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朝の空気は、ほんの少しだけ変わっていた。
窓から部屋へと吹き込む風には、昨日までの刺すような真夏の熱気ではなく、かすかな涼しさが混じっている。
「……あれ?」
カーテンを開けた凪は、パチくりと目を瞬かせて小さく首をかしげた。
「今日は、なんだかちょっと涼しいかも」
「季節が移ろっているのだな」
朝食の皿をテーブルへ運びながら、朔が静かに答える。
つけっぱなしのテレビからは、アナウンサーの爽やかな声が流れていた。
『……今週後半からは猛暑も一段落し、朝晩は過ごしやすくなりそうです。秋の気配が少しずつ──』
「もう秋が近いんだねぇ」
凪はどこか名残惜しそうに、窓の外の青空を見上げて笑った。
「今年の夏は……本当に、あっという間だったなぁ」
「……ああ」
朔も静かに頷く。
けれど、その返事はどこか遠く、上の空だった。
昨夜、スーパーの帰り道で感じた右腕の不自然な感覚。
あれ以来、胸の奥底から拭い去ることのできない暗い不安が、ずっと居座り続けている。
(……気のせいであれば、よいのだが)
そう、自分に言い聞かせることしかできなかった。
**
その日も凪はアルバイトへ向かい、朔はいつものように静かなワンルームで留守番をしていた。
ベランダから乾いた洗濯物を取り込み、丁寧に畳む。
部屋に掃除機をかけ、雑巾で床を隅々まで磨き上げる。
すっかり自分の日常となった家事を一通り終えたところで、朔は台所に立った。
「今日は……味噌汁でも作るか」
凪に教わった出汁の取り方や手順を思い出しながら、包丁の柄を握る。
大根をまな板の上に置き、すっと静かに刃を下ろした──その時だった。
──カランッ……!
硬い音を立てて、包丁が手から滑り落ちた。
「……ッ!?」
朔は素早く屈み込み、包丁を拾い上げる。
けれど、その右手は朔の意思を裏切るように、カタカタと小さく震えていた。
指先に力が入らない。まるで、感覚が麻痺していくかのように。
ぐっと何度も拳を握り直す。
……二度、三度と繰り返すと、今度は握れた。力も入る。
「……」
朔は無言のまま、自分の右手をじっと見つめた。
……やはり、おかしい。
昨夜の一度きりではない。
身体の奥で起きている何かしらの異変は、確実に、進行している。
**
夕方。
「ただいまーー!」
元気な声とともに、玄関の扉が開いた。
「おかえり」
朔は何事もなかったかのように、いつも通りの穏やかな表情で凪を出迎えた。
「今日ね、センターで先生から面白い話を聞いたんだ」
鞄を置きながら、凪が楽しそうに笑う。
「面白い話?」
「発掘された遺跡ってね、土器だけじゃなくて、種とか木の実、それに花粉分析までやることがあるんだって」
「……花粉?」
「うん。そういうのを調べると、『この場所には夏に実る植物があった』とか、『秋に稲を刈っていた』とか、当時の季節の暮らしまで分かることがあるらしいの」
朔は少し目を見開いた。
「土の中から……そこまで分かるのか」
「そう。『遺跡は、人が暮らしていた時間まで残してくれる』って先生が言っててさ。なんだか素敵だなって思った」
朔は静かに風に揺れる木々を見上げる。
「……人の営みも、季節も。土は忘れぬのだな」
凪が窓を少しだけ開ける。
夕暮れの涼しい風が、ふわりと部屋の中を吹き抜けていった。
「なんか……それ、分かる気がするな」
朔も静かに、その風を肌で受け止めた。
「……ああ」
その風の匂いは、確かに昨日の夏とは違っていた。
**
夕食のあと。
凪がテレビを見ながら食後のアイスを食べていると、不意に何かを思い出したように顔を上げた。
「そうだ! 来週あたり、お弁当持って大きな公園にでも行かない?」
「公園か」
「うん。暑さも少し落ち着いてきたし、たまには外でのんびりしたいなぁって」
朔は優しく目を細め、小さく頷いた。
「良いな。楽しみにしている」
そう答えながら──。
テーブルの陰で、朔は誰にも気づかれないよう、左手で震える右手首を強く強く押さえていた。
指先から、少しずつ生きている実感が遠ざかっていく。
(……これは)
もう、「疲れ」などという都合の良い言葉で誤魔化すことはできない。
悲しい確信だけが、静かに、胸へと積もっていく。
**
その夜。凪が深い眠りについた深夜。
朔は息を殺し、物音を立てぬようそっと部屋を抜け出した。
夜風は昼間よりも一段とひんやりと肌を撫で、夏の終わりを、そして別れの時をそっと告げているようだった。
向かった先は、ひとつしかなかった。
──月守古墳。
蒼い月明かりに照らされた墳丘は、生き物の気配もなく静まり返っていた。
朔はゆっくりと草を踏みしめて立ち止まり、静かにその場へ膝をついた。
そっと両目を閉じる。
ここに眠るのは、自分が千五百年もの間、ただじっと守り続けてきた『主』。
その顔も、名前すらも知らない。
けれど──目を閉じると、土の奥深くから、春の陽だまりのような温かく穏やかな想いが胸へと流れ込んできた。
『──お前は、よく務めを果たしてくれた』
言葉ではない。
けれど、魂に直接届くような静かな声。
『──長きにわたり使命を務めてくれたお前のために……何か、できることはないだろうか……』
その穏やかな想いに触れた瞬間、朔はようやくすべてを悟った。
「……そう、いうことだったのか」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと小さく呟く。
あの日。
公園で意識が目覚めた、あり得ない奇跡。
それは、ずっと自分に守られ続けてきた主が、感謝を込めて遺してくれた『最後の贈り物』だったのだ。
主の想いが起こした奇跡だからこそ。永遠ではいられない。
主の遺した力が尽きれば、自分は再び『物』へと戻る。
朔は深く、静かに目を閉じた。
「……十分に、幸せであった」
主への感謝を込めたその言葉とは裏腹に。
胸の奥深くでは──諦めきれない小さな願いが、胸を刺すような痛みとともに脈打っていた。
──まだ。
──もう少しだけ、凪の隣にいたい。
秋を孕んだ夜風が、そっと笹の葉を揺らす。眩しかった夏は、確かに終わろうとしていた。
けれど──終わろうとしていたのは、季節だけではなかった。




