3. Sweet Disposition
夕焼けの空が、ほんの少し青みを帯び始めた。
ふわふわのちぎれ雲が赤と紫と金色を映し、静かで賑やかな色彩が、とてもきれいだ。
幼い子供のころ、時間を忘れて遊んだ日を思い出す。
ご近所のお宅から夕飯の匂いが漂ってお腹を鳴らしたあたりで、やっと気づいたりして。
いや、こちらの世界では、今まさに、その子供のころ真っ只中だ。
ふっと我に返ると、焼けたパンの匂いが、かすかに鼻をくすぐった。
「あ!」
そう、時間を忘れて遊んでしまっていた。うん、叱られる。
「まりー?」
突然、声をあげたぼくの顔を、シェナハが怪訝そうに覗き込む。
幸いトゥナとエリフは、他の子供たちと一緒に、とうに帰っていた。
砦と村はそう離れていないらしい。だとしても、子供だけで出歩いていいわけじゃない。日が暮れ始めたらなおさらだ。普通に危ない。
で、二人を見送ってから、もう少しだけ……
と、言う流れでシェナハと遊んでいたんだけど。
うん、まずいね。
やっと気づいたか、という顔でゼキがぼくを見ている。いつも通りのにやけた顔。
これは分かってて泳がせてたな。
「ゼキも、いっしょ」
ジト目でゼキを見返す。一緒に叱られてもらうからな!
「しぇなーもいっしょ!」
どうやらこの後に待つイベントを察していないらしいシェナハが、無邪気に混ざりに来る。
まぁ、察してても一緒に叱られるのは決まってる。涙目の道連れだ。
「やー、そろそろ帰らなくっちゃいけねぇと、思っちゃいましたよ?」
「おもってるだけ!」
しれっと言うゼキを指さして糾弾する。
本当に、このにやけ顔の護衛は、もう。
「かえろう」
シェナハの手を軽く引く。
「もうちょっと?」
軽く小首を傾げて。いや、なに言ってるのかな、この子は。
「リャナン、おこってるよ」
シェナハのお母さんは、こういうことに、ちょっと厳しい。ぼくの母のベリルもそうだけど。
二人とも、タイプは違うのに、怒ったときの静かさと圧がものすごいんだよ。
笑顔のまま、場が凍るんだ。
「おー?」
いまいちピンと来てないシェナハは、間の抜けた声。
「くらくなるまえに、って」
いつも言われてるよね。なんなら一昨日も、しっかり叱られたばっかりだし。
「あ!」
やっと分かったのか、シェナハの口がわっかのように大きく開く。
「まりー、かえる!」
さっきとは逆にシェナハがぼくの手を引いて、走り出す。
あまりに急で、がくんっと引っ張られる感じ。
「ゼキっ、あしがっ」
「あー、坊っちゃん、俺は後から追っかけるんで、お構いなく。お先にどーぞ」
にやけた顔のまま、ゼキが見送る。
逃げる気だな!
そう思いつつも、シェナハの足は止まらない。引っ張られるぼくも止まらない。
少しずつ暗くなる澄んだ空気の中に、ほんの少し乾いた土埃が混じった。
砦の中の風景が、慌ただしく視界を流れていく。
北側にどっしりとそびえる砦の外壁に向かって走り、土埃で赤茶けた白漆喰の建物の横を駆け、建物の脇と外壁との間、家人用の出入り口に飛び込んで、走り抜ける。
もう目の前に、我が家、エドレト家の居館。
重く硬い石壁の間に空いた入口に、ふわりと揺れる布が内と外を隔てる。
そこに、ほっそりと柔らかい人影が二つ。
赤みがかった蜂蜜色のシルエットがぼくの母、ベリル。赤みがかった金色にぴんと立った三角の耳のシルエットがシェナハのお母さん、リャナン。
うん、もう出てるね。すっごい圧が。
ぴたっとシェナハの足が止まる。
「まりぃ〜」
あわあわと口元を震わせて、ぼくの顔を見る。
頭を振って応じる。
諦めよう。
「みゃーっ」
ピンチの猫みたいな声。いや君、赤狐人だろう。
さらに、ぼくの後ろに回り込んで隠れ、背中からぼくを押し出す。
可愛いけど、うん、ダメだよ。
「楽しかったのね」
にこにこと母、ベリルの声が掛かる。
「きっと、お約束を忘れるくらい」
いっそ優しげな笑顔と声なのに、どうしてこんなに圧があるのかな。
「た、ただいま」
「おかえりなさい」
「おかえりなさい」
母ふたり、息ぴったりの笑顔で迎えながら、ぼくたちを見る。土埃まみれの頭のてっぺんから爪先までしっかりと。
「ずいぶん、たっぷり遊んだのねぇ」
「転がりましたね?」
ふふふふ、と柔らかい笑みに、場の空気が固く凍りついた。
「か、かったよ?」
あわあわしながら、でもちょっとだけシェナハがアピールする。
うん、自慢したいんだね。気持ちは分かるけど、今じゃないんだ。
「土の上、ごろごろしちゃったのねぇ」
頬に手をあて、母が小首を傾げる。困ったわぁと、おっとりと言いたげな仕草なのに、空気が重いんだよ。
じわ、と涙目になってしまう。
ぴしっと固まって動けないぼくとシェナハを、リャナンはじっと見て。
「それで、そのままお家に入るつもりですか?」
目がすっと細まる。
あ。
慌て過ぎて、忘れてた! いつも、お家の前まで近づく前に、砂や塵を落としてから入ってきなさいって言われてたのに。
シェナハも気づいたみたい。涙目でぷるぷるしている。
「「ごめんなさい」」
ぼくたちは声を揃えて回れ右。脱兎の勢いで家人用の出入り口まで戻った。
さっき走り抜けたばかりの家人用の出入り口、石壁と石床に囲まれたそこは、いつも、ちょっとひんやりしている。少し湿った空気と土埃、革の匂いが、かすかに混じり合い漂っている。
上衣用や靴用など何種類かのブラシと固く絞った布、手洗い用の鉢が備え付けられていて、外から建物に入るときには、まずここで埃を払うのが作法なんだと教わった。
家人のうっかりくらいは叱られて済むけど、公の用事や、よその貴族家への訪問で怠ると相当な無礼にあたるんだとも。
うちも貴族の屋敷ではあるから、このあたりのうっかりは、真面目に叱られる。
「私」が生きていた日本と違って、一年のほとんどが、からりと乾いて砂埃の立ちやすいこの土地で、家の中に塵を持ち込まない生活の知恵から生まれた作法なんだろう。
そういう生活の知恵や、ちょっとした気遣いが形式化して、厳しくなったりすることもあるのは、どこも変わらないよね。
とりとめもなく思いつつ、ぱたぱたと上衣やズボンを手ではたく。
叩けば埃の出る身(物理)…なんてねぇ。
「まりぃ〜」
叩いても、はたいても、払っても、もわもわと出る土埃にシェナハが情けない声をあげる。
今日はずいぶん、ころころと転がったもんなぁ。
シェナハは尻尾がふわふわな分、なおさらだよね。
上衣を脱いで、ばっさんばっさん振り回す。空気がかき回されて、家の方から漂う羊の脂と香草、焼けたパンの匂いを感じた。うん、お腹が減ったよ。
視界の端には、尻尾の埃落としに苦戦中のシェナハがわたわたしている。
このままじゃ、しばらくご飯がお預けになりそう。
何か使えるものはないかな、と辺りを見回す。備え付けのブラシのセットに目が留まる。
革外套用のブラシを見つけ、手に取る。
靴用ほど固くなく、軽く肌や手足を払う用ほど柔らかすぎない。毛皮を梳くのに適してるわけじゃないけど、そこは妥協だな。
「シェナハ、ちょっとがまんね」
ブラシで、尻尾を、少ししっかりめに梳く。
ぞわぞわっとくすぐったそうに、シェナハが硬直する。
ちょっとの我慢だからね。
「まりぃ〜〜〜」
さっきよりも情けない声を出しながら、肩越しにシェナハが見る。
「ちょっとだけ、がまん」
心を鬼に……することもなく。ちょっと面白くなってこみ上げそうになった笑いをこらえつつ。
とはいえ、そのうち暴れだしそうなので、手早くぱぱっと。
「ちょっとはまし?」
「う、うーん?」
解放されて力を抜いたシェナハが、しっぽをふりふり。
さっきよりは、いくらかましになったんじゃないかな?
そんな風に精一杯、砂埃を落としてみたんだけど。
結局、それくらいじゃ埃は落ちきらなくて、二人仲良く沐浴場に放り込まれた。
次の投稿は明日 06:00am です。




