3. Somewhere Far Beyond
子安頼人。48歳。製造業のコーポレートIT部門の中間管理職。
妻の和歌は、先立って故人。
長女、やひろは、今年の春から新社会人。
長男の景義は、工学系の大学生。
趣味は陳式太極拳。太極拳の師は叔父の張文海で、日本人の妻と結婚して日本に帰化した中国人。
つらつらと思い浮かべながら、どことも知れない暗闇の中を歩く。
正気、かどうかは自信がないが、意識はしっかりある。
たーん……たーん……
あのときの不思議な音が、さっきから拍動を刻んでいる。
あれは、流石に助からなかったはずだ。
受けたはずの傷を、実感もなく思い出す。
容赦なく深く、内臓を抉られた。
流石に今までの人生で、経験のないことだ。だが、人の身体の作りや急所は文海おじさんから叩き込まれている。割と手荒な指導方針で。
だから、私は死んだはずだ。
やひろと景義は無事に逃れただろうか。
あの男は、ちゃんと止められただろうか。
多分、ちゃんと勁は徹った。まともに徹っていれば、しばらく動けない。
大丈夫だと思うが……
思うが、ちゃんと見届けられていない。今から確認したくても、できそうにもない。
気がかりで、胸の奥が落ち着かない。
そもそもにして、私は、どうして暗闇の中にいるのか。
あるいは夢か……
それとも……
「あの世、という概念は似ているようで、違う」
不意に、声を掛けられた。
足を止めて左右を見回す。
見回したところで暗闇の中。姿を捉えられるわけでもない。
それでもまぁ、人間、習慣化した仕草は咄嗟に出るものだ。
なんとなく、こっちかな、という方向に視線を向ける。
「だとしたら、ここは、どこでしょうか?」
「境界、かな」
涼しく凛々しい女声。
たぶん、視線の先に居るのだろうと感じる。しかし、声がその方向から来ているようには聞こえない。もっとどこか違う場所、耳元で囁くような……
「このままだと話もしにくいか」
気配が動いた。
ふわりと少しぼやけた光が辺りを満たし、視界が開けた。
岩肌と濃緑に囲まれて、ぽっかりと開けた空間。
その中心に、戦装束の長身の女性が立っていた。
右手に手槍、左手に円盾。手甲にすね当て、胸当て。
足元にはライオンが大人しく侍り、しかし油断ない眼でこちらを見ている。
およそ現代日本で目前にすることのない光景。
いったいここは、彼女は、なんなのか?
「混乱しているな。手短に説明しよう」
私の視線を受け止め、わかったという風に頷いて、彼女は言った。
「いえ。いや、それもそうなのですが……」
「子供たちだね」
やんわりと先回りされて、頷く。
「残念だが、私も直接、知るすべをもたない。だが……」
じっと私を見つめて、一拍。
私の目を通して何かを読み取るように。
「君の最後の一手は、ちゃんと届いたようだ。子供たちに刃が届くことはないだろう」
彼女は揺れることない言葉で言い切った。
何を根拠にしてかは分からない。だが不思議と間違いないと思えて、ほっと息が漏れる。
「喪失は短くない間、心にわだかまるだろう。だが、それも定命の理。それに、君の子供たちなら、負けることはないだろう」
「そう、ですね」
そればかりは仕方ない。早いか遅いかの違い…と割り切ることはできないが。
幸い、もう二人とも大人だ。
家のローンは生命保険で相殺される。景義の大学卒業までの費用も、蓄えでなんとかなるだろう。いざとなれば文海おじさんもいる。
子供たちの未来を見られないのは本当に残念だが。
「それで君のこれからのことだが」
目の前で思いに沈む私を、たっぷりと待って。
私の視線が再び彼女に戻ったところで、静かに言葉を続けた。
「君は、あちらから、そちらへ往く」
うん、まったく説明になっていない。
「君の命を奪ったアレはそちらから来て、あちらに往った」
物わかりの悪い子供を諭すような、ゆっくりと穏やかなトーンで説明が続く。
「命を奪うことで君を弾き出し、アレはあちらに定着した。弾き出された君は、そちらへ往く」
丁寧に丁寧に説明してくれているのは分かる。
だが、何を言ってるのかさっぱり分からない。
そちらとは何処なのか。文脈から、あちらとは私が居た場所を指しているとは察せられるが。
それではまるで……
「水瓶に水をなみなみ注ぐ。小石を落とす。水が溢れてこぼれる。水瓶があちら、こぼれた先がそちらだな」
満足げに彼女は頷く。
よく分かっただろう、と自信げに口角を上げて目を細めるが…うん、分からないよ。肝心なことがさっぱりだ。
「その”そちら”とか”あちら”というのが、さっぱり分かりません」
「君がいた場所があちら。ここが、境界。君がこれから落ちていくのがそちら、だな。他に言いようがない……」
困ったように眉をひそめる。言えないのか、説明する言葉がないのか。
「せめて、その”そちら”というのがどんな場所か教えてもらえませんか?」
食い下がってみる。
よく分からないが、ここまでの会話からすると、彼女の戦装束がコスプレ扱いにならないような場所なんだろう。だとしたら、まぁ、それは異世界……ってことになるんじゃないか?
うちに何冊もあったラノベで定番の。
「まぁ、いいところだよ。色々あるが、うん、私はそう思う」
ふわり、と目元と頬がゆるむ。
愛しく思っているんだろう。よく伝わる。
ただ、それは知りたいことと、ちょっと違う。
「名を与えるのは簡単だが危ういことだ。それから……私の装束は、そちらでも少しばかり時代遅れだな。あまり見かけないと思う」
「それは歴史資料……いや、宝物として保存された遺物が歩いてるみたいなもんですか?」
「なかなかの度胸だな?」
ぶんっ、とほとんど予備動作もなく突き出された槍を慌ててかわす。
視界の端に、ぬらりと穂先の鈍色が輝いている。
二度死ぬところだった! いや、境界だからセーフってことなのか?
「このくらいかわすだろうと思ったが…ずいぶん、驚いているな?」
目を細め、喉の奥でころころ笑う。
イタズラが成功した少女のような表情だ。
「君は武術をやるだろう? 私の知るものとは、だいぶ違っているが。あちらでは皆、君くらい遣うのか?」
「いえ……たぶん、少しばかり時代遅れの類だと思います。あまり必要とされる技術じゃなくなったので」
自分の身体を使って戦う…という時代じゃないからな。倫理的にも、技術的にも。
「なるほど。歴史資料が息して動いてるようなものか」
くつくつと彼女が笑みをためる。
私も合わせて口の端を上げて、肩をすくめてみせる。
「私もまさか、実戦で遣う羽目になるとは思ってませんでした。単純に面白かったのと、心身を整えるために続けてただけなので」
「その割には戦えるじゃないか」
「師匠も変わり者だったので」
文海おじさんを思い浮かべる。現代社会の武術修行としては物騒な内容を普通に混ぜてくるような人だったからな。
──戦うために武術をやるなんて老古董の考えね。
──太極拳は宇宙と仲良くなる方法なのよ。
そう言いながら、ぶんぶん剣やら槍を振り回してきたのは、流石に納得いかなかった。
まぁ、役に立ってしまったが。不本意ながら。
「いい師についたな。よく整っている」
満足げに槍を引き戻し、こつん、と石突で足元を叩く。
「だが、”そちら”の武術とは少し違う。あれらは、そこまで整えない」
「整える、ですか…」
中国拳法の中でも北方の、とりわけ太極拳を含む内家拳は、そのあたりを重視するからな。そういう意味では”あちら”の武術でも、ちょっとユニークな気がする。
「そこまで整えなくても戦えるからな」
「はぁ……それって、つまり、戦うことが日常の中にあるってことでしょうかね?」
「生きるというのは戦うのと同義だよ」
いや、そういう哲学的な意味じゃない。
「まぁ、より直接的な、物騒な意味での戦いも、珍しいものではない」
分かってる、という風に頷いて彼女は続けた。
「どこもかしこも、誰も彼もというわけではないが」
なるほど。なら、危うきに近づかなければ……
「ただ、君が往く先は、とりわけ物騒だ。少しばかり事情があってね」
上げて落とさないで欲しい。
「事情っていうのは?」
「寝坊助の旦那様が迷惑を掛けていて……色々と、理が乱れている」
「勘違いなら正して欲しいんですが。つまり、戦争なり魔物なりで、かなり血なまぐさいことになっている、と?」
「……」
彼女は問いかけに肯定とも否定とも取れない、曖昧な笑みを浮かべた。
「まぁ、君なら大丈夫だろう。そろそろ頃合いだ」
再び槍の穂先を私に向ける。足元で獅子が身を起こす。
「私は古き山の守り、獅子の女。旦那様は春を連れて歩く寝坊助の若木。覚えておく必要はない……が、覚えていたら、旦那様のことをよろしく頼む」
最後に我が子を送り出す母の優しい笑みで。
とん。
槍の石突で地面を叩く。
地面にひびが入り、薄い床板のように割れて、隙間から闇が覗き……
たーん。
あの不思議な音が耳の奥で鳴った。
落ちる。
深い深い場所へ……
ふたたび、暗転。
次の投稿は 06:00am です。
読み味で気になったところを手直ししました。あと、ルビを追加しました。内容はほとんど変わっていません。




