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悪役令嬢、婚約破棄されましたが、帳簿だけは正確でした  作者: 南蛇井


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第七幕 第二章 王太子の願い

店の奥。


市場の喧騒から少し離れた、小さな部屋。


木のテーブル。

椅子が二つ。

壁には小さな棚。


窓から差し込む光に、粉が細かく舞っている。


レティシアは茶を置く。


湯気が静かに立つ。


王太子アルドリックは、しばらくカップを見ていた。


王城の銀器ではない。

金の装飾もない。


ただの陶器。


だが、妙に落ち着く。


やがて彼は口を開いた。


「戻ってきてくれ」


部屋が静かになる。


市場の声だけが遠くに聞こえる。


レティシアは表情を変えない。


驚きも。


怒りも。


喜びも。


何も浮かばない。


ただ、彼を見る。


アルドリックは続ける。


「王都は……」


そこで言葉が止まる。


何と言えばいいのか分からない。


王都は繁栄している。


城は豪華。


魔法装置は世界一。


それでも。


「止まっている」


その言葉がやっと出る。


レティシアは黙って聞く。


アルドリックは言葉を探す。


「すべてはある」


「金も」


「魔力も」


「制度も」


「だが」


彼は窓の外を思い出す。


この街の煙。


人の動き。


働く手。


「流れがない」


レティシアの目が、わずかに細くなる。


アルドリックは続ける。


「命令は届く」


「制度もある」


「だが」


「動かない」


王城の会議。


貴族の議論。


聖女庁の権威。


魔導院の理論。


すべては整っている。


しかし。


誰も責任を取らない。


誰も決断しない。


誰も変えない。


「私には……」


言葉が詰まる。


王太子として、言うべきではない言葉。


だが、言わなければならない。


その時。


レティシアが静かに言った。


「回せないのですね」


アルドリックは顔を上げる。


彼女の声は冷たくない。


ただ事実を置いただけ。


アルドリックはゆっくり頷く。


「そうだ」


「回らない」


「誰も回さない」


「私も……」


一瞬、言葉が止まる。


「私も、回し方を知らない」


沈黙。


レティシアはカップに手を添える。


温度を確かめるように。


そして小さく言う。


「王都は巨大ですから」


責める言葉ではない。


観察の言葉。


アルドリックはうなずく。


「大きすぎる」


「制度が」


「権力が」


「魔力が」


そして。


「私よりも」


その言葉に、レティシアは少しだけ目を上げる。


アルドリックは真っ直ぐ彼女を見る。


逃げない。


隠さない。


「必要なんだ」


部屋の空気がわずかに変わる。


アルドリックは続ける。


「君が」


それは求婚ではない。


謝罪でもない。


命令でもない。


ただの願い。


王太子としてではなく。


一人の人間として。


助けを求めている。


レティシアはしばらく何も言わなかった。


窓の外。


市場の声。


パン窯の火。


そのすべてが静かに流れる。


やがて彼女は言う。


「王太子殿下」


その呼び方は変わらない。


しかし声は少しだけ柔らかい。


「戻れば」


一度言葉を区切る。


「また同じ構造になります」


王城。


貴族。


聖女。


魔導院。


中央集権。


すべてが彼女を飲み込む。


「私は」


レティシアはカップを置く。


小さな音。


「それを直すつもりです」


アルドリックの目が動く。


レティシアは続ける。


「助けることはできます」


「ですが」


まっすぐ彼を見る。


「戻りません」


静かな拒絶。


だが、それは拒絶ではない。


条件。


「代わりに」


レティシアの声が少しだけ変わる。


政治の声。


交渉の声。


「国の仕組みを変えます」


アルドリックの背筋が伸びる。


彼女は続ける。


「行政」


「聖女制度」


「魔力使用」


「地方統治」


一つずつ。


王国の根幹。


「すべて再設計します」


沈黙。


普通なら。


不敬。


反逆。


だが。


アルドリックはゆっくり言う。


「……やってくれ」


レティシアはわずかに眉を上げる。


王太子は続ける。


「それが必要だ」


そして、静かに付け加える。


「この国には」


「君のような人間が」


「必要だ」


レティシアは少しだけ視線を落とす。


そして。


小さく息をついた。


「では」


彼女は言う。


「条件を出します」


パン窯の火が揺れる。


その小さな店で。


王国の未来を決める交渉が始まった。

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