依代
「あの面は、一体……?」
稽古に励む村人たちが被っている面を指差し、私は好奇心に駆られて尋ねた。
「あれは、神様の『依代』ですよ」
村長は穏やかな表情で答えた。
依代――神が降臨するための媒介。
つまり、あのどす黒い面は、神そのものとみなされているのだ。
「ちょうどいい、成田さんにも一つ差し上げましょう。明日の大祭には、ぜひこれを持って参加してください」
私は一瞬、呆気に取られた。
研究資料としての価値は言うまでもなく、持ち帰ってコレクションにするにしても、これほど珍しい品はない。
「……では、お言葉に甘えて」
「さあ、こちらへ」
村長から手渡されたのは、一枚の面と神楽鈴だった。
私は手元の品をまじまじと観察した。
神楽鈴の構造は、一般的に見られるものと大差ない。木製の柄に、青・黄・赤・白・黒の五色の布が結ばれ、その上には三段の十字架に十五個の鈴が吊るされている。
軽く振ってみた。
シャラン……。
鈍く、重苦しい響きだ。
およそ鈴の音とは思えないほど、清涼感に欠けている。
私は無意識に眉をひそめた。
次に面を見る。
それは深褐色、あるいは黒に近い色をしていた。
表面は滑らかに磨き上げられているが、どこか不気味さを感じさせる、濁った光沢を放っている。
鼻を突く、刺すような苦味。
桐油の匂いだ。だが、あまりにも濃すぎる。
指を伸ばし、面に触れてみた。
想像以上に柔らかい。
指先に力を込めると、表面がごく僅かに沈み込み、そしてゆっくりと押し戻されるような弾力があった。
それはまるで……まだ「生きている」ものに触れているような感触。
私は反射的に手を引いた。
「そういえば、小森から聞きましたよ。村の記録を調べたいとか」
村長が思い出したように口を開いた。
「ええ、もし差し支えなければ」
「もちろんです。成田さんは、我々の村では珍しい来客ですから」
深い皺の刻まれた村長の顔に、意味深な笑みが浮かぶ。
彼は手招きした。
「こちらへ」
その時、小森さんが声を上げた。
「私は宿へ戻りますね。準備の続きがありますから」
「ありがとう。今日は助かりました」
私が会釈をすると、彼女も小さく頷き、参道の向こうへと消えていった。
その背中が見えなくなるのを見届けてから、私は村長の後を追った。
案内されたのは、村の中で最も巨大な建築物だった。
「ここです」
彼が扉を開けた瞬間、濃いカビ臭が押し寄せ、思わず咳き込んだ。
「見苦しくて失礼。ここは滅多に使いませんのでな」
室内は薄暗く、小さな窓から差し込む光だけが頼りだった。
壁際を埋め尽くす木製の書架には、黄ばんだ書物が山積みにされている。床には防湿用の木箱がいくつか置かれていた。
埃は無造作に積もっているのではなく、長い間、何者にも乱されなかったかのように、すべての物を均一に覆っている。
まるで、この空間が久しく「生きた人間」に使われていなかったかのように。
部屋の隅、光の入る窓辺に木製の机があった。
「ここにある資料は自由に見て構わん。何かあれば聞きなさい」
「では、まずは村の記録から拝見します」
「左の列にあるはずだ」
「感謝します」
私はリュックを下ろし、白い綿の手袋をはめた。
三脚とカメラをセットし、書架へ向かった。
書物は和紙で綴じられ、乾燥して端が丸まっている。
少しの不注意で粉々に砕けてしまいそうだ。私は細心の注意を払って、ページを捲った。
最初の一冊は、村の歴史を記した『村誌』だった。
私は迷わず、昭和初期の項を開いた。
目的は、久良木村の大火に関する記載を探すことだ。
だが、読み進めるうちに私は自分の目を疑った。
ある「真実」が浮かび上がってきたからだ。
こここそが、久良木村だ。
文献では、大火によって完全に滅びたとされる、あの村そのものなのだ。
私は指を止めた。
視線は紙面に釘付けになっているが、脳内は真っ白だった。
……あり得ない。
私は本能的に否定した。
彼らは確かに、目の前で生きている。
だとすれば、誤っているのは研究室の資料のほうだ。
私はすぐに村誌を閉じ、戸籍簿へと手を伸ばした。
一頁、また一頁。
出生、死亡、婚姻。
数字は平穏な推移を見せている。
だが、ある頁で指が止まった。
『百六十七名、死亡』
その頁は、びっしりと書き込まれた「死亡」の二文字で埋め尽くされていた。
私は喉の渇きを感じながら、さらに先を捲る。
続く数年間は空白。何も記されていない。
そして――。
何事もなかったかのように、記録は再開されていた。
私はその頁を凝視したまま、動けなかった。
数頁前に死亡したはずの名が、再び「出生欄」に記されている。
「村長……」
私の声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「この村は、かつて大火に見舞われたのですか?」
入り口に佇む村長は、近づこうとはしなかった。
ただ、そこに立っていた。
私がその問いを発することを、最初から知っていたかのように。
「……確かに、あった」
彼の声は低く響いた。
「人も、確かに死にました」
一拍の間。
ゆっくりと、口角を吊り上げた。
「それでも、我らは存続する。永遠に」
断言だった。
まるで当然の摂理のような響き。
私は言葉を失う。
視線を落とし、資料を読むふりをする。
だが文字は、もう頭に入ってこない。
「……今日は、ここまでにします」
私は本を閉じ、立ち上がった。
「一度、資料を整理したいので。また日を改めて伺います」
「ええ、いつでも歓迎します」
村長は頷き、続けた。
「明日の大祭、ぜひご参加ください」
「……ええ」
平静を装い、私はその場を後にする。
敷居を跨いだ瞬間、ふと振り返った。
村長は微動だにせず、見送ることもなく、ただ静かに私を見つめていた。
小森さんが先に宿へ戻っていてくれたのは幸いだった。
人目を避けるように村を出て、足早に道標まで戻る。
地面を見れば、私が来た時に残した足跡だけが続いている。
少し安心したが、同時に不気味だった。
村人たちは……外に一歩も出ないのか?
車に乗り込み、鍵を回す。
エンジンは快調に始動した。
計器を確認する。
異常なし。
ほとんど無意識のまま、ハンドルを切る。
車体の向きを、来た方向へ。
出口へ向ける。
まだ起きてもいない「何か」に備えるように。
だが、ハンドルを握る指先は、白くなるほどに力んでいた。
どうか、
すべてが、杞憂であってほしい。




