7
夏は、少しずつその深みを増していた。
連日の真夏日が続く中、窓の外では朝から雲ひとつない青空が広がっている。
「よしっ、今日はお休み!」
ぐーっと両腕を伸ばしながら、凪は満面の笑みを浮かべた。
アルバイトも休み。
大学の課題もひとまず全て片付いている。
「せっかくだし、今日はちょっと遠出しようか!」
「……遠出?」
朝食の片付けを終えた朔が、首をかしげて凪を見る。
「うん。電車に乗ってね……冷たい川へ行こう!」
「川……」
その言葉に、朔の深い漆黒の瞳がわずかに揺れた。
**
がたごとと電車に揺られること約一時間。
二人がやってきたのは、山あいをさらさらと流れる豊かな清流だった。
底までくっきりと透き通った水。
青々とした木々を揺らす、涼やかな風。
街の喧騒の中では聞こえなかった、小鳥たちのさえずり。
「わぁぁーっ!」
凪は子どものように思わず駆け出した。
「冷たーーい!」
スニーカーと靴下を脱ぎ捨て、浅瀬へと足を踏み入れる。
透明な水の中を、小さな魚たちが群れをなして泳いでいた。
朔は少し離れた岸辺から、水と戯れる凪の姿を静かに見つめている。
「朔も入ってみなよ! すごく気持ちいいよ!」
「……構わぬのか」
「もちろん!」
朔は意を決したようにスボンの裾を少しだけ持ち上げ、恐る恐る水の中へ足を入れた。
「……冷たいな」
「でしょ?」
凪はいたずらっぽく笑った。
しばらく二人で足を浸して涼んでいると、少し深くなった川底をすばしっこく泳ぐ一匹の大きな魚が目に入った。
「あっ!」
凪が弾んだ声で指を差す。
「鮎だ……! 鮎がいる!」
光を浴びて銀色の身体をきらりと輝かせながら、勢いよく水流を遡っていく。
「すごい……天然の鮎なんて、初めて見たかも」
凪は目を輝かせ、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「写真、上手く撮れないかな……」
息をのんで画面を構える。
だが、察知した鮎はすばしっこく岩陰の暗がりへと隠れてしまった。
「あー……逃げられちゃったかぁ」
残念そうに肩を落とす凪。
その落胆した横顔を、朔は黙って見つめていた。
「……鮎が、好きなのか」
「うん」
凪は寂しそうに頷く。
「昔、お父さんと一緒に釣りに来たことがあってね。でも、こうやって元気に泳いでる姿ってなかなか見られないから……綺麗だったなぁって」
そう言って、凪は強がりのような笑みを浮かべた。
その笑顔を静かに見つめたあと、朔はすっと川の深みへと足を踏み進めた。
「え……? 朔?」
朔は膝下まで水に浸かったまま、ピタリと動きを止めた。
水の流れ。
岩陰。
揺れる影。
鮎が向きを変える一瞬。
一呼吸。
二呼吸。
息を殺し、指一本すら動かさない。
まるで、最初からそこに立つ『岩』そのものになったかのように。
「さ、朔……?」
呼びかける声にも返事はない。
そのまま静寂が数分。
凪が息を呑んで見守っていると──
──バシャッ!!!
一瞬で爆発的な水しぶきが上がった。
朔の腕が、目にも留まらぬ速さで水面へと突きたてられる。
次の瞬間。
その掌には、威勢よく暴れる一匹の立派な鮎ががっしりと握られていた。
「……え、えええぇぇぇぇーーー!?」
凪は素で大声を上げた。
「うそでしょ!?す、素手……!? えっ、今どうやって捕まえたの!?」
手の中でぴちぴちと跳ねる鮎を前に、朔は少しだけ困ったような顔で首をひねる。
「……魚が進む先を見定めればよい。」
凪は思わず大爆笑しながらツッコんだ。
「普通の人はそんなこと簡単にできないからね!?」
「……そうなのか?」
「そうなのっ!」
お腹を抱えて笑う凪。
「すごすぎる……ねえ、お願い! もう一匹捕まえられる?」
「……承知した」
今度は凪も息を殺してすぐ横で見守る。
朔は再び静止した。
水と、風と、気配と完全に一体化する。
そして──
──バシャッ!
「また捕ったぁぁぁ!!」
「すごーい!!」
気づけば、近くで水遊びをしていた子どもたちや家族連れからも、一斉に大きな拍手と歓声が上がった。
「お兄ちゃんすげええぇ!」
「ねえ忍者!? 忍者なの!?」
朔はなぜ自分が取り囲まれ、拍手されているのか分からず、ただただ戸惑うばかりだ。
「……『にんじゃ』とは何だ?」
「ふふっ、要は『超かっこいい!』ってことだよ」
凪は誇らしげに胸を張り、楽しそうに笑う。
「みんなびっくりしてるよ。それに──」
凪は朔の手の中で輝く鮎を見つめ、心からの笑顔を向けた。
「私も……すっごく嬉しい!」
その一言に。
朔は静かに目を見開いた。
──嬉しい。
その感情の意味は、知っていたはずだった。
いつか主がお目覚めになる日を信じて待つことだけが、自分の生きがいであり、喜びなのだとずっと信じ込んできた。
けれど。
自分が何かを成し遂げ、誰かを笑顔にして、その姿を見て自分も胸が温かくなる。
そんな感情を知ったのは──千五百年の記憶の中で、間違いなくこれが初めてだった。
**
帰り道。
二人は駅へ向かう途中にある道の駅へ立ち寄った。
川で朔が捕まえた鮎を持ち込むと、店の人は少し驚きながらも、
「立派な鮎ですねぇ。塩焼きにしましょうか」
と快く引き受けてくれた。
炭火でじっくりと焼き上げられた鮎は、こんがりと香ばしい匂いを漂わせている。
「いただきます!」
凪が頭からパクリと一口かじる。
「ん〜〜っ! 美味しい!」
朔もそれにならい、恐る恐る身をかじり取った。
香ばしい皮の香気。
絶妙な塩気と、ふっくらとした白い身。
そして、かすかなほろ苦い内臓の味わい。
「……これが、鮎の味か」
朔は手に持った塩焼きをしみじみと見つめたあと、深く小さく頷いた。
「自ら獲ったものを口にするのは……初めてだ」
凪は少し驚いてから、優しく笑う。
「そっか。今日は朔が頑張って捕まえてくれたもんね。」
「……ああ」
少しだけ真面目な空気が流れた。
けれど次の瞬間、凪は弾けたような満面の笑みを朔へ向けた。
「でもね! 今日は朔のおかげで、本当に最高の休日になったよ!」
「……」
「連れてきてよかった。ありがとう、朔!」
凪のまっすぐな感謝と、太陽のような笑顔。
それを受けた朔は、照れくさそうに少しだけ目を伏せた。
そして、ほんのわずかに、その口元を綻ばせた。
「……そうか」
けれどその小さな笑みは、初めて自分の存在で誰かを笑顔にできた証だった。




