12
八月も、いよいよ終わりに近づいていた。
「今日は、どこか行く?」
朝食のあと、凪はいつものように楽しそうに笑って尋ねた。
朔は少しだけ考え、静かに首を横へ振る。
「……いや。今日は、この部屋で過ごしたい」
「珍しいね。いつもなら『出かけるか』って乗り気になるのに」
「……今日は、そうしたい気分なのだ」
「そっか」
凪もそれ以上は何も訊かなかった。
二人でくだらないテレビ番組を見て、昼には冷たいそうめんをズルズルとすする。
食後には一本のアイスを半分ずつ分け合い、何でもない雑談をしながら笑い合った。
いつもと、何ひとつ変わらない穏やかな一日。
だからこそ──凪は気づけなかった。
朔が右手をほとんど使わなくなっていることにも。
歩くたび、ほんのわずかに右足を引きずるようにかばっていることにも。
夕暮れ時。
窓から差し込む深い茜色の光が、狭いワンルームをどこか寂しげに染め上げていた。
「ねえ、朔」
「何だ」
「この夏……一番楽しかった思い出って、何?」
突然の問いかけに、朔は静かに思考を巡らせた。
七夕の夜の願い事。
涼しかった川のせせらぎ。
どこまでも青かった海。
夜空を鮮やかに彩った大輪の花火。
どれも、千五百年の眠りから覚めて初めて知る、美しく眩しい景色ばかりだった。
そして──そのすべての景色の隣には、いつだって凪がいた。
「……決められぬな」
「えー、ひとつくらいあるでしょ?」
「どれも……甲乙つけがたいほど、大切だからな」
その答えに、凪はどこか照れくさそうに「ふふ」と笑った。
「そっか……」
夕陽を浴びて咲くその笑顔を愛おしそうに見つめながら、朔は胸の奥深くで静かに呟いた。
(……ありがとう、凪)
***
夜。
二人は引き寄せられるように、近所の公園まで散歩に出ていた。
夏の終わりの草むらから、秋の虫たちの静かな声が流れてくる。
二人は公園のベンチへ腰掛け、並んで夜空に浮かぶ月を見上げた。
「……あの日も、こんな夜だったね」
凪がぽつりと小さく笑う。
「初めて、朔と会った日」
「ああ」
「あの時は本当に……怪しい不審者だなぁって思ったよ」
「否定はできぬな」
二人は顔を見合わせて、いたずらっぽく笑い合った。
──その時だった。
コツン……。
静かな夜の公園に、小さな乾いた音が響いた。
朔が立ち上がろうとした、その足元から──小さな石片が転がり落ちた。
「……朔?」
凪の視線が、朔の右足へ落ちる。
靴下の隙間から覗く肌だったはずの場所が、無機質な、赤茶色の土の色へと変質していた。
「……ッ!?」
凪の顔から、一瞬で血の気が引いていく。
「な、何それ……? どうしたの、それ……!?」
朔は隠すのを諦め、静かに己の足元を見つめた。
(身体が……戻ってゆく)
石化の波は足首から膝へ。
ゆっくりと、けれど確実に、上へ上へと侵食していく。
「……どうやら、時間が来たようだ」
「時間って……何!? 何言ってるの……!?」
震える凪の声に、朔はどこまでも穏やかな笑みを浮かべた。
「私は本来、この世に生きていてはならぬ存在だ。……これほど早く身体が戻っていくとは思わなかったが」
「そんな、どういうこと?……嫌だよ……!」
「主が……与えてくださった奇跡だったのだ」
「奇跡……?」
「長きにわたり務めを果たした私へ、主が下さった『ほんのひと夏だけの時間』、だったらしい」
石化は腰へ、胸へ、腕へ。
二人の制止を許さず、無慈悲に広がり続ける。
「そんな急に?嫌だ……! 嫌だよ……っ!!」
凪はなりふり構わず、朔の右腕にしがみついた。
「止まって……お願いだから止まってよ……っ!」
「……ありがとう、凪」
「やめて! そんな顔で喋らないでよ……!」
「お前のおかげで……私は見つけることができた」
石化し、冷たくなった指先が──最後の力を振り絞って、そっと凪の頭を優しく撫でた。
「あの日」
「え……?」
「七夕の夜……『願いを見つけたい』と短冊に書いた」
あの風に揺れていた、小さな竹飾りの記憶。
「見つかったのだ」
朔は目尻を下げて、心からの優しさで笑った。
「お前とともに生きる日々……そのものこそが、私の願いだった」
凪の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出す。
止まらない。
「そんなの……っ!」
「……」
「そんなの、まだ始まったばかりじゃない……っ!!」
凪は朔の胸へ強くしがみつき、声を上げて泣きじゃくった。
「もっと……もっと一緒にいたい……! ずっと隣にいてよ……っ!」
「……私もだ」
初めてだった。
朔が、己の我ままな本心を口にしたのは。
「私も……もっとお前の隣にいたかった」
月が雲間からそっと顔を出し、淡く神聖な光が二人を包み込んでいく。
石化はすでに、朔の胸元まで達していた。
「だが……別れは、決して悲しいだけのものではない」
「……っ」
「お前と出会えたからこそ、この寂しさがある。……それだけで、私は幸せだ」
最後に残された左手が、凪の濡れた頬にそっと触れ、涙を優しく拭う。
「泣かないでくれ、凪」
「無理……無理だよぉ……っ」
「最後は……笑っていてほしい」
凪は何度も、何度も首を振った。
けれど──朔の最後の願いを叶えるために。
溢れ出る涙を袖で何度もぐしゃぐしゃに拭い、ひくつく息を必死に整えた。
歪んでしまっても、ぐちゃぐしゃでも。
精一杯の笑顔を、朔へと向けた。
「……ありがとう、凪」
朔は心から安心したように、深く目を細めた。
「その笑顔を……最後に見れて、良かった」
月明かりが一際強く輝き、朔の全身が淡い粒子となって光を帯び始める。
まるで、夜の月光へと溶けていくかのように。
「朔──っ!!」
「凪」
最後に、お互いの名前を強く呼び合う。
「……幸せであった」
その言葉を夜空に残し──。
光の粒子は静かに、どこまでも美しく、夜の風に乗って舞い上がった。
……ひゅっと。
秋を孕んだ風だけが、そっと二人のいた場所を吹き抜ける。
凪はその場に立ち尽くしたまま、月明かりに照らされた夜空を見上げていた。
そこにはもう、朔の姿は見つけられなかった。




