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《久良木様》  作者: 天月瞳


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7/7

緋染


巨大な肉塊を前に、最初に身体を支配したのは絶望だった。

人知を超えたこの異形を前に、手にした僅か一缶のガソリンに何ができるというのか。


心臓が何かに牽引されるように、一定の脈動を刻み始める。

紫色の外皮が潮のようにうねり、そこから無数の「人の形」をした輪郭が浮かび上がった。


『来なさい。我らと一つになるのだ』

『我らは存続する。永遠に』

『大いなる久良木様、供物を捧げます……』


耳を劈くような騒乱のノイズが、脳をかき回す。

私は苦悶に顔を歪めた。


その時。


『成田さん……お願いします』


聞き慣れた声が意識を叩き起こした。

私は胸を強く押さえ、深く呼吸を繰り返した。


この密閉空間で直接火を放てば、死を招く。

私はガソリン缶の蓋を回し開け、肉塊の核へとぶちまけた。

そして残りのガソリンを、来た道へと細く垂らしていく。


洞窟の中ほどでガソリンが尽きた。

私はその末端に、ライターと布切れで簡易的な延時引信を作った。


点火。


私は脱兎のごとく駆け出した。

計算では数分で引火し、連鎖反応が始まるはずだ。


洞窟の出口に差し掛かった時、背後から強烈な熱気が押し寄せた。

轟音と共に、火舌が雷鳴のごとく空気を引き裂く。強烈な光が洞窟を一瞬で白昼に変えた。

火の回りが早すぎる。


私は地面に伏せ、耳を塞いだ。

熱風が通り過ぎ、山全体が哀鳴を上げた。

命乞い、罵倒、そして小森さんや自分自身の声まで聞こえた。


数千万の断末魔がこだまする中、私は立ち上がり、再び走り出した。


だが、数歩も行かぬうちに足が止まった。

村長と二人の村人が、行く手を阻んでいたのだ。

彼らの身体は至る所が裂け、その隙間から禍々しい紅い光が漏れ出している。


「愚かな……なぜ永遠を拒むのか」


地鳴りのような村長の声。彼は巨大な右拳を振り下ろした。

風を切る拳を間一髪で転がって避け、腰のナイフを抜く。


「殴り合っている場合じゃない。火がすぐそこまで来ているんだ!」


村長は答えず、代わりに背後の村人たちが獣のような咆哮を上げて飛びかかってきた。

右の男を蹴り飛ばし、左の男の腕を深く斬りつける。

だが、傷口から流れたのは血ではなく、糸を引く乳白色の粘液だった。裂けた断面に見えるのは筋肉ではなく、不気味に密集した灰白色の菌糸だ。


こいつらはもう、人間ではない。

だが今は怪物退治に興じている時間はない。

村長の攻撃を掻いくぐり、私は本殿へと続く廊下を全力で駆け抜けた。


廊下を抜け、本殿を飛び出す。

そこには、文字通りの地獄が広がっていた。


村全体が、夜明け前の空までもが緋色に染まっていた。

赤黒い霧が立ち込め、無数の村人たちが悲鳴を上げながら、のたうち回っている。

あたかも全員が同時に発火したかのようだった。

火に触れてすらいない者までが、端から崩壊し始めている。


熱い。


体内から火がついたような極度の熱気。

私は喘ぎながら宿へと向かった。

小森さんを、彼女だけは救い出さなければならない。


狂ったように叫ぶ村人たちをかわし、ようやく宿の前に辿り着いた。

彼女は、そこに静かに立っていた。


「……成田さん」


白皙だった肌は枯れ木のようにひび割れ、そこから炎のような紅い光が漏れている。


「……やり遂げたんですね」


私は彼女の腕を掴み、必死に叫んだ。

「早く、ここを離れるんだ!」


彼女は穏やかな笑みを浮かべ、静かに首を振った。

「私はいいんです。成田さん……あなただけ、行ってください」


「そんなことが、できるわけ……っ!?」


手の感触が不自然に軽くなった。

目を見開いた私の前で、小森さんの身体が指先から灰となって崩れ落ちていく。

彼女は優しく目を細め、最後の一礼をした。


「ありがとう……。さようなら……」


風が吹き抜け、彼女は完全に消え去った。

私は奥歯を噛み締め、爪が食い込むほど拳を握りしめた。


「クソが……ッ!」

悲鳴を上げる肺と体を鞭打ちして、私は村の入り口へと再び走り出した。


車に飛び乗り、鍵を回す。

エンジンは快調に目を覚ました。ハンドルを握りしめ、アクセルを床まで踏み込む。

猛スピードで走る車は、地獄と化した村を背後へと置き去りにした。


太陽が昇り始めていた。






帰宅してから数日。何をする気力も起きないまま時間が過ぎた。

だが、人は前を向かなければならない。私は今回の経験を執筆することに決めた。


もっとも、すべてをありのままに書いたところで、この荒唐無稽な話を誰が信じるというのか。

私はキーボードを叩き続け、ふと喉の渇きを覚えた。


「成田さん、お茶をどうぞ」


一人の女性が、湯気の立つ茶を机に置いた。


「ああ、ありがとう」


私は茶碗を手に取り、一口啜った。

揺れる水面に映ったのは――。


深褐色の「面」を被った、自分の顔だった。


私は、無意識に指先で机を叩いた。


コン。


コン。


コンコン。


(完)



最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。

正直、完結までにこれほど時間がかかるとは予想外でした。

二日で設定と大綱を決めた当初は、相当恐ろしい話になるぞと意気込んでいたのですが……。


当時はリアリティにこだわりたいという妙な意地もあり、不慣れな歴史建築などの資料をひたすら調べながら書き進める日々でした。

時間はかかりましたが、なんとか書き切ることができて良かったです。

この経験は、間違いなく次回作への糧となります。

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