第9章:レティシアの独白
夕方。
パン屋の裏。
窯の火は弱くなり、店の中も少し静かになっている。
最後の客が帰ったあとだった。
裏口の扉を開けると、外の空気がゆっくり流れ込む。
少し湿った風。
煙突から細い煙が空へ伸びている。
パン窯の煙。
夕方の空に溶けていく。
レティシアはその煙を見上げていた。
空は曇りがちだ。
遠くに薄い雲。
夕日がその向こうでぼんやり光っている。
彼女は静かに立ったまま考えていた。
昔のこと。
王城。
舞踏会。
豪華な廊下。
そして。
断罪。
あの夜の光。
ざわめき。
冷たい視線。
「王国を乱した」
そう言われた。
それから。
追放。
馬車。
長い街道。
知らない土地。
辺境。
パン屋。
ガルド。
小さな町。
すべてが遠い出来事のようだった。
だが確かに繋がっている。
そして今。
王国はまだ不安定だ。
制度は変わり始めたばかり。
調整局。
地方議会。
魔力制限。
どれもまだ完全ではない。
貴族はまだ不満を持っている。
官僚はまだ混乱している。
神殿も完全には納得していない。
王国は。
まだ傾いている。
それでも。
レティシアは知っている。
あの頃とは違う。
崩壊の流れは止まった。
完全な崩れ。
それはもう遠い。
社会はまだ揺れる。
問題も起きる。
失敗もある。
だが。
回る。
続く。
それでいい。
背後で扉が軋む。
ガルドが出てくる。
腕を組み、煙を見上げる。
「考え事か」
レティシアは振り返らない。
「少し」
ガルドは横に立つ。
しばらく二人で空を見ていた。
煙がゆっくり流れていく。
やがてガルドが言う。
「満足か?」
短い質問。
レティシアはすぐには答えなかった。
空を見る。
煙を見る。
遠い雲を見る。
そして少しだけ考える。
もし王国が完全に安定したなら。
もし問題がすべて消えたなら。
それはたぶん。
動いていない国だ。
社会はそういうものではない。
少し壊れる。
少し直す。
また進む。
それを繰り返す。
レティシアはようやく口を開いた。
「……十分です」
大きな言葉ではない。
誇りでもない。
勝利でもない。
ただ。
静かな答えだった。
ガルドはそれを聞いて鼻で笑う。
「相変わらず地味だな」
レティシアも少し笑う。
煙は空に消えていく。
夕方の空気は少し湿っていた。
王国はまだ完全ではない。
だが。
それでよかった。




