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ひと夏の奇跡 ~武人埴輪の千五百年目の恋~  作者: おかゆ


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八月も、いよいよ終わりに近づいていた。



「今日は、どこか行く?」



朝食のあと、凪はいつものように楽しそうに笑って尋ねた。

朔は少しだけ考え、静かに首を横へ振る。



「……いや。今日は、この部屋で過ごしたい」


「珍しいね。いつもなら『出かけるか』って乗り気になるのに」


「……今日は、そうしたい気分なのだ」


「そっか」



凪もそれ以上は何も訊かなかった。

二人でくだらないテレビ番組を見て、昼には冷たいそうめんをズルズルとすする。

食後には一本のアイスを半分ずつ分け合い、何でもない雑談をしながら笑い合った。

いつもと、何ひとつ変わらない穏やかな一日。



だからこそ──凪は気づけなかった。

朔が右手をほとんど使わなくなっていることにも。

歩くたび、ほんのわずかに右足を引きずるようにかばっていることにも。



夕暮れ時。

窓から差し込む深い茜色の光が、狭いワンルームをどこか寂しげに染め上げていた。



「ねえ、朔」


「何だ」


「この夏……一番楽しかった思い出って、何?」



突然の問いかけに、朔は静かに思考を巡らせた。



七夕の夜の願い事。

涼しかった川のせせらぎ。

どこまでも青かった海。

夜空を鮮やかに彩った大輪の花火。

どれも、千五百年の眠りから覚めて初めて知る、美しく眩しい景色ばかりだった。



そして──そのすべての景色の隣には、いつだって凪がいた。



「……決められぬな」


「えー、ひとつくらいあるでしょ?」


「どれも……甲乙つけがたいほど、大切だからな」



その答えに、凪はどこか照れくさそうに「ふふ」と笑った。



「そっか……」



夕陽を浴びて咲くその笑顔を愛おしそうに見つめながら、朔は胸の奥深くで静かに呟いた。



(……ありがとう、凪)




***




夜。

二人は引き寄せられるように、近所の公園まで散歩に出ていた。



夏の終わりの草むらから、秋の虫たちの静かな声が流れてくる。

二人は公園のベンチへ腰掛け、並んで夜空に浮かぶ月を見上げた。



「……あの日も、こんな夜だったね」



凪がぽつりと小さく笑う。



「初めて、朔と会った日」


「ああ」


「あの時は本当に……怪しい不審者だなぁって思ったよ」


「否定はできぬな」



二人は顔を見合わせて、いたずらっぽく笑い合った。

──その時だった。



コツン……。



静かな夜の公園に、小さな乾いた音が響いた。

朔が立ち上がろうとした、その足元から──小さな石片が転がり落ちた。



「……朔?」



凪の視線が、朔の右足へ落ちる。

靴下の隙間から覗く肌だったはずの場所が、無機質な、赤茶色の土の色へと変質していた。



「……ッ!?」



凪の顔から、一瞬で血の気が引いていく。



「な、何それ……? どうしたの、それ……!?」



朔は隠すのを諦め、静かに己の足元を見つめた。



(身体が……戻ってゆく)



石化の波は足首から膝へ。

ゆっくりと、けれど確実に、上へ上へと侵食していく。



「……どうやら、時間が来たようだ」


「時間って……何!? 何言ってるの……!?」



震える凪の声に、朔はどこまでも穏やかな笑みを浮かべた。



「私は本来、この世に生きていてはならぬ存在だ。……これほど早く身体が戻っていくとは思わなかったが」


「そんな、どういうこと?……嫌だよ……!」


「主が……与えてくださった奇跡だったのだ」


「奇跡……?」


「長きにわたり務めを果たした私へ、主が下さった『ほんのひと夏だけの時間』、だったらしい」



石化は腰へ、胸へ、腕へ。

二人の制止を許さず、無慈悲に広がり続ける。



「そんな急に?嫌だ……! 嫌だよ……っ!!」



凪はなりふり構わず、朔の右腕にしがみついた。



「止まって……お願いだから止まってよ……っ!」


「……ありがとう、凪」


「やめて! そんな顔で喋らないでよ……!」


「お前のおかげで……私は見つけることができた」



石化し、冷たくなった指先が──最後の力を振り絞って、そっと凪の頭を優しく撫でた。



「あの日」


「え……?」


「七夕の夜……『願いを見つけたい』と短冊に書いた」



あの風に揺れていた、小さな竹飾りの記憶。



「見つかったのだ」



朔は目尻を下げて、心からの優しさで笑った。



「お前とともに生きる日々……そのものこそが、私の願いだった」



凪の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出す。

止まらない。



「そんなの……っ!」


「……」


「そんなの、まだ始まったばかりじゃない……っ!!」



凪は朔の胸へ強くしがみつき、声を上げて泣きじゃくった。



「もっと……もっと一緒にいたい……! ずっと隣にいてよ……っ!」


「……私もだ」



初めてだった。

朔が、己の我ままな本心を口にしたのは。



「私も……もっとお前の隣にいたかった」



月が雲間からそっと顔を出し、淡く神聖な光が二人を包み込んでいく。

石化はすでに、朔の胸元まで達していた。



「だが……別れは、決して悲しいだけのものではない」


「……っ」


「お前と出会えたからこそ、この寂しさがある。……それだけで、私は幸せだ」



最後に残された左手が、凪の濡れた頬にそっと触れ、涙を優しく拭う。



「泣かないでくれ、凪」


「無理……無理だよぉ……っ」


「最後は……笑っていてほしい」



凪は何度も、何度も首を振った。

けれど──朔の最後の願いを叶えるために。

溢れ出る涙を袖で何度もぐしゃぐしゃに拭い、ひくつく息を必死に整えた。

歪んでしまっても、ぐちゃぐしゃでも。

精一杯の笑顔を、朔へと向けた。



「……ありがとう、凪」



朔は心から安心したように、深く目を細めた。



「その笑顔を……最後に見れて、良かった」



月明かりが一際強く輝き、朔の全身が淡い粒子となって光を帯び始める。

まるで、夜の月光へと溶けていくかのように。



「朔──っ!!」


「凪」



最後に、お互いの名前を強く呼び合う。



「……幸せであった」



その言葉を夜空に残し──。

光の粒子は静かに、どこまでも美しく、夜の風に乗って舞い上がった。



……ひゅっと。

秋を孕んだ風だけが、そっと二人のいた場所を吹き抜ける。



凪はその場に立ち尽くしたまま、月明かりに照らされた夜空を見上げていた。

そこにはもう、朔の姿は見つけられなかった。





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