5
朝日が薄いカーテンの隙間から差し込み、小さなワンルームをやさしく照らしていた。
「ん……」
凪は身をよじって小さく欠伸をし、ぼんやりと目を開ける。
見慣れた天井。見慣れた狭い自分の部屋。
……ではあるのだが。
「……」
部屋の隅、クローゼットの横に、甲冑を纏った長身の青年がピンと背筋を伸ばして正座していた。
「うわぁっ!?」
思わずガバッと跳ね起きる。
青年はぴくりとも動かず、静かにこちらへと視線を向けた。
「起きたか」
「……お、おはよう、ございます」
昨夜の出来事が、頭の中に一気によみがえってくる。
公園で倒れていた謎の男性。
自分の部屋へ連れて帰ったこと。
布団を譲ろうとしたら、『床で十分だ』と言って譲らず、畳の上で座ったまま眠ってしまったこと。
(ゆ、夢じゃ……なかった……)
凪は両手で頭を抱えた。
「ね、眠れました……?」
「問題ない」
「お身体、痛いところとかは……?」
「支障はない」
相変わらず、必要最低限の短い返事だ。
「そ、それならよかったけど……」
微妙にぎこちない空気が流れる。
その時だった。
ぐぅぅぅぅぅ…………。
静かな部屋に、昨夜に負けず劣らず盛大なお腹の音が響き渡った。
青年は大真面目な顔のまま、静かに自分の腹へ視線を落とす。
「……すまない」
「ふ……っ!」
凪は耐えきれずに吹き出した。
「よし! 朝ごはん、食べましょう!」
食パンをトースターで焼き、フライパンで目玉焼きを作る。
ごく簡単な朝食が、小さな折りたたみテーブルへ並んだ。
青年はしばらくそれらを不思議そうに眺めていたが、凪の動作を真似るように、恐る恐る箸を手にした。
「箸、使えるんですね」
「見れば、できる」
そう言って、驚くほど器用に箸を使い、目玉焼きを口へ運ぶ。
「……美味い」
昨日と同じ、飾りのない心からの一言。
凪は思わず笑みをこぼした。
「よかった。口に合って」
青年は真剣な顔で、一口一口を味わうように確かめながら食べ進めていく。
その満足そうな姿を見ていると、なんだか不思議とこちらまで心が温かくなってきた。
「今日は、どうしましょうか」
朝食の皿を下げながら凪が尋ねる。
「……」
青年は少し考え込むように視線を落とした。
「分からぬ」
ぽつりと漏らしたその答えが、どこか迷子の子どものように聞こえた。
凪は腕を組み、うーんと唸る。
「警察へ連れて行くのは……まだやめておこうかな」
いくらなんでも、この時代錯誤な甲冑姿の説明がつかない。
本人は、自分の名前すら持っていない。
何より──この人は決して悪い人ではないと、凪の直感が言っていた。
「じゃあまずは、着替えの服を買いに行きましょう!」
青年は自分の重厚な甲冑を見下ろした。
「この姿では……だめか?」
「はい。秒で通報されます」
即答だった。
***
昼前。
近くの大きなショッピングモール。
凪が選んだ無地のTシャツとジーンズに着替えた青年は、見るものすべてが珍しいらしく、歩くたびに足を止めていた。
「これは何だ」
「エスカレーター。動く階段だよ」
「……動く階段か。これは?」
「自動販売機。お金を入れると飲み物が出てくるの」
「……箱が勝手に飲み物を売るのか」
あまりにも真剣な観察ぶりに、凪は思わずクスッと笑ってしまう。
「そんなに珍しいですか?」
「……すべてが、初めて見るものだ」
その静かな一言に、凪は胸をキュッと締めつけられた。
この人は、本当に何も知らないのだ。
自分の名前も、この世界の仕組みも。
まるで、真っ白な状態で生まれたばかりの存在のように。
買い物を終えて外へ出ると、頭上からは真夏のエネルギッシュな日差しが容赦なく降り注いでいた。
「うう……暑い……」
凪がうなだれながら、涼を求めて近くのコンビニへ滑り込む。
冷凍ケースの前で足を止めた。
「何食べようかな……」
青年も隣へ並び、ガラス越しに並ぶ色とりどりのパッケージを、食い入るようにじっと見つめていた。
「これ、冷たいお菓子だよ」
「……菓子」
「一本、食べてみます?」
青年は静かにうなずいた。
二人はソーダ味の青いスティックアイスを買い、近くの公園の木陰のベンチへ腰を下ろした。
「袋、開けられますか?」
青年は少し苦戦しながら包装の端を引っ張り、ビリッと破く。
そこから現れた鮮やかな水色のアイスを、不思議そうに掲げて眺めた。
「……美しい色だ」
「食べ物としては、ちょっと不自然な青だけどね」
青年は意を決したように、アイスの端を一口かじる。
「──ッ!?」
ぴたり、と全身の動きが止まった。
「冷たい?」
凪が楽しそうに覗き込む。
青年はもう一口。さらにもう一口。
ひんやりとした甘さが口いっぱいに広がっていくのを確かめるように咀嚼し、そして静かに呟いた。
「……甘い」
その声は、小さく、けれど深い感動に震えていた。
「このような……冷たくて甘い食べ物が、あるのか」
子どものように目を輝かせる青年の横顔を見て、凪の口元にも自然と笑みが浮かぶ。
「ふふっ。気に入りました?」
青年は静かに、けれど力強く頷いた。
「……ああ」
短く発せられたその一言には、どこか楽し気な響きすらあった。
***
アイスを食べ終え、木漏れ日の中で一息ついた頃。
凪はふと思い出したように口を開いた。
「そういえば」
青年がアイスの棒を持ったまま、凪へ顔を向ける。
「ずっと『あなた』とか『武人さん』って呼ぶのも、なんか不便なんだよね」
青年は黙って凪の言葉に耳を傾けている。
「名前……勝手に付けてもいいですか?」
少しの沈黙。風が木々の葉をさやさやと揺らす。
やがて青年は、静かに頷いた。
「任せる」
「んー……」
凪は青空を見上げ、少しの間考えを巡らせてから、小さく微笑んだ。
「『月守古墳』で会ったから……『朔』ってどうかな?」
「さく……」
青年はその響きを確かめるように、ゆっくりと口に滑らせる。
「『朔』にはね、新月……つまり『月の始まり』って意味もあるんだって」
「……朔」
青年は胸の奥で温めるようにその名を繰り返した。
そして、凪に向かって深々と頭を下げる。
「良い名だ」
たった一言。
けれど、その表情は今朝までとは違う、ほんの少しだけ柔らかく見えた。
凪は照れ隠しのように「でしょ!」と笑う。
「じゃあ決まり!」
「今日から、あなたは『朔』です」
真夏の澄み渡る青空の下。
『朔』と名をもらった青年は、小さく、けれど確かに頷いた。




