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「……武人さん?」
混乱のなか、思わず口をついて出た呼び名。
その声に反応するように、芝生の上に倒れていた青年の長いまつげが、かすかに震えた。
「……っ」
ゆっくりと瞼が開く。
吸い込まれそうなほど深い黒い瞳が、ぼんやりと凪の顔を映し出した。
「よ、よかった……!」
凪は思わず胸を撫で下ろした。
とりあえず、意識はあるらしい。
「大丈夫ですか? 立ち上がれそうですか?」
青年は返事をせず、ただ凪の顔をまじまじと見つめていた。
やがて、かすれた声で静かに口を開く。
「……娘」
「え?」
「昼間……私を見ていた、娘だな」
凪は目を丸くした。
「昼間……?」
まさか。そんなはずはない。
「えっと……発掘現場に、いたんですか……?」
青年はゆっくりとうなずく。
「お前は、私を見ていた」
その確信に満ちた言葉に、背中をサーッと冷たいものが駆け抜けた。
昼間見つかったばかりの、あの武人埴輪が頭に浮かぶ。
その姿に、あまりにもよく似た格好の目の前の青年。
偶然にしては、出来すぎている。
(いやいやいや、落ち着け自分! そんなことあるわけないでしょ!)
埴輪が人間になるなんて、少女漫画かファンタジー小説の読みすぎだ。
「え、えっと……」
凪はぶんぶんと頭を振って、突拍子もない考えを強引に追い払った。
「とりあえず、立てますか?」
青年は黙って立ち上がろうとした。
だが──膝に力が入らず、ぐらりと大きく身体が傾く。
「あっ、危ない!」
慌てて差し出した腕で、彼の胸元を支える。
青年は、自分の身体を支える凪の細い腕と、その手元を交互に見つめた。
「……温かい」
「え?」
「……人の、手か」
「…………」
(やっぱり、ちょっと変な人だ……)
そう思うのに。
彼の真剣な瞳と低く静かな声には、嘘や誤魔化しが一切感じられなかった。
「……お水、飲みます?」
レジ袋から冷えたペットボトルを取り出し、キャップを開けて差し出す。
青年は、透明な樹脂の容器を珍しそうに眺めた。
「これは……」
「お水です。どうぞ」
恐る恐る受け取り、口元へ運ぶ。
ゴクン、と喉が鳴った次の瞬間、青年の目が、カッと見開かれた。
「……美味い」
あまりにも真に迫った一言に、凪は思わず吹き出してしまう。
「ふふっ、水でそんなに感動する人、初めて見ました」
青年は首をかしげた。
「笑うところだったのか」
「あ、ご、ごめんなさい! 馬鹿にしたわけじゃなくて……っ」
なんだろう。
出会った瞬間に感じていた不気味さや怖さが、不思議となくなっていく。
代わりに胸の奥から湧き上がってきたのは、「この人をこのまま放っておけない」という、お節介焼きな感情だった。
「そうだ」
凪は息を整え、改めて尋ねる。
「お名前、なんていうんですか?」
青年は少しだけ考える仕草を見せたあと、静かに首を横へ振った。
「ない」
「え? 名前がない……?」
「我が役目は、主を守ること」
その瞳はどこまでも真っ直ぐで、一片の濁りもなかった。
「役目に、名は要らぬ」
冗談で言っているのではない。
本気で、心からそう信じ切っているのだ。
凪は困ったように苦笑するしかなかった。
「そっか……」
言いかけて、口を閉じる。
今は彼の名前うんぬんよりも、先に確認すべき現実的な問題がある。
「帰る場所は……ありますか?」
青年は迷うことなく答えた。
「ない」
「ご家族は?」
「いない」
「じゃあ、連絡できる知り合いとかは……?」
「……いない」
短い答えだけが、淡々と返ってくる。
記憶喪失なのだろうか。それとも、何か人には言えない深い事情があるのか。
警察へ届けるべきなのかもしれない。
けれど──この本物の甲冑のような服を着た青年を警察に連れて行ったら、絶対に不審者扱いされて大騒ぎになる。
(どうしよう……)
すでに夜も深い。
この怪我人(?)を、公園のベンチに放置して一人で帰るなんて、凪の性格上どうしてもできなかった。
青年は街灯の光を見上げ、ポツリと呟いた。
「私は……」
その声は、驚くほど静かで、どこか途方に暮れているように聞こえた。
凪は小さく溜め息を吐く。
「……一晩だけ、ですよ」
青年がゆっくりと凪を振り返る。
「うち、来ますか?」
「うち……?」
「今日はもう遅いですし、警察に行くにしても、明日一緒に考えましょう」
青年は困惑したように首をかしげた。
それでも──しばらく凪の顔を見つめたあと、深々と頭を下げた。
「……恩に着る」
あまりに大袈裟な礼に、凪は苦笑する。
「そんなに堅苦しくしなくて大丈夫ですって。ほら、行きましょう」
そう言って歩き出す。
青年も、重い甲冑の音をわずかに響かせながら、一歩遅れてその後ろをついてくる。
その時──。
ぐぅぅぅぅぅ…………。
静まり返った夜の住宅街に、盛大な腹の虫の音が響き渡った。
凪がびっくりして振り返る。
青年は、大真面目な顔のまま自分の腹あたりを見下ろしていた。
「……今の、お腹の音?」
「腹が……減ったようだ」
本気で不思議そうに呟くその様子に、凪はついに耐えきれず爆笑してしまった。
「ふふっ、あはははっ!」
青年は「なぜ笑われているのだろう」と首をかしげている。
その表情が可笑しくて、凪はますます笑いが止まらなくなってしまった。
夏の湿り気を含んだ夜風が、二人の間を優しく吹き抜けていく。
こうして、千五百年もの時を越えた武人と、ごく普通の女子大学生の、ひと夏だけの不思議な共同生活が始まった。




