10
凪の部屋には、今やいつもと変わらない温かな朝が流れていた。
「よしっ、いってきます!」
玄関でスニーカーを履きながら、凪が元気よく振り返って手を振る。
「気をつけてな」
朔は背筋を伸ばし、静かに深く頭を下げた。
最初はぎこちなかったその挨拶も、今ではすっかり二人の当たり前になっていた。
一晩だけ。
……そのはずだった。
気が付けば、あの真夏の公園で出会ってから、一ヶ月近くの時が流れている。
毎朝「いってきます」と言い、夕方には「おかえり」と迎えてもらう生活。
一人きりだった狭い部屋が、誰かと温もりを分け合う場所に変わっていた。
「じゃあ、今日も留守番よろしくね」
「心得た」
凪はくすりと苦笑する。
「ふふ、その言い方、まだ慣れないなぁ」
朔もほんの少しだけ口元を緩め、真顔で答えた。
「……善処しよう」
「あはは! それもちょっと固いけどね!」
弾けた笑い声が、朝の小さな部屋いっぱいに広がる。
いつもと変わらない、平和で優しい朝だった。
**
一方、凪が通う埋蔵文化財センターでは、相変わらず不穏で慌ただしい空気が続いていた。
「ねえ、例の武人埴輪……まだ見つからないの?」
昼休み。プレハブ事務所の片隅で、アルバイトの学生たちがひそひそと噂話を交わしている。
「警察も捜査してるみたいだけど、防犯カメラにも映ってなくて手掛かりゼロなんだって」
「あんなに重くて大きな埴輪、一体どうやって持ち出したんだろうね……」
凪は何も言えず、黙ってお茶を口に運んだ。
(……どうしよう)
頭に浮かぶのは、今この瞬間も自分の部屋で留守番をしている朔の姿。
もちろん、「古代の埴輪が人間になりました」なんて警察に言ったところで信してもらえるはずがない。
けれど、彼が見せる常人離れした身体能力や浮世離れした言動は、あり得ない可能性を嫌でも意識させられた。
(……やっぱり、朔なんだろうか)
小さく息を吐き捨てた、その時だった。
「白石さん」
振り返ると、矢島が真剣な面持ちで立っていた。
「警察から、追加で少し聞き取りをしたいそうです」
「……はい」
応接スペースで行われた十分ほどの聞き取りは、以前と同じ内容の確認だった。
発掘当日の様子。
保管庫で最後に見かけた時間。
不審な人影を目撃しなかったか。
「……すみません、やはり特に変わったことは覚えていません」
嘘をついている罪悪感に胸を痛めながら頭を下げ、凪は部屋をあとにした。
**
「ただいまー……」
夕暮れ時。
重い足取りで部屋の鍵を開けると──
「おかえり」
奥から、変わらない低い声が返ってくる。
たったそれだけで、胸の中に溜まっていた重たい疲れが、すーっと溶けていくのが分かった。
「今日は、何かしてた?」
「部屋の掃除をした」
見回すと、昨日よりも床やすみずみがピカピカに磨き上げられている。
「それと、洗濯もだ」
ベランダには、角をきれいに揃えて干された洗濯物が夕風に揺れていた。
「……朔」
「なんだ」
「……もう完全に『主夫』じゃん」
「しゅふ……?」
「ううん、何でもない!」
凪は思わず大爆笑した。
**
その日の夕食は、朔が凪から教わって覚えたばかりの野菜炒めだった。
「ん! 前よりずっと上手になってる!」
「凪に教わった通りに火を通した」
どこか誇らしげに胸を張る朔。
「もう私より料理上手かも」
「いや、まだまだ及ばぬ」
「ふふ、謙虚だなぁ」
小さな折りたたみテーブルを挟んで、二人で顔を見合わせて笑う。
ふと、つけっぱなしにしていたテレビから、天気予報のニュースが聞こえてきた。
『……連日の猛暑もピークを過ぎ、八月も残りわずかとなりました。夏休み終盤の行楽地は──』
そのアナウンスに、凪はぴたりと箸を止めた。
「そっか……もう、そんな時期なんだ」
「……早いものだな」
朔も静かに頷いた。
永遠に続くと思っていた、賑やかで眩しい夏。
けれど、季節の時計は、着実に刻まれていた。
**
夕食後。
風が少し涼しくなった夜道を、二人で近所のコンビニまで散歩がてら歩いた。
「水、重いから私が持つよ」
「いや、任せよ」
朔は当たり前のように、凪の手から重い買い物袋を受け取った。
その時だった。
──ふっ。
「……?」
朔の右腕から、唐突にすっと感覚が抜け落ちた。
ガサッ!!
手から滑り落ちた買い物袋が、アスファルトの地面へ転がる。
「朔……!?」
朔は一瞬だけ立ち止まり、自分の右手をまじまじと見つめた。
強く握りしめようとしても、指先に力が入らない。こんなことは、初めてだった。
まるで、身体の一部が自分のものでなくなったかのような、奇妙な感覚。
本当に、一瞬のことだった。
すぐに感覚が戻り、朔は何事もなかったかのように屈んで袋を拾い上げた。
「……すまぬ。手が滑った」
「大丈夫? 怪我なかった?」
「問題ない」
凪も、「ちょっと疲れているのかな」程度にしか思わなかった。
「最近暑かったし、疲れが出たのかもね」
「……ああ。そうかもしれぬ」
朔は静かに頷く。
けれど──凪に背を向けたその右手は、誰にも気づかれないよう、袖の中で小さく、震えていた。
夕焼けの残光が静かに消えていく帰り道。
二人は何事もなかったかのように、寄り添って並んで歩いていく。
けれど、そのかすかな右手の震えだけが──「夏の終わり」を、静かに告げ始めていた。




