第9章:新しい関係
契約の空気が、まだ部屋に残っていた。
握手はすでに終わっている。
だが、何かが確かに決まった感覚があった。
パン窯の火は変わらず燃えている。
外では市場の声。
誰かが値段を叫び、誰かが笑う。
世界は何も変わっていない。
だが、二人の関係は変わっていた。
王太子アルドリックは椅子に腰を戻し、ゆっくりと言った。
「一つ聞いていいか」
レティシアは頷く。
「どうぞ」
アルドリックは少し考える。
言葉を選ぶように。
「君は」
そこで一度止まる。
そして続ける。
「何になるんだ」
部屋が静かになる。
レティシアは少しだけ目を細めた。
「何に?」
「役職だ」
アルドリックは紙を指で叩く。
「調整局を作る」
「制度を変える」
「地方を動かす」
「聖女制度にも手を入れる」
それは普通の官職ではない。
宰相でもない。
大臣でもない。
そしてもちろん――
王妃でもない。
アルドリックは続ける。
「肩書きが必要だ」
王国は肩書きで動く。
権限。
命令。
責任。
それらはすべて役職に結びつく。
「君は何になる」
レティシアは少し考える。
窓の外を見る。
煙が空へ伸びている。
パン窯の煙。
生活の煙。
そして彼女は言う。
「役職名は」
一度言葉を区切る。
アルドリックは待つ。
レティシアは少しだけ微笑んだ。
ほんのわずか。
王都ではほとんど見せなかった表情。
「調整者でいいでしょう」
アルドリックは瞬きをする。
「……調整者」
レティシアは頷く。
「はい」
それだけ。
豪華な肩書きではない。
権威ある称号でもない。
だが。
アルドリックはその言葉を頭の中で転がす。
調整者。
王ではない。
支配者でもない。
妃でもない。
だが。
王国の仕組みを動かす存在。
衝突する利害をまとめる者。
流れを整える者。
アルドリックは苦笑した。
「ずいぶん地味だな」
レティシアは肩をすくめる。
「目立つ必要はありません」
彼女は続ける。
「重要なのは役職ではなく」
「機能です」
アルドリックはうなずく。
確かに。
王都はずっと役職に縛られていた。
王。
宰相。
聖女。
大臣。
名前ばかりが大きい。
だが。
機能は止まっていた。
レティシアは言う。
「王太子殿下は王になります」
「聖女は祈ります」
「貴族は領地を守る」
そして少しだけ首を傾けた。
「私は」
短く言う。
「流れを整える」
それだけ。
だが。
アルドリックは分かっていた。
それがどれほど重要か。
王国は巨大だ。
利害が絡む。
権力がぶつかる。
そのすべてを調整する者。
それは。
王よりも見えない場所で。
国を動かす役割だった。
アルドリックは笑う。
「つまり」
「君は王でも妃でもない」
レティシアは頷く。
「はい」
アルドリックは続ける。
「だが」
窓の外を見る。
市場。
畑。
煙。
そして言った。
「王国を動かす」
レティシアは否定しない。
ただ静かに答える。
「皆が動かします」
そして少しだけ微笑んだ。
「私はその手伝いをするだけです」
アルドリックは椅子に背を預ける。
「……なるほど」
彼は小さく笑った。
「調整者」
短い言葉。
だが。
それは王国に今まで存在しなかった役職だった。
王でもない。
貴族でもない。
官僚でもない。
しかし。
王国の流れを整える者。
アルドリックは言う。
「いいだろう」
「王国初の役職だ」
レティシアは軽く首を傾ける。
「そうですね」
窯の火がまた小さく鳴る。
その小さな店の中で。
王と。
そして。
王でも妃でもないもう一人。
新しい関係が静かに形になっていた。




