第10章:王太子の沈黙
子どもが走り去ったあと、
パン屋にはまた静けさが戻った。
窯の火が、低く鳴る。
外では市場のざわめきが続いている。
王太子アルドリックは、
その音を聞きながら座っていた。
目の前には、
湯気の立つ茶。
だが手を伸ばさない。
言葉を探していた。
謝罪。
後悔。
あるいは弁解。
どれでもいい。
何か言うべきだと、
頭では分かっている。
だが。
口が開かない。
謝れば、
自分の判断が誤りだったと認めることになる。
後悔を口にすれば、
王太子の決断が国を傾けたと告白することになる。
弁解すれば、
もっと見苦しい。
王太子だから。
王国の象徴だから。
その立場は、
言葉を許さない。
沈黙だけが残る。
レティシアは急かさない。
ただ、
新しい茶を注ぐ。
湯気がゆっくりと立ちのぼる。
その様子を、
アルドリックはぼんやりと見ていた。
思い出す。
王都の夜会。
あの断罪の瞬間。
彼は確信していた。
正しい判断だと。
王国の秩序のため。
民の信頼のため。
そう思っていた。
だが今、
この小さなパン屋で、
その確信は形を失っていた。
街は回っている。
人が働き、
市場が動き、
子どもが笑う。
ここには、
王命も、
勅令もない。
それでも、
国がある。
彼はようやく理解する。
言葉を探しても、
見つからない理由を。
もし一言でも口にすれば。
その瞬間、
自分の敗北を
認めることになるからだ。
王太子は、
黙ったまま茶を口に運ぶ。
温かい。
少しだけ苦い。
そして、
その沈黙は、
誰も宣言しないまま、
確かにそこにあった。
王太子アルドリックの敗北だった。




