第9章:レティシアの言葉
しばらくのあいだ、
誰も話さなかった。
窓の外では、
市場のざわめきがゆっくりと流れている。
荷車の軋む音。
遠くで誰かが笑う声。
窯の火がぱちりと弾ける。
王太子は、
そのすべてを聞いていた。
王都では、
聞こえなくなっていた音だった。
やがて、
レティシアが口を開く。
静かな声だった。
「この街は」
少しだけ窓の外へ目を向ける。
「まだ小さいです」
市場の端。
簡素な屋台。
新しく建てたばかりの木の柵。
未舗装の道。
「失敗も多い」
実際、
昨日も揉め事があった。
小麦の価格を巡って、
農家と商人が言い争った。
井戸の修理も、
予定より三日遅れた。
完璧ではない。
むしろ、
不完全だ。
レティシアは続ける。
「でも」
少し間が空く。
窓の外を歩く人々。
荷を運ぶ若者。
子どもにパンを渡す老女。
それを見ながら、
彼女は言う。
「皆が働いています」
声は淡々としていた。
誇りも、
自慢もない。
ただ、
事実を述べるだけ。
「それだけです」
王太子は何も言えない。
その言葉は、
とても小さい。
だが、
王都の巨大な会議室で
何時間も交わされる議論よりも、
重かった。
皆が働いている。
ただそれだけ。
王都では、
それが止まりかけている。
決める者がいない。
責任を取る者がいない。
怒る者もいない。
だから、
誰も動かない。
だがここでは、
誰も王命を待たない。
必要だから動く。
足りないから考える。
失敗する。
また直す。
王太子は、
ゆっくりと息を吐いた。
その視線の先で、
パン屋の扉が開く。
子どもが顔を出す。
「レティ!」
元気な声。
レティシアが振り向く。
「パン、まだ?」
彼女は少しだけ笑う。
「もうすぐです」
子どもは頷き、
また外へ走っていく。
その背中を見送りながら、
王太子は思う。
王都では、
誰も彼女を名前で呼ばなかった。
「公爵令嬢」
「王太子妃候補」
肩書きばかり。
ここでは違う。
ただ、
レティ。
それだけだった。




