↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『エルザとガブリエル、ふたりの天賦の才』  作者: 東曌


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/12

第十話 Hollywood 銀幕の大スター、 ディートリヒの脚線美 と ガルボの低い声

第十話 Hollywood 銀幕の大スター、MGM ディートリヒの脚線美 と パラマウント ガルボの低い声



一九三〇年、ベルリン。


映画『嘆きの天使』のスクリーンに、ひとりの女が現れた。


マレーネ・ディートリヒ。


舞台の上には、椅子が置かれている。彼女はそこに腰を下ろし、片脚を持ち上げた。白い肌、網タイツ、そして観客の視線を正面から受け止めるような表情。


その脚は、ただ長いだけではなかった。


膝の曲げ方、足首の角度、裾からのぞく肌の見せ方。何気ない仕草のはずなのに、そこには不思議な計算が感じられた。


観客は、彼女を見た。


そして、彼女を見たことを、なかなか忘れられなくなった。


ディートリヒを世界的なスターへ押し上げたのは、映画監督ヨーゼフ・フォン・シュテルンベルクだった。彼は彼女の顔に、光と影によって変化する豊かな表情を見いだした。


頬骨の線。伏せたまつ毛。わずかに開いた唇。


光が当たれば、彼女は妖艶な女になる。影が落ちれば、何を考えているのかわからない謎めいた女になる。


そして、脚。


彼女の脚線美は、やがて伝説になった。


だが、伝説というものは、いつも事実だけでできているわけではない。


ディートリヒには、頬をこけさせて美しく見せるために奥歯を抜いた、という噂があった。若い女性たちが、あの頬のくぼみを再現しようとしたという話まで伝えられている。


しかし、ディートリヒ本人は、奥歯を抜いたという話を否定している。彼女の説明によれば、『嘆きの天使』では、むしろ顔の丸みを際立たせるような照明が使われていたという。


では、あの頬のくぼみは何だったのか。


骨格か。化粧か。光の当て方か。それとも、スクリーンの向こうにいる女を、観客が自分の想像のなかで作り上げていった結果なのか。


少なくとも、奥歯を抜いたという噂を、事実として受け取ることはできない。


けれども、ひとつ確かなことがある。


彼女の顔は、それほどまでに人々の関心を集めていたのだ。



## 一 脚線美は、偶然の産物ではない


スターの伝説は、顔だけでは終わらなかった。


ディートリヒの脚には、莫大な保険がかけられていた――そんな話も、彼女をめぐる逸話のひとつとして広まった。


本当に保険がかけられていたのか。どれほどの金額だったのか。


確かな事実として断定するには、慎重でなければならない。


それでも、この話が生まれた背景は想像できる。


彼女の脚は、ただ身体の一部ではなかった。映画の宣伝写真にも、舞台の姿にも、観客が彼女を思い出すための象徴として刻まれていたからだ。


伝説は、本人が作るものばかりではない。


観客が驚き、記者が書き、誰かが話を膨らませ、やがて最初の出来事がどこにあったのかさえ、わからなくなる。


ディートリヒの脚線美もまた、そうした伝説の中心にあった。


ただし、彼女の美しさを、長い脚という生まれつきの条件だけで説明することはできない。


舞台で、どちらの脚を前に出すか。腰をどう向けるか。歩き出す前に、どれほどの間を置くか。衣装の裾が動く瞬間をどう見せるか。


舞台上で脚を美しく見せるため、立ち方や動きを工夫し、リハーサルを重ねたという逸話も伝わっている。


細かな手順のすべてを確実な史実として語ることはできない。だが、彼女が舞台上の自分の見せ方にこだわったことは、映画や舞台の仕事を通して考える価値がある。


美しさは、ただ与えられるものではない。


姿勢があり、歩き方があり、照明がある。衣装の切れ目から何を見せ、何を隠すのかという判断もある。


ディートリヒは、自分の身体が観客にどう見えるかを、ひとつの表現として扱った。


だから、彼女の脚線美は、単に脚の長さを褒める言葉では終わらなかったのである。



## 二 男の服を着た女


一九三〇年、ディートリヒはアメリカへ渡り、パラマウント映画のスターとして新たな道を歩み始める。


ハリウッドで彼女が身につけた衣装のなかでも、強い印象を残したものがある。


タキシードだ。


当時、男性の正装として広く認識されていた服を、彼女は堂々と着こなした。


女性がズボンをはくこと自体は、すでに一部の場面では見られた。だから、彼女が世界で初めて女性にズボンをはかせた、というわけではない。


それでも、ディートリヒがスクリーンでタキシードを着た姿は、強烈だった。


男性の服を借りた女性ではない。


男性の服を、自分の魅力の一部に変えてしまった女性だった。


すらりとした脚は、スカートからのぞくときだけ美しいのではない。ズボンに包まれ、まっすぐに伸びたときにも、別の美しさを生み出す。


そこには、服の意味を変える力があった。


女性の身体は、こう見せなければならない。女性は、このような服を着るべきだ。


そうした決まりを、彼女は長い説明によって論破したのではなかった。


ただ、着てみせた。


そして、観客に問いかけた。


なぜ、女性がこの服を着てはいけないのだろう。


ここで、エルザ・スキャパレリの仕事を思い出したい。


エルザは、服に意外な形や視覚的な仕掛けを持ち込み、着ることそのものを芸術的な表現へ変えようとした。


ディートリヒは、服を身につける身体そのものを、ひとつの表現にした。


ふたりは同じ仕事をしていたわけではない。エルザはデザイナーであり、ディートリヒは女優であり歌手だった。


しかし、服は布だけでは完成しない。


誰が着るのか。どう動くのか。どんな表情をするのか。どのような光のなかで見られるのか。


そのすべてが重なったとき、衣服は観客の記憶に残る。


ディートリヒは、そのことを全身で証明した女性だった。



## 三 もうひとりの女王、グレタ・ガルボ


同じ時代、ハリウッドにはもうひとり、観客を魅了する女性がいた。


グレタ・ガルボ。


スウェーデン出身の彼女は、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、通称MGMを代表するスターのひとりだった。


ディートリヒがパラマウントで輝いたのに対し、ガルボはMGMで独自の存在感を築いていた。


ふたりは、同じように美しい女優として語られることがある。


しかし、その魅力は同じではなかった。


ディートリヒの美しさには、観客の目を正面からとらえる強さがあった。衣装も、脚も、表情も、見られることを恐れない。


一方、ガルボには、見ている者を少し遠ざけるような謎めいた雰囲気があった。


近づきたいのに、近づけない。


彼女が何を考えているのか、簡単にはわからない。


その距離こそが、ガルボの魅力になっていた。


そして、一九二〇年代末から映画界を大きく変えていったのが、音声の導入だった。


無声映画の時代、俳優たちは表情や身振りによって感情を伝えた。ところが、映画が音声を持つようになると、声そのものがスターの命運を左右することになった。


美しい顔があっても、声が観客の期待に合わなければ、それまでの人気を保てるとは限らない。


ガルボもまた、その転換期を迎えていた。


一九三〇年、彼女は『アンナ・クリスティ』で初めて本格的なトーキーに出演した。


MGMが宣伝に用いた言葉は、短く、強烈だった。


「ガルボがしゃべる!」


それまでスクリーンのなかで沈黙していた大スターが、ついに声を発する。


観客は、その声を聞くために映画館へ向かった。


そして、ガルボの声は、彼女の魅力を損なうどころか、新しい魅力を加えた。


低く、落ち着いた声。


当時の批評でも、その深い声が注目された。


ガルボは、無声映画の女王であることをやめずに、音声映画の世界へ移っていったのである。


ディートリヒが、光と影、衣装と身体を使って観客の視線を引き寄せたのなら、ガルボは、沈黙と声によって観客を引きつけた。


ふたりの女王は、同じ時代のスクリーンに立ちながら、異なる方法で人々の心をとらえたのだった。



## 四 美貌の向こうに、伝説が生まれる


ディートリヒをめぐる話は、脚線美や頬のくぼみだけではない。


彼女の美しさに魅了された作家アーネスト・ヘミングウェイとの交流も、後年の逸話のひとつになっている。


ふたりには書簡のやり取りが残されている。


ただし、ヘミングウェイが彼女の頬のくぼみに夢中だった、といった細部を、確かな事実として言い切るのは避けたい。


伝説は、実在した人物の関係に、後世の想像をまとわせることがあるからだ。


それでも、ディートリヒが作家や芸術家たちの関心を引きつけたことは、彼女が単なる映画スターではなかったことを考える手がかりになる。


彼女の魅力は、顔の美しさだけでは説明できない。


男装もする。華やかな衣装も着る。脚を大胆に見せることもあれば、タキシードで身体の線を覆うこともある。


見せることと隠すこと。


女らしさを強調することと、既存の女らしさから距離を取ること。


ディートリヒは、その両方を自分の表現に取り込んだ。


だからこそ、人々は彼女について語り続けたのだろう。


脚には保険がかけられたのか。


奥歯を抜いたのか。


どんな角度で立てば、あれほど美しく見えるのか。


伝説が多いということは、すべての逸話が真実だという意味ではない。


むしろ、本人の実像と、人々が想像したスターの姿が、いつしか重なってしまったということなのかもしれない。


ディートリヒは、自分自身をひとつの芸術作品のように見せる術を身につけていた。


その結果、彼女の人生は、事実だけでは語りきれないほど多くの物語を生み出した。


そして、その物語の中心には、いつも彼女自身の姿があった。



## 五 歌う女、リリー・マルレーン


だが、マレーネ・ディートリヒの人生を、脚線美と映画の伝説だけで終わらせてしまうわけにはいかない。


彼女は、歌手でもあった。


第二次世界大戦が始まると、ディートリヒはナチス政権に協力する道を選ばず、アメリカで活動を続けた。一九三九年にはアメリカ市民となり、戦争が激しくなると、戦時公債の活動や兵士たちへの慰問にも参加するようになった。


一九四四年から四五年にかけて、彼女は北アフリカやヨーロッパの前線近くへ赴き、連合軍兵士たちの前で歌った。


映画館のスクリーンに映るスターとは違う。


そこには、兵士たちと同じ場所に立ち、同じ空気を吸い、危険を承知で歌うディートリヒがいた。


彼女の代表的な歌として世界に知られるようになったのが、「リリー・マルレーン」だった。


この歌は、ディートリヒが最初に生み出したものではない。


第一次世界大戦中の一九一五年に書かれた詩をもとに、一九三八年に曲がつけられた。第二次世界大戦中、ラーレ・アンデルセンの録音などを通して広まり、兵士たちのあいだで歌われるようになった。


ディートリヒもこの歌を歌い、連合軍兵士たちの前で届けた。


やがて「リリー・マルレーン」は、国境や言葉の違いを越えて、戦場にいる人々の心を結びつける歌として知られるようになる。


敵と味方。


勝つ側と負ける側。


それぞれの制服を着た兵士たちにも、故郷を思い、誰かを恋しがり、明日を生きて帰りたいという気持ちがあった。


歌は、その感情に触れた。


ディートリヒの声は、映画のなかで人々を魅了した声とは、少し違う意味を持つようになった。


華やかな衣装も、完璧に整えられた照明もない場所で、彼女は歌った。


脚線美で知られたスターが、泥と寒さのある場所へ出向き、兵士たちのために声を届ける。


その姿は、彼女の伝説に新しい一章を加えた。


美しさは、若さだけに閉じ込められるものではない。


銀幕の上では、脚の角度ひとつで観客を魅了した女性が、戦争の時代には歌声によって人々の記憶に残っていく。


彼女は、ただ美しいだけのスターではなかった。


自分の身体も、衣装も、声も、すべてを使って何かを表現する舞台人だったのである。


## 六 服は、誰かが着て初めて動き出す


ここで、もう一度エルザ・スキャパレリへ戻ろう。


エルザは、服を作った。


色を選び、布を選び、形を考え、ときには現実には存在しないような奇妙なものを、着られる服へと変えていった。


けれども、どれほど独創的な服でも、誰かが着なければ、身体とともに動くことはない。


ディートリヒのような女優が着ることで、服はスクリーンのなかで意味を持つ。


歩けば布が揺れる。


振り返れば襟の線が変わる。


脚を伸ばせば、ズボンの形が新しい美しさを生む。


服は、身体とともに動くことで、初めて観客の記憶に刻まれる。


エルザは、服を通じて世界の見方を変えようとした。


ディートリヒは、その服を身につける自分自身を通じて、観客の見方を変えた。


どちらも、ただ美しいものを作るだけでは満足しなかったのだ。


一九三〇年代の映画界には、マレーネ・ディートリヒやグレタ・ガルボのように、それぞれ異なる魅力を持つ女優たちがいた。


彼女たちは、同じ時代の女性でありながら、同じ姿を目指したわけではなかった。


そして、服を作る側にも、エルザとガブリエル・シャネルという、異なる発想を持つ女性たちがいた。


シャネルは、身体を締めつけず、生活のなかで動ける服を追求した。


エルザは、服に意外性や想像力を持ち込み、着ることを芸術的な経験へ変えようとした。


しかし、その違いだけを並べて、どちらか一方を正しいと決めることはできない。


女性の身体を自由にする服も、女性が夢をまとうための服も、必要とする人がいる。


そして、その服をどう着るかによって、新しい意味が生まれる。


ディートリヒの脚線美をめぐる伝説は、彼女の美しさを語るものだった。


けれども、その伝説の向こうには、身体の見せ方を磨き、衣装を使いこなし、最後には歌声で人々の心に触れた、ひとりの表現者がいた。


彼女を伝説にしたのは、長い脚だけではない。


顔も、姿勢も、歩き方も、衣装も、声も。


そのすべてを使って、自分自身を表現し続けたことだった。


そして、時代の影は、次第に濃くなっていく。


パリのサロンで服を選ぶ人々にも、ハリウッドのスクリーンを見つめる観客にも、やがて戦争の現実が迫ってくる。


夢を着ることのできた時代は、まだ終わっていない。


だが、その夢を守ることが、これからは簡単ではなくなるのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。