第7章:王太子の葛藤
パン屋の奥。
小さなテーブルの上には、まだ改革案の紙が広がっている。
王太子アルドリックは、しばらくそれを見つめていた。
行政改革。
聖女制度の変更。
魔力依存の縮小。
地方分権。
どれも理にかなっている。
理屈はわかる。
だが。
彼はゆっくりと言った。
「……これは」
レティシアは顔を上げる。
「はい」
アルドリックは苦笑した。
「政治的地獄だな」
レティシアは否定しない。
王太子は指で紙を叩く。
「まず王権」
「弱くなる」
今まで王城に集中していた権限。
それを分散する。
調整局。
地方自治。
合議制。
それはつまり。
王がすべてを決める国ではなくなる。
アルドリックは続ける。
「貴族も反対する」
地方分権。
地方税の留保。
それは王都貴族の影響力を削る。
「聖女派も怒る」
聖女ミリアの加護を制限する。
それは信仰にも触れる。
そして。
アルドリックは最後の一枚を見る。
「王城官僚」
彼は短く笑った。
「間違いなく抵抗する」
今まで王城の中枢にいた者たち。
その権限が削られる。
役所が増える。
しかも王城の外に。
反対しない理由がない。
アルドリックは言った。
「つまり」
「敵だらけだ」
レティシアは静かに茶を飲む。
そして言う。
「はい」
アルドリックは思わず笑う。
「そこは否定しないのか」
「事実ですから」
静かな沈黙が落ちた。
外では村人の声がする。
誰かが荷車を引いている。
犬が吠える。
ゆっくりとした生活の音。
アルドリックはそれを聞きながら考える。
王都とは違う。
王都は静かだ。
整いすぎている。
魔力がすべてを均し。
聖女の加護が揺れを消す。
だから。
変化が起きない。
王太子は低く言う。
「……だが」
レティシアが視線を向ける。
アルドリックは続けた。
「この改革は」
「王国をひっくり返す」
レティシアは答える。
「はい」
「数十年の慣習を壊します」
アルドリックは腕を組む。
「下手をすれば」
「内乱だ」
レティシアは少し考える。
「可能性はあります」
あまりにも落ち着いた返答だった。
アルドリックは思わず笑う。
「怖くないのか」
レティシアは首を傾げる。
「怖いですよ」
「ですが」
彼女は窓の外を見る。
風が畑を揺らしている。
ゆっくり。
確実に。
「何もしなければ」
「もっと壊れます」
アルドリックは黙った。
それは彼も感じていた。
王都は止まっている。
魔力で維持された安定。
聖女の加護で保たれた均衡。
だが。
その内側では。
何も育っていない。
王太子は言う。
「……それでも」
レティシアは待つ。
アルドリックは顔を上げた。
「それでも」
「国は救えるのか」
その声は、王太子ではなく。
一人の人間の声だった。
レティシアはまっすぐ彼を見る。
そして言う。
「はい」
迷いのない声だった。
アルドリックはその答えを受け止める。
「そうか」
だがレティシアは続けた。
「ただし」
王太子は眉を上げる。
「ただし?」
レティシアは言う。
「時間はかかります」
アルドリックは黙る。
「どれくらいだ」
レティシアは少し考える。
そして答えた。
「十年」
王太子は息を吐く。
「長いな」
レティシアは首を振る。
「短いです」
彼女は続ける。
「制度はすぐ作れます」
「ですが」
「社会は変わりません」
人。
習慣。
価値観。
それはゆっくりしか動かない。
レティシアは言った。
「世代が一つ変わる」
「それくらい必要です」
アルドリックはテーブルに肘をついた。
十年。
それは。
王太子として。
人生をかける時間だ。
彼は窓の外を見る。
辺境の村。
煙突の煙。
ゆっくり歩く人々。
止まってはいない。
遅いだけだ。
アルドリックは小さく笑った。
「……いいだろう」
レティシアが視線を戻す。
王太子は言った。
「十年やろう」
「その間」
「国を壊さないように支えてくれ」
レティシアは静かに頷く。
「はい」
王太子アルドリックは立ち上がる。
改革。
反対。
抵抗。
政治闘争。
すべて理解している。
それでも。
彼は決めた。
王都に戻る。
そして始める。
この小さなパン屋で決まった計画を。
王国そのものを作り替える計画を。




