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夏は、いよいよその盛りを迎えていた。
容赦なく照りつける太陽。どこまでも高く広がる眩しい青空。
「よし! 今日は海に行こう!」
朝食を食べ終えた凪が、弾んだ声で楽しそうに宣言した。
「うみ……?」
朔はその聞き慣れない響きを、静かに反芻するように繰り返す。
「朔、海って見たことある?」
「……ない」
「じゃあ決定!」
凪は満面の笑みで立ち上がった。
「今日は朔に、この世界で一番広くて綺麗な景色を見せてあげる!」
**
電車とバスを乗り継ぎ、揺られること約一時間。
二人がたどり着いたのは、視界いっぱいに広がる海水浴場だった。
潮の香りを含んだ、力強い夏風が吹き抜ける。
寄せては返す、真っ白な波しぶき。
空と海の境界線すら溶けてしまいそうなほど、どこまでも続く濃い青。
「……」
朔はその場に足をとめ、呆然と立ち尽くした。
これほど途方もない量の水を見たことがない。
水平線の彼方、どこまで続いているのかさえ見当もつかない。
「どう……?」
凪が誇らしげに、嬉しそうに尋ねる。
朔は水平線から一切目を離さないまま、小さく息を漏らすように呟いた。
「……広い」
たった一言。
けれど凪には、その一言に込められた朔の深い感動が伝わってきた。
「でしょ? 私も小さい頃に初めて見た時、まったく同じこと思ったもん」
凪は楽しそうに笑うと、持ってきたバッグを持ち上げた。
「じゃあ、私着替えてくるね! ここで待ってて!」
***
十分ほどして。
海岸沿いの更衣室から、凪が姿を現した。
白を基調とした、清楚でシンプルなデザインの水着。
夏の日差しを受けて、健康的に輝く肩や腕、そしてすらりと伸びたしなやかな脚。
「お待たせー!」
手を振りながら走ってくる凪を目にした瞬間。
朔の全身の動きが、ピタリと固まった。
「……」
「……朔?」
凪が不思議そうに顔を覗き込む。
朔はすっと視線を横へ逸らした。……だが、気になってチラリともう一度見る。
そして、今度は勢いよく真横へ逸らす。
あからさまに動揺しているその挙動に、凪は首をかしげた。
「どうしたの? 変かな……?」
しばらく固まっていた朔は、意を決したように重い口を開いた。
「……凪」
「うん?」
「その……そのような肌を露わにした装いで、人前へ出るのか」
「え?」
凪は自分の水着を見下ろした。
「え、ううん。普通の水着だけど……?」
「普通……なのか……?」
朔の表情は真剣そのものだった。眉間に深いシワを寄せている。
「肩も、腕も、脚も露わだ。……おなごが、あまりにも不用意であろう」
あまりの真面目さに、凪は思わず「ふふっ」と吹き出してしまった。
「大丈夫だよ、周り見てみなよ」
砂浜には、同じように色とりどりの水着を着た人々が大勢楽しそうにはしゃいでいる。
朔は周囲を見渡し、信じられないものを見るような目つきで静かに眉をひそめた。
「……理解できぬ」
そして腕を組み、真剣に考え込んでから、低く制するような声で言った。
「……せめて、上から何か羽織れ」
「え?」
「お前の肌を……多くの男どもへ見せる必要は、あるまい」
「────ッ」
そのストレートな言葉に、凪の思考が一瞬フリーズした。
耳の奥が熱くなり、心臓がどくんと大きく跳ね上がる。
(……え。それって……心配してくれてるの……?)
「し、心配……してくれてるの?」
「当然だ」
朔は微塵の迷いもなく、まっすぐに凪を見つめて答える。
「このような大勢の者がいる場所では、何が起こるか分からぬ。……お前を守れるのは私しかおらぬ」
真面目すぎる彼の態度に、凪の胸の奥が温かいもので満たされていく。
「ふふ、ありがとう。でも大丈夫だよ。海ではこれが普通だから」
朔はまだどこか納得いかない様子だったが、
「……そうか」
とだけ低く呟き、不満げに視線を落とした。
「ほら、行こう!」
凪は裸足で白い砂浜をパシャパシャと駆け出す。
「朔も入ってみて!」
朔もサンダルを脱ぎ、波打ち際へと慎重に足を踏み入れた。
「……塩の香りが、より強いな」
「海のお水はしょっぱいんだよ」
朔はかがみ込み、恐る恐る濡れた指先を舌につけた。
「……本当だ。塩辛い」
「ふふ、飲んじゃダメだよ」
「なるほど」
その時だった。
沖の方から、周囲の波よりひと回り大きな波が近づいてくる。
「朔、見て大き──」
──ザバーーーン!
「きゃっ!?」
想像以上の波の勢いに足元をさらわれ、凪の身体がグラリと大きく傾いた。
「危ない……!」
朔の身体が反射的に動いた。
強い腕が素早く凪の細い腰を引き寄せ、そのままぎゅっと胸の中へ抱き留める。
ザザァと、二人の足元を白波が駆け抜けていった。
「……あ」
顔が近い。
互いの吐息が、頬をくすぐる。
朔の首筋から落ちた髪の雫が、凪の頬にぽたりと落ちた。
触れ合う体温と、力強い鼓動。
凪の胸の奥で、心臓がドクドクと打ち鳴らされる。
「ご、ごめんっ……!」
慌てて朔の胸から離れ、顔を真っ赤にしてパタパタと手を振る。
「あ、ありがとう……助かったよ」
朔は静かに首を横に振った。
「礼には及ばぬ。お前が無事なら良い」
そう言いながらも、朔自身もどこか落ち着かない様子で、すっと視線を遠くの沖合いへと向けた。
凪も胸の激しいざわめきを誤魔化すように、真っ赤な顔で水平線を見つめ直した。
**
ひとしきり海で遊んだ帰り道。
二人は海岸沿いの古い堤防に腰掛け、冷たいラムネを飲んでいた。
カラン、と瓶の中でビー玉が涼やかな音を立てる。
「ねぇ、朔」
「なんだ」
「海……どうだった?」
朔はラムネの瓶を握りしめたまま、茜色に輝く水平線をじっと見つめ、静かに口を開いた。
「……驚いた」
「何に?」
「世界は……私の思っていたものより、遥かに広いのだな」
その言葉に、凪は嬉しそうに目を細めて微笑む。
「でしょ?」
「まだまだね、朔の知らない素敵な景色はいっぱいあるんだよ」
華やかな夏祭りも。
秋の紅葉も。
冬の雪景色も。
「だから……これからも、一緒に見に行きたいな」
何気なく、当たり前のように口にしたその言葉。
朔はゆっくりと顔を向け、凪を見つめた。
夕陽の光を浴びた彼女の横顔は、眩しいほど柔らかく笑っていた。
「……ああ」
短く発せられたその返事。
けれど、朔の胸の奥では確かに一つの願いが芽吹き始めていた。
──この娘と、もう少しだけ。
──もう少しだけ長く、この景色を見ていたい。
心地よい潮風が、二人の間を吹き抜けていく。
水平線の彼方へ沈み始めた夕日は、二人の影を長く砂浜へ伸ばしていた。




