第8章:決断
沈黙が続いていた。
パン屋の奥の小さな部屋。
窯の火が、かすかに音を立てている。
パチ、と木が弾ける。
その音だけが、ゆっくりと時間を刻んでいた。
窓の外からは、市場の声が聞こえる。
荷車を引く音。
商人の呼び声。
子供の笑い声。
誰かがパンを買っていく足音。
人が生きている音。
王太子アルドリックは、そのすべてを黙って聞いていた。
王都では聞こえない音だ。
王城の窓は厚い。
廊下は長い。
魔力の灯りは静かすぎる。
だから。
人の生活の音は、遠い。
だがここでは違う。
すぐ近くにある。
すぐそこにある。
アルドリックは思う。
これが。
国だ。
城ではない。
制度でもない。
紙でもない。
生きている人間。
働く手。
食べる口。
そのすべて。
沈黙の中で、彼はゆっくり息を吐いた。
そして顔を上げる。
レティシアが向かいに座っている。
静かに待っている。
急かさない。
説得もしない。
ただ、決断を待っている。
王太子は言った。
「……やろう」
その声は低かった。
だが、はっきりしていた。
レティシアの目がわずかに動く。
アルドリックは続ける。
「国を変える」
その言葉は重い。
王国の制度。
王都の構造。
貴族の権力。
聖女の影響。
すべてに手を入れる。
つまり。
敵を作る。
反発を受ける。
争いも起きる。
それでも。
アルドリックは言った。
「このままでは」
「いずれ壊れる」
レティシアは何も言わない。
王太子は続ける。
「なら」
「壊れる前に」
「作り直す」
その言葉は、もはや迷いではなかった。
レティシアは静かに立ち上がる。
そして、軽く頭を下げた。
形式ばった礼ではない。
深くもない。
だが、きちんとした礼だった。
「承知しました」
短い言葉。
だがその中に、すべてが含まれている。
計画。
責任。
そして。
これから始まる長い時間。
アルドリックは苦笑する。
「本当にやるんだな」
レティシアは顔を上げる。
「はい」
「十年計画です」
王太子は肩をすくめた。
「王都が持つかどうかだな」
レティシアは少し考える。
そして言った。
「持たせましょう」
アルドリックは思わず笑った。
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
レティシアは窓の外を見る。
市場。
人。
煙。
ゆっくり動く生活。
「ですが」
彼女は言った。
「ここまで来ました」
アルドリックも窓を見る。
確かに。
ここまで来た。
断罪。
追放。
辺境。
そして再会。
すべてが、この瞬間に繋がっている。
王太子は手を差し出した。
レティシアはそれを見て、少しだけ目を細める。
そして手を伸ばす。
二人の手が軽く触れる。
握手。
それは王家の儀式でも、
政治の契約書でもない。
だが。
この瞬間。
王国の未来は決まった。
小さなパン屋の奥で。
王太子と、追放された令嬢が。
静かに契約を結んだ。
窯の火が、また小さく鳴る。
パチ。
外では市場が動き続けている。
誰も知らない。
今この瞬間。
王国の歴史が
新しく始まったことを。




