4. small is beautiful
春の盛りでも、明け方はとても冷える。
このあたりは湿気が少なく空が澄み、曇る日が滅多にない。それで日のあるうちに地表に溜まった熱が、夜の間にすぅっと空へと抜けてしまう。
そこに、山の斜面を伝って冷気が降りてくる。
そうしてあたりを包む冷たい空気に触れ、石造りの建物は床から壁から、じんわりと冷たさを滲ませる。底から冷える。
さらり。
衣擦れの音が耳をくすぐる。
床に敷いた厚いフェルトの敷物の上に重ねた毛織の敷布、隅に控えめな織柄の入った毛織の掛け布。
布の中に、くるまるようにして、ほんの少しもぞもぞと身じろぎしている。
寝床の中だけは、ぬくぬくと暖かい。
目はしっかり覚めているのに、なかなか寝床から出ることができない。
「私」だった頃も、寒い日の朝は布団を出るまでが大仕事だった。
ぐーっと身を縮めて、勢いに任せ、掛布を跳ね除ける。
「さむっ」
感じたそのままに小さく呟いて、寝床から飛び出した。
このくらい勢いを付けないと、寝床の魔力から逃れられない。
布棚に畳んでいた上衣を羽織り、帯を巻く。下腹のあたりが軽く引き締まり、気持ちが切り替わる。
すとんとまっすぐ立つ。
すぅぅぅ…
できるだけ細く長く滑らかに、冷たい空気を吸う。呼吸に合わせて両手を前に差し上げ、肩幅ほどに足を開く。
ふぅぅぅ…
同じように細く長く滑らかに、息を吐く。両手をゆったりと下ろしながら、真っ直ぐに軽く重心を落とす。
すぅぅぅ…
また息を吸うのと合わせて両手を差し上げ、大きなボールを腕の中に柔らかく抱くイメージで静止。その姿勢のまま、細く長く滑らかに、一定の周期で呼吸を整える。
これも「私」だった頃からの朝のルーティンだ。
ただ無心に立つ。
──ただ立ってればいいね。
──上手く立とうとか考えると崩れるね。
文海おじさんに口酸っぱく言われたものだった。
歩幅の大きさ、体重の置き場所、膝の向きと角度、両手の弧の大きさ、力の張り具合と抜き具合……
最初の頃は、自分の身体の状態ひとつひとつがどうしても気になって。
そのたび繰り返し繰り返し、上手く立とうとするなと指摘された。
考えずに立てるようになるまで、どのくらい掛かったかな。
ともかくも、朝、こうして何も考えずただ立つという時間を持つことが、いつの間にかルーティンになっていた。
部屋の中の光と影を見るでもなく、目に映るままに任せ、少しずつ覚めていく家の中の物音を聞くでもなく、耳に入るままに任せる。
入ってくるもの全てに身を任せるようにして、ただ立つ。
小さな鳥の囀り。
かすかに聞こえる水の跳ね音と、火の弾ける音。
囁くように抑えた声でベリルとリャナンがかわす朝の挨拶の声。
静かに、だけど忙しく動く人の気配。
明け方、少しずつ家が目を覚ます時間。
やがて小麦の焼ける匂いが、ふわりと漂い始めた。
出汁と香草の煮える匂いは、昨晩の豆のスープを温めているのだろう。
ぐぅるるぅ。
「マリクのお腹は、今日も元気ね」
「あっ」
盛大に鳴った腹の音を聞かれ、気恥ずかしさで声が上ずった。
ドア代わりに掛けられた入口の布越しに、姉のハリカの影が映る。
「おはようございます、マリク」
布をまくり上げ、おっとりとした笑顔が覗いた。
布を持ち上げる指先も、こちらを覗き込む首の傾け方も、優美で柔らかい。
なのに、左手には木剣。
たぶん、外で素振りでもしてきたのだろう。貴族令嬢の見本と言いたくなるような整った容姿と所作とは裏腹に、彼女は武術に熱心だ。
まだ十歳になる前の華奢な手のひらが剣ダコで固く締まっていることを、家族みんなが知っている。
「……おはようございます、あねうえ」
「今日も立ち方のお稽古?」
ふふ、と柔らかい笑みを浮かべつつ小首を傾げ、ぼくを見る。
「うん」
「でも、そろそろ朝ごはんの時間よ。顔を洗ってこなくちゃね」
頷いたぼくを見て、ハリカは少しだけ目を細めた。
「はい」
站樁の姿勢を解いたとたん。ハリカにぎゅっと抱きしめられ、よしよしと頭を撫でられた。
抱きしめる腕は柔らかいけれど、とても力強い。
この姉上は隙あらば、ぼくを猫可愛がりする。いつものことだけど、いつものように気恥ずかしい。
「マリクはいつも早起きでえらいわね」
「かお、あらってくる」
もう一度うなづいて、ぼくは逃げるように水場にむかった。
朝の中庭は、陽の光がまだ差し込んでいない。代わりに、柔らかい光に包まれている。
渦巻き模様のある古い柱の影が、石床に薄っすらと映る。
この屋敷の部屋は、中庭をぐるりと囲むように並んでいる。
部屋の出入り口は全て中庭に向かい、回廊でつながる。
だから、向かいの部屋に用事があるときは中庭を横切るのが早いのだけど、そういうのは「お行儀が悪い」と叱られる。
お行儀に頓着が薄いゼキやシェナハはしょっちょう叱られ、ぼくも考え事をしていてうっかりで叱られたのが何度か。父のアイベルクが叱られる場面に遭遇したときは、少しだけ、どうしたものかと戸惑う。
……そう。この家で、お行儀破りはしょっちゅうでもある。
回廊の中庭側に並ぶ列柱を視界の端に、つらつらと思ううちに、水場についた。
「おはようございます、あにうえ」
水場には、すでに顔を洗ってすっきりした顔の兄、シェムがいた。
「おはよう、マリク」
爽やかな笑顔でシェムが応える。
上衣も帯も乱れなく端正に整え、姿勢よく立っている。
年は、ハリカとぼくのちょうど真ん中。日本ならまだ小学校に上がろうかという頃なのに、朝からきちんとしている。というか、朝だけでなくいつもきちんとしている。
当然、お行儀破りなんかしたこともない。
「今日もマリクは早起きだね」
「あにうえも」
兄上も早いねと相槌を打ちつつ、石の水盤に手を差し入れると温かい。
「……まほう?」
「そう。生活魔法の練習」
子供らしく誇る様子はなく、シェムは頷いた。
「まだまだ、ぬるいお湯が精一杯だけどね」
むしろ小さくはにかむように付け足した。
この世界には魔法と魔術がある。
生活魔法は、少し生活を便利にしてくれる程度の小さなもので、魔術の基礎の手前と言われている。実際、使える人は珍しくないらしい。
けど、ただ水をぬるま湯にする程度であっても、シェムの年頃で使えるのは珍しいのじゃないかと思う。
知ってる限りの村の子供たちの中にも、シェムと同じくらいの歳で生活魔法を使える子は知らない。ハリカの年頃で、ようやく練習を始めるかどうか…と聞いた。
「あにうえ、すごい」
すごいことなんだから、もう少し誇らしくしたらいい。
「母上やリャナンに早く並びたいからね。このくらいで満足してはいけない」
照れくさそうに。
これで顔立ちは父母に似て整ってるし、武術の修行も始めたばかりとは言え、筋がいいらしい。人柄も爽やかで謙虚で真摯。とどめに、辺境伯家の嫡男ときたら、将来有望すぎて世のご令嬢が放っておかないだろうな。
ばしゃばしゃと、顔を洗いつつ、埒もないことを思う。ぬるま湯がありがたい。
「ありがとう」
「どういたしまして」
笑顔でお礼を言ったら、笑顔と手拭いが返ってきた。
ハリカと同じで、シェムもなんだかんだ、チャンスさえあればぼくのお世話を焼きたがるんだよな。
顔を拭いてすっきり。
「さ、朝ごはんだよ。食堂に行こう」
シェムは濡れた手拭いをぼくから受け取って濯ぎ、絞って、手拭い掛けに戻す。
すっと自然な仕草で手を差し出した。
「はい」
頷いて、シェムに手を引かれつつ食堂に向かう。
シェムの歩幅は、ぼくに合わせて少しだけ小さい。
ぐぅるるぅ。
いっそう濃くなった焼けた小麦と煮えた出汁と香草の匂いに、またお腹の音が大きく鳴った。
……ちょっと恥ずかしかった。
次の投稿は明日 06:00am です。




