。

耐え難い腐敗臭が口の中で爆発した。

反射的に吐き捨てる。

胃がひっくり返るような感覚に襲われた。


「うっ、げほっ……」


正常なはずの食べ物が、腐り果てた死肉のように感じられる。

対照的に、傍らに転がる神饌が、これ以上なく魅惑的に見えた。


熟れきった桃。

濃厚な肉の香り。

長い時間をかけて熟成された、至高の食材のような、抗いがたい芳香。

その匂いが鼻腔を侵食し、脳を揺さぶる。

震える手で神饌を掴もうとして、全身を硬直させた。


「……クソが」


渾身の力を振り絞り、それを壁に叩きつけた。

ベチャリ、と紫の塊が潰れ、壁と床に飛び散る。


私はそれを凝視した。


それからゆっくりと、自分の持ってきた食糧に目を向ける。

包装は無傷。外見も正常。異変はない。

答えは明白だ。おかしくなったのは、私の方だ。


コン、コン。


「成田さん、お時間です」


深呼吸を繰り返し、腰のナイフの冷たい感触を確かめてから、扉を開けた。

小森さんは部屋の惨状を無視し、淡々と告げた。


「依代と神楽鈴を、お忘れなく」


「……分かった」


リュックから面と鈴を取り出し、迷った末にリュックごと背負って外へ出た。


外の霧はさらに濃さを増していた。

空気中に浮遊する微細な粒子がはっきりと見える。


奇妙なことに、身体は驚くほど軽かった。

むしろ絶好調と言っていい。


小森さんに導かれ、神社へ向かう。

拝殿の前は、すでに人で埋め尽くされていた。百人を超える村人たちが、整然と立ち並んでいる。

左手に面、右手に神楽鈴。

私語も、動きもない。

これほどの大人数がいながら、静寂が痛いほどだ。


本殿の扉が開け放たれていた。

奥には八足机が据えられ、五色の絹が敷かれている。

そこには、あの深い色の面が恭しく供えられていた。

あれが「久良木様」か。


机の背後には巨大な銅鏡が立っている。長年の煤で濁りきった鏡面。

それを見つめた瞬間、自分の姿が映ったような気がした。

歪み、ねじれ、およそ「人」とは思えない輪郭。


私は本能的に視線を逸らした。


二度と見てはならないと、直感が告げていた。




視線を村長へ向ける。彼は本殿の影から現れた。

烏帽子に、歪な紋様の白い狩衣。

漆塗りの厚底靴が、ドン、ドンと重い地響きを立てる。


村長が右手の神楽鈴を高く掲げた。


シャン。

シャン。

シャラン。


村人たちが唱和するように鈴を振る。

村長が朗々と祝詞を上げ始めた。


手を上げ。

足を上げ。

地を踏む。


何かが目覚めた。村人たちの動きが次第に加速し、完全に同期していく。

百人が一つの生き物のように。


私も、体が勝手に動き出した。

理由も、抵抗もなかった。身体が自然とリズムを理解している。

この肉体が、最初からこの舞のために存在していたかのように。


そして——。

全員が一斉に、面を顔へと当てた。


私は躊躇し、手の動きを止めた。


シュッ。


全員の首が、同時に私の方を向いた。

三百三十六個の目が、私を貫く。

沈黙の圧力が空気を凝固させ、窒息しそうになる。

感情も、敵意も、善意もない。ただ、私を見ている。


「……チッ」


舌打ちし、選択肢はない。


私は仮面を被った。


瞬間、声が流れ込む。

無数の囁きが体内を駆け巡り、全身を這う。



シャラン、シャラン、シャラン……。





気がつくと、儀式は終わっていた。


小森さんに導かれ、ぼんやりと旅館へ戻った。


部屋で、彼女は私を座らせる。


そして、優しく私の顔から面を外した。


その瞬間、

何かの接続が強制的に断たれたような激痛が走り、

視界が揺らぐ。




「少し、お休みになってください」

淡々とした声。


彼女は面を座卓に置き、一度退室した。




しばらくして戻ってきた彼女の手には、トレイがあった。


神饌。

あの紫色の塊。



だが、今回は違う。


それを見た瞬間。


喉が、自然に鳴った。


顔を上げ、小森さんを見る。


彼女は立っていた。

顔には相変わらず完璧な笑みを浮かべて。


だが、彼女の目尻からは涙が溢れ、床に滴り落ちていた。


彼女は口を開く。

声はどこまでも平穏で、震え一つなかった。


「……さあ、召し上がれ」



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