第八話 『ニューヨーク・ダダ』そして、常識を裏返した女
【ニューヨーク・ダダをめぐる人々】
今回のお話では、エルザ・スキャパレッリがアメリカで出会った、前衛芸術の世界を描きます。
その中心にいたのが、既存の芸術の常識を揺さぶった「ダダ」の芸術家たちです。
本文を読む前に、登場する人物を簡単にご紹介します。
◆ マルセル・デュシャン(1887–1968)
フランス生まれの芸術家。
既製品を芸術作品として提示する「レディメイド」の試みで知られています。代表例の一つが、男性用小便器を《泉》と題して発表した作品です。
「芸術とは何か」「誰が芸術の価値を決めるのか」という問いを、作品そのものによって投げかけました。
◆ マン・レイ(1890–1976)
アメリカ生まれの芸術家・写真家。
絵画だけでなく、写真やオブジェなど、さまざまな表現方法を探りました。
見慣れた物や日常の風景を、意外な角度から見せることで、新しい意味や不思議な感覚を生み出しました。
◆ フランシス・ピカビア(1879–1953)
フランスの画家。
既存の芸術様式にとらわれず、機械的なイメージや抽象的な表現などを取り入れ、ダダの活動にも関わりました。
◆ ガブリエル・ビュッフェ=ピカビア(1881–1985)
フランシス・ピカビアの妻で、エルザの友人。
エルザがニューヨークの前衛芸術家たちとつながるうえで、重要な役割を果たした人物です。
◆ キャサリン・ドライヤー(1877–1952)
アメリカの芸術家・美術支援者。
デュシャン、マン・レイとともに、現代美術を紹介する団体「ソシエテ・アノニム」の活動を支えました。新しい芸術を生み出すだけでなく、それを社会に伝え、残していくことにも力を注ぎました。
【ニューヨーク・ダダとは?】
ニューヨーク・ダダは、第一次世界大戦の時代に生まれた前衛芸術の運動です。
戦争を生み出した社会の価値観や、伝統的な芸術の決まりごとに疑問を投げかけ、偶然、不条理、挑発などを表現に取り入れました。
ニューヨークでは、
デュシャンやマン・レイ、ピカビアらが交流し、既製品や写真、機械的なイメージなどを使って、芸術の境界を揺さぶりました。
ただし、ニューヨーク・ダダは、厳密な規則を持つ一つの団体ではありません。
さまざまな芸術家が互いに刺激を与え合う、緩やかなつながりでした。
その世界に身を置いたエルザは、何を見て、何を感じたのでしょうか。
彼女が後年生み出す独創的なファッションを思い浮かべながら、一人の女性が自分の表現を探していく物語をお読みください。
第八話 『ニューヨーク・ダダ』そして、常識を裏返した女
一九一六年。
ヨーロッパでは、第一次世界大戦が続いていた。
大砲が街を破壊し、若者たちが戦場へ送られ、昨日まで信じられていた文明の輝きが、泥と血の中で揺らいでいた。
人間は理性を持つ生き物だという。
文明は人を進歩させるという。
芸術は美しいものを生み出し、人々の心を豊かにするという。
では、これほどの殺戮を生み出した文明とは、いったい何だったのだろう。
美しい絵を描き、立派な建物を建て、進歩を誇っていた人々が、なぜ互いを殺し合うのか。
ヨーロッパの一部の芸術家たちは、そんな疑問を抱きはじめていた。
彼らは、古い芸術の決まりごとだけでなく、それを支えてきた社会の常識や権威まで疑おうとした。
その動きの一つが、ダダだった。
*
ダダの出発点として知られるのは、スイスのチューリヒである。
戦争に巻き込まれることを避け、国境を越えて集まった芸術家や詩人たちは、キャバレー・ヴォルテールなどで、奇妙な詩を読み、風変わりな衣装をまとい、音楽や舞台を組み合わせた実験的な表現を試みた。
意味の通らない言葉。
偶然に任せた文章。
ばらばらの音をつなぎ合わせた詩。
伝統的な芸術の目から見れば、ふざけているようにしか思えないものもあった。
しかし、彼らにとって、そのふざけたような表現には意味があった。
理性や秩序を誇ってきた社会が、戦争という巨大な不合理を生み出したのなら、その社会の価値観を、無条件に信じる必要はないのではないか。
美しいものだけが芸術なのか。
意味がわかるものだけに価値があるのか。
権威ある人間が認めなければ、作品は作品になれないのか。
ダダは、そうした問いを、時に挑発的に、時に滑稽な形で突きつけた。
やがて、この精神はチューリヒだけにとどまらず、ニューヨークにも広がっていく。
ただし、ニューヨークのダダは、ヨーロッパの運動をそのまま移したものではなかった。
そこには、アメリカの都市文化や写真、機械、広告、既製品といった、近代の生活に結びついた独特の実験があった。
そして、その中心にいた人物の一人が、マルセル・デュシャンだった。
*
デュシャンは、芸術家とは何かという問いを、作品そのものによって突きつけた。
彼の考え方を象徴するのが、後に「レディメイド」と呼ばれる手法である。
レディメイド。
つまり、すでに世の中にある既製品を、芸術作品として提示する試みだ。
芸術家が自分の手で形をつくることだけが、芸術なのだろうか。
もし、日常の品物を選び、それを別の文脈に置くことで、新しい意味が生まれるとしたら。
芸術の本質は、手を動かして物をつくることだけではなく、物の見方を変えることにもあるのではないか。
一九一七年、デュシャンは《泉》と題した男性用小便器を、ニューヨークの独立芸術家協会の展覧会に出品しようとした。
作品には「R・マット」という署名が記されていた。
それは、芸術の権威に対する挑発だった。
しかし、作品は展示を認められなかった。
この出来事は、芸術とは何か、誰が芸術を認めるのかという問題を、世間の目の前にさらすことになった。
もちろん、デュシャンが日常の品物を芸術と呼んだからといって、何でも無条件に芸術になるわけではない。
大切なのは、その物を選んだ理由、置かれた場所、そして見る人に生じる問いだった。
芸術とは、目の前にある物だけで完結するのではない。
それを見る人の考え方まで、揺さぶることがある。
この考え方は、エルザ・スキャパレッリがのちに取り組むことになるファッションとも、どこかで響き合う。
服は、身体を覆うための布にすぎないのか。
それとも、着る人と見る人の想像力を動かす表現になりうるのか。
エルザがデュシャンの理論をそのまま服へ移した、と断定することはできない。
しかし、彼女が生きたニューヨークには、既成の物の意味をひっくり返し、見ることそのものを問い直す芸術家たちがいた。
その事実は、彼女の人生を考えるうえで見逃せない。
*
もう一人、ニューヨークの前衛芸術を語るうえで欠かせない人物がいた。
マン・レイである。
画家であり、写真家でもあった彼は、絵画だけにとどまらず、さまざまな方法で表現の可能性を探っていた。
写真は、目の前の現実を正確に写し取るためだけのものなのか。
カメラがなければ、写真はつくれないのか。
見慣れた物を、別の角度から見たらどうなるのか。
マン・レイは、そうした問いを、写真やオブジェなどの作品を通じて追いかけた。
彼の仕事には、偶然や意外性が入り込む余地があった。
物の形を変えなくても、光の当て方や配置を変えるだけで、見え方は変わる。
何でもない物が、突然、奇妙な存在に見える。
見慣れていたはずの世界が、ほんの少しの仕掛けで、別の世界に変わってしまう。
そこに、マン・レイの実験の面白さがあった。
デュシャンが「何を芸術と呼ぶのか」という問いを突きつけたとすれば、マン・レイは「私たちは、物をどのように見ているのか」という問いを、別の方法で探っていたともいえる。
そして二人は、互いの仕事に刺激を与え合った。
芸術家たちは、孤独な天才として、それぞれの部屋に閉じこもっていたわけではない。
友人と話し、作品を見せ合い、冗談を言い、時には相手の常識を笑い飛ばした。
その交流の中から、新しい表現が生まれていった。
ニューヨーク・ダダは、厳格な規則を備えた一枚岩の団体ではなかった。
デュシャン、マン・レイ、フランシス・ピカビアらを中心に、さまざまな芸術家や知識人が交わり、互いに刺激を受けながら、既存の芸術の境界を揺さぶっていたのである。
*
その世界へ、エルザはどのように入っていったのだろう。
彼女は、ローマの知識人の家庭に生まれた。
父は学問に親しみ、家には本があった。
幼いエルザは、周囲の人々が当然だと思っていることに、疑問を抱く少女だった。
しかし、疑問を持つことと、それを世の中で形にすることは違う。
少女時代の彼女は、自分の想像力を思いどおりに生かせる場所を、まだ見つけていなかった。
結婚し、ヨーロッパを離れ、アメリカへ渡った。
そこでも、人生は思い描いたようには進まなかった。
結婚生活は破綻へ向かい、娘のゴゴを育てながら、自分の暮らしを支えなければならなくなった。
芸術への憧れがあっても、それだけで生活が成り立つわけではない。
エルザは、母親としての日々を送りながら、自分自身の道も探していた。
一九一六年の船旅で、彼女はガブリエル・ビュッフェ=ピカビアと知り合った。
ガブリエルは、画家フランシス・ピカビアの妻であり、前衛芸術家たちの世界に深くつながっていた女性だった。
二人の出会いは、エルザにとって大切な転機となる。
ガブリエルとの友情を通じて、エルザは、デュシャンやマン・レイらが活動する芸術家たちの輪へとつながっていった。
そこでは、作品を見て「これは美しい」と言うだけでは、話が終わらなかった。
なぜ、これを美しいと思うのか。
誰が、その基準を決めたのか。
そもそも、美しいと感じさせる仕組みそのものを変えたら、どうなるのか。
エルザにとって、その会話や作品との出会いは、どのような経験だったのだろう。
彼女自身が、そこで何を考え、誰の言葉にどう反応したのか。そのすべてを、確かな記録から再現することはできない。
けれども、彼女がその芸術家たちと交流し、彼らの活動する世界に身を置いていたことは重要である。
エルザは、すでに完成されたファッションデザイナーとして、そこにいたのではない。
自分の人生を立て直そうとしていた、一人の女性として、そこにいた。
彼女の目の前では、芸術の常識が次々と疑われていた。
絵画は、必ずしも美しい風景や人物を描かなくていい。
写真は、現実をそのまま写すだけでなくてもいい。
ありふれた品物も、置かれた場所や与えられた意味によって、人の考えを揺さぶることがある。
ならば、服はどうだろう。
服は、流行に従ってつくられるものなのか。
女性の身体を、既存の美の基準に合わせるためのものなのか。
それとも、着る人の姿を通して、世界の見え方そのものを変えられるのか。
エルザが、この問いをその場で明確な言葉にしていたという証拠はない。
しかし、彼女が後年に生み出していく作品を考えるとき、ニューヨークで経験した前衛芸術との交流は、見過ごすことのできない背景になる。
彼女は、既成の価値観を疑う芸術家たちの近くにいた。
その経験が、彼女の想像力を刺激しなかったと考えるほうが、むしろ不自然ではないだろうか。
*
一九二〇年、デュシャンとマン・レイは、キャサリン・ドライヤーとともに、現代美術を紹介する活動を進めていた。
ソシエテ・アノニムである。
その活動は、作品をつくるだけでなく、新しい芸術を人々に見てもらい、理解する機会を広げようとするものだった。
芸術を変えるには、作品を生み出すだけでは足りない。
それを展示する場所がいる。
見に来る人がいる。
作品の価値を考え、記録し、次の世代へ伝える仕組みもいる。
ここにも、芸術を社会の中で成立させるための工夫があった。
エルザ自身も、こうした前衛芸術家たちのネットワークと関わりを持っていた。
ただし、彼女がその活動のどの部分に、どの程度参加したのかについては、個々の記録を慎重に見なければならない。
確かなのは、彼女が芸術を一人きりの思いつきとして育てていたわけではなかった、ということだ。
人との出会いがあった。
作品をめぐる議論があった。
新しい表現を試みる仲間たちがいた。
そして、エルザ自身にも、既存の形に満足しない好奇心があった。
一九二一年には、デュシャンとマン・レイが雑誌『ニューヨーク・ダダ』を刊行した。
それは、ニューヨークのダダを象徴する出来事の一つとなった。
しかし、その頃には、前衛芸術家たちの動きも変化していた。
人々は移動し、活動の場所を変え、パリとニューヨークの間を行き来していた。
エルザもまた、いつまでも同じ街にとどまっていたわけではない。
一九二二年、彼女は娘のゴゴとともにパリへ移った。
ニューヨークで出会った人々と、そこで見たもの。
それらは、彼女の人生から消え去ったわけではなかった。
*
ここで、ひとつ考えておきたい。
ダダは、エルザに何を与えたのだろう。
「ダダの影響を受けたから、スキャパレッリの奇抜な服が生まれた」
そう書けば、話は簡単になる。
だが、人間の創造性は、それほど単純ではない。
エルザは、ニューヨークへ渡る前から、想像力に富んだ女性だった。
彼女には、ローマで育った経験があった。
文学や芸術への関心があった。
そして、結婚や出産、生活の困難を通して、自分自身の生き方を探す時間があった。
前衛芸術家たちとの出会いは、そうした彼女の中にあったものを、別の方向へ開くきっかけになったのかもしれない。
常識を疑ってもいい。
見慣れた物を、別の意味で捉えてもいい。
美しさは、整っていることだけではない。
驚きも、違和感も、笑いも、芸術の入口になりうる。
そうした発想は、やがて彼女が服をつくるときにも、響き合っていくことになる。
もちろん、服をつくるには、想像力だけでは足りない。
布を選ぶ。
形を考える。
職人と協力する。
身体に合うように仕立てる。
そして、着る人のもとへ届ける。
芸術の実験を、実際に身につけられる服へと変えるには、別の技術と現実感覚が必要だった。
エルザは、まだその道の途中にいた。
ニューヨークで得た経験を、どのように自分の表現へ結びつけるのか。
それは、これからの課題だった。
*
パリへ戻ったエルザの前には、もう一つの世界が広がっていた。
ファッションである。
当時のパリには、女性の服を変えようとするデザイナーたちがいた。
その一人が、ポール・ポワレだった。
ポワレは、従来のコルセット中心のシルエットから離れた服を提案し、女性の身体を包む形そのものを変えようとしていた。
彼の仕事は、エルザがこれから足を踏み入れる世界を考えるうえで、大切な背景となる。
やがてエルザは、ポワレとの出会いを経て、ファッションの世界へ本格的に進んでいく。
しかし、ニューヨーク・ダダとパリのファッションは、まったく同じものではない。
芸術家が作品に込めた挑発を、そのまま服に移せばよいわけでもない。
服には、着る人の身体がある。
動きやすさがある。
素材の制約がある。
そして、それを買い、身につける人々の日常がある。
エルザは、芸術の自由と、服という実用品の現実を、両方とも引き受けなければならなかった。
その難しさこそが、彼女の創造性を育てることになる。
後年、彼女は、だまし絵のような模様を用いたニットや、意外な形のボタン、芸術家たちとの大胆な協働によって知られるようになる。
シュルレアリスムの芸術家たちとの協働も、その表現をさらに広げていった。
だが、それらは最初から決まっていた未来ではない。
ニューヨークでの出会いだけが、すべてを生み出したわけでもない。
彼女の好奇心、技術を持つ人々との協働、パリのファッション界での経験、そして商売として作品を届けるための工夫。
それらが重なって、エルザ独自の世界が形になっていったのである。
ニューヨーク・ダダが、彼女に何を残したのか。
それは、特定の作品を真似ることではなかったのかもしれない。
むしろ、こんな問いだったのではないだろうか。
**「それは、本当に、その形でなければならないのか」**
服は、服らしくなければならないのか。
美しさは、誰もが知っている形の中にしかないのか。
人を驚かせることは、服の役割から外れているのか。
エルザは、まだ答えを持っていなかった。
しかし、答えが一つしかないとは、もう思っていなかった。
海を渡った女性は、パリへ戻った。
ニューヨークで出会った芸術家たちと、その作品。
常識を裏返すような実験。
そして、自分自身の人生を立て直そうとする日々。
それらは、彼女の中で、まだ名前のない何かになっていた。
やがて、その何かは、一枚のセーターに姿を現す。
平らな布の上に、まるで本物のような白いリボンが描かれたセーター。
見る人は、思わず目を疑うことになる。
それは、ただ身体を温めるための服ではなかった。
着る人の身体を使って、見る人の常識に小さな揺さぶりをかける服だった。
その驚きの背後には、ニューヨークで触れた前衛芸術の世界と、エルザ自身が歩んできた人生があった。
次の章で、彼女の才能は、ようやく人々の目に見える形を取りはじめる。




