第三章 レティシアの答え
パン窯の火が静かに揺れている。
店の奥の小さな部屋。
外からは市場のざわめきと、時折パンの焼ける香りが流れ込んでくる。
王太子アルドリックは、レティシアの言葉を待っていた。
先ほどの願い。
「戻ってきてくれ」
その答えを。
レティシアはしばらくカップを見つめていた。
茶の表面に、窓の光が揺れている。
やがて、静かに口を開いた。
「戻れば」
彼女は言う。
「また同じ構造になります」
アルドリックは眉を寄せる。
「同じ?」
レティシアは顔を上げる。
その視線は冷静だった。
怒りも、恨みもない。
ただ分析している。
「王都の仕組みです」
彼女は指先でテーブルを軽くなぞる。
考えを整理するように。
「王太子が象徴」
アルドリックの肩がわずかに動く。
レティシアは続ける。
「聖女が安定装置」
聖女。
王国の精神的支柱。
民衆の信仰。
災厄を鎮める存在。
だが同時に。
政治の均衡装置。
「貴族が利害調整」
各家の権力。
土地。
税。
軍。
互いに牽制しながら均衡を保つ。
「官僚が処理」
法律。
文書。
制度。
王国の歯車。
アルドリックはうなずく。
どれも間違っていない。
王国の基本構造だ。
レティシアは静かに言った。
「しかし」
その一言で空気が変わる。
「問題は」
「構造そのものです」
アルドリックの目が細くなる。
レティシアは続ける。
「王都は」
一拍。
「一人の調整者に依存しています」
沈黙。
アルドリックはゆっくり言う。
「……君か」
レティシアは首を横に振る。
「違います」
そして言う。
「それが私だっただけです」
彼女は淡々としている。
誇りもない。
自慢でもない。
ただの事実。
「聖女と貴族」
「王家と官僚」
「宗教と魔導院」
すべてが衝突する。
利害が絡む。
その衝突を。
一人の人間が。
吸収する。
「私が調整していました」
会議。
非公式の会話。
書類の調整。
人事。
助言。
見えないところで。
王国の摩擦を減らしていた。
アルドリックは思い出す。
あの頃。
王城は静かだった。
問題はあった。
だが。
爆発はしなかった。
レティシアがいたから。
彼女は続ける。
「私が戻れば」
アルドリックは息を止める。
レティシアの声は変わらない。
「また私に依存する」
王城の人間たちは安心する。
「レティシアがいる」
「彼女が調整する」
「彼女がまとめる」
責任は見えなくなる。
アルドリックはゆっくり言う。
「それの何が悪い」
レティシアはすぐ答える。
「持続しないからです」
短い言葉。
だが重い。
「そして」
彼女は続ける。
「私がいなくなれば」
その先の言葉は、アルドリックにも分かる。
レティシアが静かに言った。
「また崩れます」
沈黙。
外で子供の笑い声が聞こえる。
市場の声。
荷車の音。
生活の音。
アルドリックは窓を見る。
この街には。
一人の支配者はいない。
だが動いている。
人がいる。
仕組みがある。
彼はゆっくりレティシアを見る。
「だから戻らないのか」
レティシアはうなずく。
「はい」
そして続ける。
「私が戻るのは簡単です」
王妃になる。
聖女を兼ねる。
調整者になる。
王城は安定する。
だがそれは。
治療ではない。
「延命です」
レティシアは言う。
アルドリックは黙る。
彼女はさらに言う。
「必要なのは」
指先でテーブルを軽く叩く。
「構造の変更です」
王国の根。
制度。
権力の流れ。
それを変える。
アルドリックはゆっくり息を吐いた。
「……難しいな」
レティシアは少しだけ微笑む。
「はい」
そして静かに言う。
「だから私は戻りません」
アルドリックは聞く。
「では」
「どうする」
レティシアは彼を見る。
真っ直ぐ。
逃げずに。
「外から変えます」
その言葉は。
王城の政治を揺らす言葉だった。




