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悪役令嬢、婚約破棄されましたが、帳簿だけは正確でした  作者: 南蛇井


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第七幕 選択 第一章 再訪

辺境の朝は早い。


空気は冷たく、

石畳はまだ夜の湿り気を残している。


市場の準備が始まる音。

荷車の軋み。

井戸の滑車の音。


その通りを、一台の馬車が静かに進んでいた。


豪奢ではない。

王家の紋章も目立たない。


護衛も少ない。


王太子アルドリックは

窓の外を見ていた。


以前来た時と、同じ景色。


油灯。

水車。

風車。

朝の煙。


パン窯の煙。


生活の煙。


馬車が止まる。


市場の奥。


小さなパン屋。


扉の前で、アルドリックは少しだけ立ち止まった。


以前ここに来た時。

彼は王太子だった。


今日は違う。


扉を押す。


鈴が鳴る。


カラン。


暖かい空気。

焼きたての匂い。


小麦と火の匂い。


そして。


奥にいる人物。


レティシア。


袖をまくり、

粉のついた手でパンを並べている。


普通の服。

王都のドレスとは程遠い。


彼女は顔を上げる。


一瞬だけ目が合う。


驚きはない。


ただ、わずかに目を細める。


そして言った。


「またいらしたのですね」


まるで近所の客を見るような声。


アルドリックは言葉を探す。


だが、すぐには出ない。


王太子としての言葉ではない。


政治の言葉でもない。


しばらくして、やっと口を開く。


「……頼みがある」


レティシアはパンを棚に置く。


布で手を軽く払う。


そして彼の方を見る。


逃げない。

驚かない。

期待もしない。


ただ、聞く姿勢。


「どのような?」


アルドリックは一歩近づく。


王城ではない。

議場でもない。


ただのパン屋。


しかし。


彼にとって、ここが一番重い場所だった。


「国を」


一度言葉が止まる。


呼吸を整える。


「国を、立て直したい」


レティシアは黙る。


パン窯の火が小さく鳴る。


パチ。


市場の声が外から聞こえる。


彼女は少しだけ首を傾けた。


「それは」


静かな声。


「王太子殿下のお仕事では?」


アルドリックは頷く。


「そうだ」


「だから」


「君に頼みに来た」


沈黙。


レティシアはしばらく彼を見ていた。


王都で見た王太子。


断罪の場の王太子。


そして。


今ここにいる男。


すべてを比べるように。


やがて彼女は言う。


「お茶を淹れます」


奥へ向かう。


アルドリックは止めない。


それは彼女の答え方だと知っているから。


少しして。


湯気の立つ茶が運ばれてくる。


テーブル。


二つの椅子。


以前と同じ光景。


レティシアは座る。


「では」


カップを置く。


「条件の話をしましょう」


アルドリックの目がわずかに動く。


彼女は続ける。


「戻りません」


最初にそれを言う。


はっきりと。


「王都にも」


「王城にも」


「王妃にも」


ならない。


沈黙。


だがアルドリックは頷く。


それは、予想していた答えだった。


レティシアはさらに続ける。


「それでもよろしいなら」


「私は協力できます」


アルドリックの指が、わずかに震える。


希望。


恐れ。


両方。


「ただし」


レティシアは真っ直ぐ彼を見る。


「国の形を変えます」


パン窯の火が揺れる。


その炎の前で。


王国の未来が、初めて交渉のテーブルに乗った。

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