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ひと夏の奇跡 ~武人埴輪の千五百年目の恋~  作者: おかゆ


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11/12

10

凪の部屋には、今やいつもと変わらない温かな朝が流れていた。



「よしっ、いってきます!」



玄関でスニーカーを履きながら、凪が元気よく振り返って手を振る。



「気をつけてな」



朔は背筋を伸ばし、静かに深く頭を下げた。

最初はぎこちなかったその挨拶も、今ではすっかり二人の当たり前になっていた。



一晩だけ。

……そのはずだった。



気が付けば、あの真夏の公園で出会ってから、一ヶ月近くの時が流れている。

毎朝「いってきます」と言い、夕方には「おかえり」と迎えてもらう生活。

一人きりだった狭い部屋が、誰かと温もりを分け合う場所に変わっていた。



「じゃあ、今日も留守番よろしくね」


「心得た」



凪はくすりと苦笑する。



「ふふ、その言い方、まだ慣れないなぁ」



朔もほんの少しだけ口元を緩め、真顔で答えた。



「……善処しよう」


「あはは! それもちょっと固いけどね!」



弾けた笑い声が、朝の小さな部屋いっぱいに広がる。

いつもと変わらない、平和で優しい朝だった。




**




一方、凪が通う埋蔵文化財センターでは、相変わらず不穏で慌ただしい空気が続いていた。



「ねえ、例の武人埴輪……まだ見つからないの?」



昼休み。プレハブ事務所の片隅で、アルバイトの学生たちがひそひそと噂話を交わしている。



「警察も捜査してるみたいだけど、防犯カメラにも映ってなくて手掛かりゼロなんだって」


「あんなに重くて大きな埴輪、一体どうやって持ち出したんだろうね……」



凪は何も言えず、黙ってお茶を口に運んだ。



(……どうしよう)



頭に浮かぶのは、今この瞬間も自分の部屋で留守番をしている朔の姿。

もちろん、「古代の埴輪が人間になりました」なんて警察に言ったところで信してもらえるはずがない。

けれど、彼が見せる常人離れした身体能力や浮世離れした言動は、あり得ない可能性を嫌でも意識させられた。



(……やっぱり、朔なんだろうか)



小さく息を吐き捨てた、その時だった。



「白石さん」



振り返ると、矢島が真剣な面持ちで立っていた。



「警察から、追加で少し聞き取りをしたいそうです」


「……はい」



応接スペースで行われた十分ほどの聞き取りは、以前と同じ内容の確認だった。

発掘当日の様子。

保管庫で最後に見かけた時間。

不審な人影を目撃しなかったか。



「……すみません、やはり特に変わったことは覚えていません」



嘘をついている罪悪感に胸を痛めながら頭を下げ、凪は部屋をあとにした。




**




「ただいまー……」



夕暮れ時。

重い足取りで部屋の鍵を開けると──



「おかえり」



奥から、変わらない低い声が返ってくる。

たったそれだけで、胸の中に溜まっていた重たい疲れが、すーっと溶けていくのが分かった。



「今日は、何かしてた?」


「部屋の掃除をした」



見回すと、昨日よりも床やすみずみがピカピカに磨き上げられている。



「それと、洗濯もだ」



ベランダには、角をきれいに揃えて干された洗濯物が夕風に揺れていた。



「……朔」


「なんだ」


「……もう完全に『主夫』じゃん」


「しゅふ……?」


「ううん、何でもない!」



凪は思わず大爆笑した。




**




その日の夕食は、朔が凪から教わって覚えたばかりの野菜炒めだった。



「ん! 前よりずっと上手になってる!」


「凪に教わった通りに火を通した」



どこか誇らしげに胸を張る朔。



「もう私より料理上手かも」


「いや、まだまだ及ばぬ」


「ふふ、謙虚だなぁ」



小さな折りたたみテーブルを挟んで、二人で顔を見合わせて笑う。



ふと、つけっぱなしにしていたテレビから、天気予報のニュースが聞こえてきた。

『……連日の猛暑もピークを過ぎ、八月も残りわずかとなりました。夏休み終盤の行楽地は──』

そのアナウンスに、凪はぴたりと箸を止めた。



「そっか……もう、そんな時期なんだ」


「……早いものだな」



朔も静かに頷いた。

永遠に続くと思っていた、賑やかで眩しい夏。

けれど、季節の時計は、着実に刻まれていた。




**




夕食後。

風が少し涼しくなった夜道を、二人で近所のコンビニまで散歩がてら歩いた。



「水、重いから私が持つよ」


「いや、任せよ」



朔は当たり前のように、凪の手から重い買い物袋を受け取った。

その時だった。



──ふっ。



「……?」



朔の右腕から、唐突にすっと感覚が抜け落ちた。



ガサッ!!



手から滑り落ちた買い物袋が、アスファルトの地面へ転がる。



「朔……!?」



朔は一瞬だけ立ち止まり、自分の右手をまじまじと見つめた。

強く握りしめようとしても、指先に力が入らない。こんなことは、初めてだった。

まるで、身体の一部が自分のものでなくなったかのような、奇妙な感覚。



本当に、一瞬のことだった。

すぐに感覚が戻り、朔は何事もなかったかのように屈んで袋を拾い上げた。



「……すまぬ。手が滑った」


「大丈夫? 怪我なかった?」


「問題ない」



凪も、「ちょっと疲れているのかな」程度にしか思わなかった。



「最近暑かったし、疲れが出たのかもね」


「……ああ。そうかもしれぬ」



朔は静かに頷く。

けれど──凪に背を向けたその右手は、誰にも気づかれないよう、袖の中で小さく、震えていた。



夕焼けの残光が静かに消えていく帰り道。

二人は何事もなかったかのように、寄り添って並んで歩いていく。

けれど、そのかすかな右手の震えだけが──「夏の終わり」を、静かに告げ始めていた。





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