第二章。不条理な罰。
撤退は素早かった。
タイミングの悪さに一瞬固まってしまったけど、ナギさんの鼻がピクリと動き、獲物に気づかれぬように口をそーっと開いた瞬間にズボンをあげた。
あと一秒遅かったら、あの口に囚われていただろう。
「パフッ」と空気を咥えたナギさんが「チッ」と舌打ちを鳴らしたのを見て思った。
本能って怖い。
改めて状況を説明すると(首謀者がニーヤだと言う事を強調した)ナギさんは一瞬驚いた顔をし、そして笑った。
「違いますよ。精が足りないわけじゃありません。でも、ありがとうございました。気持ちはすごく嬉しいです」
「アンタ、知ってるのね? 倒れた理由」
ニーヤの言葉に、ナギさんが静かに頷く。
その表情は笑みこそ浮かべているが、どこか儚げで、切ない。
「これは――罰なんです」
「私達サキュバスは、このように人に擬態する能力があります。人に混じり、人の精を獲やすくする為の能力です。逆に言えば、その為だけの能力なんですよ。獲物を獲るためだけの、一時的な能力」
「アンタはずっと魔力を使ってる状態で、それで身体に負担がかかってるってわけでしょ? だったらそれこそ、精を吸い取れば回復するんじゃないの?」
ナギさんは首を振る。
「逆なんです。魔力を抑えているんですよ。人に擬態するために、より人間らしくするために、魔力を抑制しているんです。身体に負担がかかっているのは、その通りですけどね」
――我慢は身体に毒ですから。と自虐的に笑う。
「お店が忙しくなるにつれ、やっぱり男性のお客様が多いですからね、それなりに感化されてしまうんですよ。それでも、何とか抑えられてはいたんですけどね」
「僕の所為――だよね」
僕が来て、強烈な精の匂いを嗅いだから。
言ってみれば、昨夜の彼女は暴走していたんだ。
必死に抑えていた魔力が、僕の匂いで暴走した。
「気にしないで下さい。ケンセイさんが気に病む事ではないんです。さっきも言ったとおり、これは罰です。魔族としての本質を隠し、人に成りすます罪への罰。自然の摂理を無視した、中途半端な私への罰なんです」
姉妹の為に、姉妹を守る為に。
魔族で在りながら、人で在ろうと願った彼女。
その願いが罪だと言うのなら、一体この世界の何処に功があるというのか。
彼女が罰を受ける条理はない。
でも世界はいつだって不条理で、絶望に満ち溢れている。
「だから、もう気にしないで下さい。この話は終わりにしましょう」
――パチン、と手を叩く。
重くなった空気を変えるために、取り繕うように笑って。
「でも、もしあのまま精をかけられたら大変でしたよ。今のケンセイさんの精をまともに吸ったら、もしかしたらウイリアごと吹き飛ばしちゃうくらい魔力が――」
「――何とかしよう」
黙ってなんか居られない。
苦しんでる彼女を見過ごす事なんて出来ない。
「何か方法があるはずだよ。きっと」
知ってしまったからには、出来るだけの事をする。
不条理を嘆き、絶望に染まるのはそれからでも遅くは無い。
「方法ねぇ――。魔力を抑えられればいいって事でしょ? いっその事、角と羽取っちゃったら?」
「えっ!?」
ニーヤの突拍子もない提案に、ナギさんが驚きの声をあげる。
「いや、流石にそれはちょっと……。気軽に試せる感じじゃないですよね……」
ごもっともだ。高確率で命に関わると思う。
「何か呪文とかないのかな?」
「魔力を制限するものはいくつかありますが、どれも一時しのぎですからね。永続的に、となると、ちょっと心当たりはありませんね」
何か無いか。皆が考えているとき。
ペロ様が口を開いた。
「ペニスリン」
「!?」
ななななんだって!?
今、間違っても気軽に口に出しちゃいけない言葉が聞こえた気がする!
誰だ! ペロ様に変な言葉を教えたやつは! 誰の淫ぼ――陰謀だ!
「まさか……でもあれは……」
モミさんが驚愕する。
そりゃそうだ。突然幼女がなんの脈絡もない単語を放ったのだ。驚かない方がどうかしてる。
「ペヌスリン――強大な魔力をも封じると言われる伝説の秘薬。私も話だけは聞いた事があります」
ん? 何だって?
「も、モミさん。もう一度お願いします! その名前!」
「え? ペヌスリンですか?」
どうやら僕の聞き違いだったらしい。何を考えてるんだ僕は。
「でも、アレはそれこそ伝説上の、御伽噺に登場するようなモノじゃありませんか?」
モミさんの質問に、ペロ様は首を振った。
「存在、する」
「ペロ知ってるの? どこにあるか」
ニーヤの問いに、ペロ様が躊躇するように、ゆっくりと口を開いた。
「栗花の森」
聞きなれない言葉。知らない場所。
だけど、それは僕だけなんだろう。
ニーヤも、モミさんも、ナギさんも、その場所を知っていた。
そして、彼女達の様子から察する。
ピクニック気分でいけるような場所じゃないって事を。
「禁足地――栗花の森ね……」
「き、禁足地って何……?」
「決して足を踏み入れてはならない場所の事よ。毒の風が吹く谷とか、宗教の聖地だったり。理由は色々あるんだけどね。
栗花の森はこうも呼ばれるわ。人の支配の及ばぬ地――もう一つのガジガラってね」
人の支配の及ばぬ地、ガジガラ。
それは、この世界で魔界と呼ばれる場所だ。
「じゃあ、魔物がいるって事?」
「だと思います。遠い昔、三国の同盟軍が森に向かったけど、誰一人戻って来なかったという話もあるくらいです。普通の魔物ではないでしょう」
三国の同盟軍が全滅……想像を絶する。
そんな場所に僕達がいけるはずもない。
でも、僕達だけじゃなかったら。
「アミルに頼んでみよう。魔界なら、彼女の庭みたいなもんじゃないかな?」
「へー。アンタにしては珍しくマトモな意見じゃない。確かに、魔王なら何とかなるわよね」
人の支配が及ばない場所なら、人じゃなければいい。
魔界なら、魔界の王が居ればいい。
幸いにも、僕達は彼女を知っている。
「違います」
それまで黙っていたナギさんが口を開いた。
「違うって、何が?」
「栗花の森は、もう一つの魔界なんかじゃないんです。禁足地――それは間違っていません。でも、それは人間だけじゃないんです。私達魔族にとっても同じ。あそこは人の支配が及ばぬ地ではなく、人も魔族も――誰の支配も及ばぬ地なんです」
「それは――知りませんでしたね。まぁ当然と言えば当然ですが……」
いくら博識なモミさんでも、魔族の事までは分からないだろう。
「ちょっと待って、だったら栗花の森には何が居るってのよ?」
「あそこにいるのは――神の一族」
ナギさんの言葉に、僕達は思わずペロ様を見た。
「神の守護者――エルフです」
彼女は呟くように言った。
「伝説の秘薬の次は、伝説の種族……? 冗談でしょ? エルフなんて本当にいるわけ?」
「多分――としか言えませんね。さっきも言ったとおり、あそこは私達魔族にとっても禁足地ですから」
「ペロ様……エルフは存在するんですか?」
モミさんの言葉に、ペロ様が頷く。
何故彼女が知っているのか、それは単純な話。
見た目は幼女だが、彼女はれっきとした神の末裔。
ペロディア神の子孫なのだ。
人も魔族も知らなくても、神は知っている。
伝説とされているエルフは、確かに存在するのだ。
でも、僕には分からなかった。
どうして彼女達がそんな深刻そうな顔をしているのか。
「エルフって――そんなに厄介な種族なの?」
僕のイメージするエルフと言えば、森で迷った旅人をひっそりと助けるような、心優しい森の妖精――そんなイメージだ。
耳がとがっていて、武器はやっぱり弓だろう。
「古い神話に登場するエルフは、無慈悲で残虐な描写が多いですね。神々の神殿に足を踏み入れた人間達の首を刈り取って並べたとか、そんなお話ばかりです」
なにそれこわい。全然イメージ違うんですけど。
「正直――エルフはちょっと苦手。子供の頃に読んだ絵本でさ、アタシちょっとトラウマなんだよね……。本当に居るって知りたくなかったくらいよ……」
こんな弱気なニーヤは見た事が無い。
苦手なモノや怖いモノなんて無いと思っていた。
いくら幼少時代とはいえ、そんなニーヤにトラウマを植えつけた本がめちゃくちゃ気になる。
「あの……本当に、大丈夫ですから。この話は忘れましょう」
ナギさんが言った。
確かに、今回はあまりにも危険な気がする。
魔族ですらも敬遠する神の一族。僕達人間がどうこうできる相手ではない。
神と交渉など――出来るはずもない。
なら、諦めるのか?
ナギさんの苦しみから目を逸らして。
世界にはびこる不条理を受け入れて。
謂れ無き罪と罰を認めるのか?
答えは――否だ。
「僕は――行きたい。世界を創ったのが神で、エルフが神の一族なら、その世界にはびこる不条理の責任を取ってもらおう。少しくらい人を助けたって、罰は当たらない。僕達にだって、それくらい願う権利はあるんじゃないかな」
「アンタ――神に喧嘩売る気なの?」
「そんなつもりはないよ。お願いに行くだけ。神頼みってやつさ」
「ほんっと……退屈しないわね」
ニーヤが微笑む。
「ついて来てくれる?」
「アンタ一人で行かせたら、辿り着くまでに死んじゃうわ」
「では、早速行程を練りましょうか」
そう言って、モミさんが地図を広げる。
彼女達といる幸運を、僕は心から噛み締めた。




