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ピキ──。
静まり返った保管庫に、小さな亀裂の音が響いた。
窓から差し込む冷たい月明かりが、武人埴輪を静かに照らし出す。
その光を吸い込むように、埴輪の身体が淡い白光を帯び始めた。
土の色は、少しずつ生気のある肌の色へ。
固く冷たい質感は、温もりのある肉体へ。
焼き物だった瞳には静かな光が宿り、千五百年の間固く閉ざされていた唇が、初めて温かい吐息を紡ぐ。
「……ここは」
月光がふっと途切れた時、そこに立っていたのは焼き物の埴輪ではなく、一人の青年だった。
見たこともない部屋だった。
白い壁、平らな天井、ガラス越しに見える街の明かり。どれも、知らないものばかりだ。
恐る恐る、自分の右手を見つめてみる。
五本の指が、自分の意思で動く。
拳を握る。腕が曲がる。
一歩を踏み出せば、ひんやりとした床の冷たさが足の裏から伝わってきた。
(動ける……)
理解はできない。
なぜ自分がこのような姿になっているのかも、分からない。
だが──胸の奥から、たった一つの激しい衝動だけが突き上げてくる。
──主。
青年は保管庫の重い扉を押し開け、深い夜の街へと飛び出した。
**
夜風を切りながら、走る。
見知らぬ巨大な建造物。
異様に眩しい街灯の光。
何もかもが、己の知らない世界だった。
それでも、足は迷わない。
長い、永い年月をずっと過ごしたあの場所へ。
我が主が眠る、あの丘へ──。
やがて、見覚えのある木々の影が見えてきた。
深く慣れ親しんだ丘のシルエットに、青年は安堵したように駆け寄る。
──しかし。
その足が、唐突に止まった。
「…………」
そこにあったのは、青年の記憶にある情景ではなかった。
墳丘は大きく掘り返され、周囲には見たこともない柵が巡らされている。
青い布や見慣れぬ道具が散乱し、荒らされた現場だけが月明かりの下で静まり返っていた。
青年は吸い寄せられるように、ゆっくりと歩み寄る。
ぽっかりと黒い口を開けた、深い穴。
そこは──つい先ほどまで、長い年月守っていた場所だった。
「……主」
呼びかける。
返事はない。
土の穴の中にも。周囲の闇の中にも。
主の気配だけが、かすかに残っていた。けれど、そこに主はいない。
青年はその場に崩れ落ちるように膝をついた。
ふと、闇の底から遠い記憶が蘇る。
『まだ起きないのか』
『もう千年以上経ったぞ』
隣で退屈そうに笑っていた仲間たちの声。
あの時は、誰も本気では受け止めていなかった。戯れ言だと思っていた。
けれど──。
「……そうか」
青年は静かに目を閉じる。
「主は既に……お目覚めになることは、ないのですね」
胸の奥が、ガラガラと音を立てて崩れ去り、からっぽになっていく。
いつかお目覚めになるであろう主を、信じて待つこと。
それだけが、自分の生み出された意味であり、存在理由のすべてだと思っていた。
「私は……勘違いをしていたのか」
主は眠っていたのではない。
初めから、この場所で永遠の眠りについていたのだ。
「私は……これから、どうすれば」
誰のために。何のために、立ち続ければいい。
問いかけても、静寂が返ってくるだけだった。
青年は、ゆっくり古墳を後にした。
どこへ向かえばいいのかも分からないまま、あてもなく足を進める。
住宅街を抜け、たどり着いたのは小さな広場だった。
見たこともない遊具と、整然と並ぶ街灯。
青年はフラフラと歩み寄り、木製のベンチに手をついた。
「私は……」
自分はなぜ、今ここにいるのだ──。
深く考え込もうとした、その瞬間。
視界がぐらりと大きく揺れた。
慣れない人間の身体。
全速力で走った疲労。
そして──あまりにも巨大な喪失感。
それらが一気に押し寄せ、青年の意識を刈り取っていく。
「……くっ」
膝から崩れ落ち、青年はそのまま冷たい芝生の上に倒れ込んだ。
**
「……え?」
コンビニからの帰り道。
レジ袋を下げて歩いていた凪は、公園の前で思わず足を止めた。
街灯の明かりの下で、一人の男性が突然倒れ込むのが見えたのだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
反射的にレジ袋を握り締め、公園へと駆け込む。
青年は芝生の上に横たわったまま、ピクリとも動かない。
熱中症だろうか。それとも事件だろうか。
混乱しながらも、助けを呼ぶために顔を覗き込んだ──その瞬間。
凪は息をのんだ。
「……え」
見覚えがある。
現代ではおよそ目にするはずのない、古風で重厚な甲冑姿。
腰には、優美な飾太刀。
そんなはずがない。あり得ない。
頭ではそう打ち消そうとするのに。
街灯に照らされた青年の姿は──昼間、発掘現場で見つかったあの武人埴輪に、あまりにも似ていた。
「……武人さん?」
混乱のなか、ぽろりと口から漏れたその呼び名。
それに反応するように。
倒れていた青年の長いまつげが、かすかに震えた。




