第七話 風の吹く村と、幼き絆
グラースヴェルト村を吹き抜ける風は、青々とした草の匂いを運んでいた。
村の東にある小高い丘。その斜面に腰を下ろし、ノア・ブランクは眼下に広がる景色を眺めていた。
赤茶色の屋根が連なる家々。その周囲には薬草畑が広がり、少し離れた場所では麦畑が風に揺れている。村の中央にはひときわ大きな木造建築があり、そこから細い煙が立ち上っていた。
ブラン薬舗。
父エリアスと母マリアが営む、村で唯一の本格的な薬舗だ。薬の調合に使う炉の煙と、乾燥させた薬草の香りは、ノアにとって生まれたときから慣れ親しんだものだった。
三歳のとき、彼は指先から青白い閃光を放った。
大放電事件――と、ノア自身は心の中で呼んでいる。
あれから七年。十歳になったノアのマナに対する理解は、当時とは比べものにならないほど深まっていた。
魔法とは、精霊に祈りを捧げ、願いを聞き届けてもらうもの。
この世界では、それがごく一般的な認識だった。
しかし、ノアにとって魔法は、祈りによって奇跡を起こすことではない。マナという未知の要素を介して、世界に存在する現象へ干渉する技術だった。
たとえば、水。
空気中に含まれる水蒸気を集め、局所的な圧力や温度の変化を利用して凝結させる。ノアは頭の中で現象を組み立て、そこへマナを流し込む。
すると、彼の目の前に透明な水滴が生まれた。
水滴は陽光を受けてきらめき、ノアの指先の動きに合わせて、ふわりと宙を漂う。
「……よし」
ノアが指を弾くと、水滴は細かな霧となって弾けた。光を受けた霧の向こうに、小さな虹が浮かび上がる。
続いて、彼は空気の流れを組み替えた。
気圧にわずかな差を作り、周囲の空気を引き込む。草の葉が一斉に揺れ、足元で小さなつむじ風が踊った。
火も、水も、風も。
今では、詠唱も魔石も必要ない。
もちろん、マナを動かす感覚を身につけるまでには、途方もない試行錯誤があった。頭の中で現象を理解できることと、実際にマナを通して再現できることは別物なのだ。
それでも、現象の仕組みを考え、仮説を立て、試してみる。その繰り返しは、前世で実験装置と向き合っていたころと変わらない。
ただし、今の実験室には白衣も測定器もない。
代わりにあるのは、草原と青空と、自分の身体だった。
「――おい、ノア! またそんな難しそうな顔してんのか!」
背後から、聞き慣れた声が飛んできた。
振り返ると、丘の下から少年が駆け上がってくるところだった。
赤みがかった茶色の髪は、走るたびに跳ねている。日に焼けた顔にはそばかすが散り、膝や肘には新しい擦り傷。腰には使い込まれた革のベルトを巻き、手には木剣を握っていた。
アルス・ブラン。
ノアより二歳年上の従兄であり、彼にとって幼いころから一緒に育ってきた友人でもある。
「アルス兄さん。また木剣の稽古?」
「おうよ! 父ちゃんにみっちりしごかれてきた!」
アルスは胸を張ったあと、手に持っていた包みをノアに差し出した。
「ほら、固くなる前に食え!」
包みの中には、まだほんのり温かいパンが入っていた。表面は粗く焼き上がっているが、香ばしい匂いがする。
「これ、どこで?」
「薬舗の隣のパン屋だよ。朝早くから焼いてたんだ。俺が来たとき、ちょうど売りに出したところだった」
「ありがとう、アルス兄さん」
ノアはパンをひと口かじった。
外側は少し硬く、中はしっかりとした歯ごたえがある。噛むほどに小麦の甘みが広がった。
「うん。おいしい」
「だろ! ここのパンは焼きたてが一番なんだ」
アルスは満足そうに笑い、ノアの隣にどかりと腰を下ろした。
二人はしばらく、眼下の村を眺めていた。
アルスは剣の稽古や冒険者の話が好きだった。身体を動かし、誰かと競い、勝てば喜び、負ければ悔しがる。思ったことはすぐに口に出し、嬉しいときは全身で喜ぶ。
ノアとは、ずいぶん違う。
ノアは物事を考えるとき、まず仕組みを知ろうとする。人の言葉も行動も、気づけば分析の対象になっていた。前世では、それが研究者としての強みだった。
けれど、この世界で暮らすうちに、彼は少しずつ気づいていた。
人間は、理屈だけで動いているわけではない。
そして、自分が考えすぎてしまうとき、アルスはいつも当たり前のようにノアを日常へ引き戻してくれた。
「なあ、ノア」
パンを食べ終えたアルスが、ふと思い出したように言った。
「五年前の大冒険、覚えてるか?」
「もちろん。忘れるわけないよ。あのあと、父さんと母さんにものすごく怒られたからね」
「俺だって、父ちゃんにぶん殴られたぞ! あれは痛かった……」
アルスは自分の後頭部をさすった。
「でも、あのときの俺、格好よかっただろ?」
「……うん。そうだね」
ノアは小さく笑った。
あれは、ノアが五歳、アルスが七歳のころの話だった。
◇
その日、叔父のハンスがバルトルムからグラースヴェルト村へ来ていた。
ハンスはエリアスの兄で、王都から南西へ広がるグランヴェル子爵領の地方都市バルトルムにある冒険者ギルド支部で、物資統括管理官を務めている。普段は都市に暮らしているが、仕事の都合で弟の薬舗を訪れることも多かった。
そのときのアルスは、冒険者という職業にすっかり夢中だった。
父親がかつて一線で活躍していたこともあり、いつか自分も立派な冒険者になるのだと、会うたびに熱弁を振るっていた。
そして、その日はついに決行の日だった。
「いいか、ノア! 今日から俺たちは冒険者パーティーだ!」
「……そうなの?」
「そうだ! この村を守るために、まずは外の世界を調査するんだ!」
アルスは木剣を肩に担ぎ、得意げに宣言した。
「父ちゃんには内緒だぞ。見つかったら、また稽古が増えるからな!」
「それは、冒険者としてどうなんだろう……」
「細かいことはいいんだよ!」
アルスは村を囲む柵の隙間を見つけると、そこから外へ抜け出した。
ノアも後を追った。
危険があることはわかっていた。村の外には魔物が出る。大人たちから何度も聞かされていたし、薬舗には魔物に傷つけられた冒険者が運び込まれることもあった。
それでも、柵の向こうに広がる世界は、幼いノアにとって魅力的だった。
自分の目で確かめたい。
その気持ちが、危険を承知のうえで足を動かしていた。
二人は村から少し離れた茂みへと進んだ。
そして、そこで遭遇した。
「……グルルルル」
低いうなり声。
茂みの奥から現れたのは、大型犬ほどの体格を持つトカゲ型の魔物だった。鈍い緑色の鱗に覆われた身体。地面を捉える太い四肢。開いた口からは、濁った息が漏れている。
毒トカゲの幼体――ヴェノムリザードだ。
「う、うわ……!」
アルスの顔から血の気が引いた。
それでも彼は、ノアの前へ出た。
「ノア、下がれ!」
握りしめた木剣を構える。足は震えていたが、逃げようとはしなかった。
魔物が地面を蹴った。
アルスは木剣を振り上げたものの、濡れた落ち葉に足を取られ、派手に転んだ。
「アルス兄さん!」
ノアの思考が、一瞬で切り替わった。
逃げるべきか。助けを呼ぶべきか。いや、間に合わない。
視界の端に、鈍い光が見えた。
以前、ジェフリーの工房で拾い、持ち帰っていた使い古しの魔石の欠片だ。ノアは反射的にそれを握りしめた。
魔石そのものに大きな力は残っていない。だが、マナの流れを意識するための手がかりにはなる。
ノアは空気の状態を頭の中で組み立てた。
魔物の顔の前に、局所的な圧力差を作る。
そして、その差を一気に解放した。
轟音こそなかったものの、圧縮された空気が目に見えない拳のように魔物の顔面を打ち据えた。
「ギャウッ!」
魔物が怯んだ。
ノアは間を置かず、地面に近い空気中の水蒸気を凝結させた。魔物の足元に薄い氷の膜が広がる。
踏み出した前脚が滑り、巨体が横倒しになった。
その隙に、ノアはアルスの腕をつかんで引き起こした。
二人は必死に走った。
茂みを抜け、村の柵が見えるところまで駆け戻って、ようやく足を止めた。
アルスは肩で息をしながら、ノアを見つめた。
「すげぇ……」
その目に、恐怖とは別の光が浮かんでいた。
「ノア、お前、魔法使えたのか!?」
「……あ、うん。少しだけ」
ノアは曖昧に答えた。
魔法が使えることを隠そうとしたわけではない。ただ、いま自分が何をしたのか、うまく説明できる気がしなかった。
そんなノアの手を、アルスがぎゅっと握った。
「すげぇよ、ノア!」
そして、いつもの調子で胸を張る。
「でもな、魔法使いは前衛の陰に隠れてろ! 俺がもっと強くなって、剣で魔物なんか全部弾き返して、お前を絶対守ってやるからな!」
ノアは、言葉を返せなかった。
アルスは自分だって怖かったはずだ。木剣一本しか持っていない七歳の子供が、魔物を前にして震えていたのだから。
それでも、彼はノアの前に立った。
魔物の危険性を計算したからでも、勝てると判断したからでもない。
ただ、ノアを守ろうとしたのだ。
そこには理屈も打算もなかった。
ノアの胸の奥に、じんわりと温かいものが広がった。
前世で研究に没頭していたころ、彼は物事を理解することに夢中だった。わからない現象があれば解き明かしたい。仮説を立て、実験し、結果を確かめる。その過程こそが、彼の喜びだった。
けれど、いま自分の手を握っている少年の気持ちは、数式に置き換えなくてもわかった。
そして、わかるだけでは足りないとも思った。
この温かさを、失いたくない。
その日の夕方、二人は大人たちに見つかった。
「この大馬鹿野郎がああああっ!」
ハンスの怒声が、薬舗の庭に響き渡った。
アルスは頭を押さえ、ノアは父エリアスと母マリアに左右から抱きしめられていた。
「ノア、どれだけ心配したと思ってるの……!」
マリアは涙を浮かべ、ノアの顔や手足に怪我がないか何度も確かめた。
「村の外には危険な魔物がいるんだ。わかったね?」
エリアスの声は厳しかったが、その手は震えていた。
ノアは、両親がどれほど自分を心配したのかを、そのとき初めて実感した。
知識があれば、危険を回避できると思っていた。状況を分析し、最善の手を選べば、すべてを制御できるのだと。
けれど、自分の判断が間違っていればどうなるのか。
助けようとした相手まで危険にさらしてしまったら?
その夜、ノアはいつもより長く、母の腕の中にいた。
そして、心に刻んだ。
知りたいという気持ちを捨てるつもりはない。
ただ、その好奇心で、大切な人を危険にさらしてはいけないのだと。
◇
「……で、結局、父ちゃんに三日くらい頭をこぶだらけにされたんだよな」
現在に戻り、アルスは苦い顔で後頭部をさすった。
「いや、こぶだらけってほどじゃなかったと思うけど」
「俺にはそう感じたんだよ!」
アルスは不満げに声を上げ、それから急に真剣な表情になった。
「でもさ、あのときに決めたことは今も変わってないからな」
「決めたこと?」
「お前が危なくなったら、俺が前に出る。俺はお前の兄貴分だからな!」
アルスは木剣を持った手で、自分の胸をどんと叩いた。
「だから、安心して魔法の研究でも何でもやってろ。俺がもっと強くなって、ちゃんと守ってやる!」
ノアは従兄の顔を見た。
屈託のない笑顔。まっすぐな眼差し。少しも疑うことを知らないような、明るい金色の瞳。
「うん。頼りにしてるよ、アルス兄さん」
ノアがそう答えると、アルスは満足げに笑った。
「任せとけって!」
その笑い声は、丘を渡る風に乗って、村のほうへと広がっていった。
◇
その日の夕方、ブラン薬舗の食卓はいつもより賑やかだった。
「だはははは! なーにが『バルトルムの若手は意気地なし』だ! 薬を飲んで肉を食って寝ろ、以上だ!」
豪快な笑い声が、食卓を揺らす。
声の主はハンス・ブラン。エリアスより二、三歳年上の兄であり、アルスの父親だ。
広い肩と厚い胸板。短く刈った深い栗色の髪は少し癖が強く、日に焼けた顔には古い傷跡が刻まれている。袖を肘までまくった仕事着の下からは、冒険者時代に鍛えた太い前腕がのぞいていた。
いまの彼は、グランヴェル子爵領の中心都市バルトルムにある冒険者ギルド支部で、物資統括管理官を務めている。
以前は、重い斧を振るい、肉体強化のマナを駆使して魔物と戦う前衛の冒険者だった。Aランクに届くほどの実力を持っていたが、妻を魔物の襲撃で失ったことをきっかけに、第一線から退いた。
幼いアルスを一人で育てながら、冒険者たちを支える仕事へと移ったのだ。
慣れない書類仕事に苦労することもあったが、現場を知る彼だからこそ、物資の不足が冒険者たちの命に直結することをよく理解していた。
その経験を生かし、ハンスはギルドの物資管理体制を見直した。弟のエリアスが作る高品質なポーションを、正式な流通経路に乗せる仕組みを整えたのも彼だった。
「ハンス兄さん、ノアの前でそんな大きな声を出さないでちょうだい」
マリアが、呆れたように眉を下げた。
「ん? なんだ、ノアはもう十歳だぞ? これくらいの声で驚くような年じゃねえだろ!」
「そういう問題ではありません」
「だはははは! 相変わらず手厳しいな、マリア!」
ハンスは笑いながら、杯に注がれた果実酒をひと口飲んだ。
「いやあ、それにしても、ここの飯はうまい! バルトルムから馬車で一時間ほどとはいえ、朝から仕事を片づけて来ると腹が減ってかなわん!」
バルトルムはグラースヴェルト村から街道をたどった先にある、グランヴェル子爵領の主要都市だ。領主ヴァルター・フォン・グランヴェルの屋敷が置かれ、商人や職人が行き交い、冒険者ギルドの支部も構えている。
村からそう遠くない場所にありながら、街の規模も人の数も、グラースヴェルトとは比べものにならない。
ハンスとアルスは普段、バルトルムで暮らしている。しかし、ハンスは仕事の都合でたびたび村を訪れ、そのたびにエリアスのポーションを仕入れていく。アルスも父親の仕事が立て込むと、数日ほどブラン家に泊まることがあった。
ノアにとって、従兄が家にいる日はいつもより賑やかで、少し騒がしくて、そして楽しい日だった。
「ところで、エリアス」
肉を頬張っていたハンスが、ふと真面目な顔になった。
「例のポーション、調子はどうだ?」
「順調だよ。薬草から余分な不純物を取り除く工程を見直してね。以前より品質が安定するようになった」
エリアスは穏やかな口調で答えた。
「従来品と比べて、治癒の効果は二倍以上。マナの過剰摂取による不調も、かなり抑えられるようになった。まだ改良の余地はあるけれどね」
「二倍以上か……。そりゃ、現場が欲しがるわけだ」
ハンスは感心したようにうなずいた。
「ギルドの連中からも評判がいい。これまでなら治療に何日もかかった怪我が、ずっと早く回復するんだからな。怪我をした仲間を連れて帰る冒険者たちにとっちゃ、ありがたい話だ」
エリアスは少し照れたように笑った。
「僕は薬を作っているだけだよ。実際に使ってくれる人たちがいてこそだ」
「謙遜するな。お前の薬で助かった奴が何人いると思ってるんだ」
ハンスはそう言い切り、もう一切れ肉を口へ運んだ。
しかし、次の言葉には、わずかな渋みが混じった。
「ただな……王都の連中まで、この薬の噂を聞きつけたらしい」
エリアスの手が止まった。
「王都、オルディスの?」
「ああ。王立の研究機関や医療関係者が、ずいぶん興味を持っているそうだ。こんな高品質のポーションを作れる錬金術師が、どうして辺境の村にいるんだってな」
王都オルディスは、ルクスリア王国の政治と魔導研究の中心地だ。王家の権威のもとに多くの魔導士や研究者が集まり、各地の技術や情報も、最終的には王都へと流れ込んでいく。
グラースヴェルト村から王都までは、直線距離にしておよそ百キロ。街道を使えば、さらに長い道のりになる。
距離だけを見れば、決して別世界のように遠いわけではない。だが、王都と辺境の村では、人も、情報も、そして権力も、その集まり方がまるで違っていた。
「それに、領主のグランヴェル子爵もな」
ハンスは声を少し落とした。
「王都のお偉方に取り入ろうと、ずいぶん張り切っているらしい。お前の成果を自分の領地の功績として売り込むつもりじゃないか、なんて話もある」
「……そうか」
エリアスは、短く答えた。
「俺のほうで、ギルドを通した取引だってことは明確にしてある。そう簡単に横から持っていかせるつもりはねえよ。ただ、領主様がどこまで本気なのかは、まだ読めん」
ハンスは肉を切り分けながら、弟の顔をちらりと見た。
「ま、今すぐどうこうって話じゃない。余計な心配をさせたな」
「いや、教えてくれてありがとう、兄さん」
エリアスはそう言って、再び食事に手をつけた。
ノアは黙って、そのやり取りを聞いていた。
王都オルディス。王家の権威。魔導研究の中心。地方領主と冒険者ギルド。
この世界にも、権力と技術が結びつく構造があるらしい。
前世でも、研究は純粋な知的好奇心だけで進むわけではなかった。資金、組織、政治、そして成果を誰が管理するのか。研究室の外側にある事情が、研究そのものを左右することは珍しくない。
もちろん、この世界の事情を前世の経験だけで判断することはできない。それでも、技術が価値を持てば、それを求める人間が現れるという点では、さほど不思議な話でもなかった。
ノアには、ひとつ気がかりがあった。
三歳のときの大放電事件以来、両親は彼の魔法について、必要以上に人目に触れないよう気を配ってきた。
それは、ノアの力が危険だからというだけではない。まだ幼い彼自身が、自分の能力をどこまで扱えるのか、誰にもわかっていなかったからだ。
ジェフリーもまた、ノアの異常な才覚を知る数少ない大人の一人だった。彼はノアの力を面白がる一方で、実験の危険性や身体の限界について、何度も釘を刺していた。
両親も、無理な実験をしないこと、疲れたら休むこと、知らない人の前で魔法を使わないことを、繰り返しノアに言い聞かせていた。
ノアはそれを窮屈だとは思わなかった。
自分の好奇心を止めようとしているのではない。自分を守ろうとしてくれているのだと、理解していたからだ。
「……ま、難しい話はここまでだ!」
空気が少し重くなったのを感じ取ったのか、ハンスが急に声を張り上げた。
「明日はノアとアルスにも手伝ってもらうぞ! 肉の仕入れだ! 食い盛りが二人もいるんだから、いくらあっても足りねえ!」
「よっしゃ! 任せとけって!」
アルスが即座に反応した。
「俺、重い荷物だって運べるからな!」
「おう、頼もしいじゃねえか! ノア、お前も来るだろ?」
「うん。手伝うよ」
ノアは微笑んだ。
食卓には再び笑い声が戻った。マリアがスープをよそい、エリアスがパンを切り分け、ハンスとアルスが明日の予定を勝手に決めていく。
その光景を眺めながら、ノアは胸の奥が満たされていくのを感じていた。
知りたいことは、まだ山ほどある。
魔法の仕組みも、マナの正体も、世界を形作る法則も。いつか解き明かしたい謎は尽きない。
けれど、いま彼の目の前にあるものも、同じくらい大切だった。
温かい食事。家族の声。従兄の笑顔。
この時間を守りたい。
そう思う気持ちは、どんな理論よりも確かなものだった。
◇
翌朝、ノアは村の外れにあるジェフリーの工房を訪ねた。
「ジェフ爺さん、入るよ」
「……挨拶くらいしてから入れ。図々しい鼻たれ小僧め」
中から返ってきたのは、いつもどおりのぶっきらぼうな声だった。
ノアは扉を開け、工房の中へ足を踏み入れた。
金属と油の匂い。壁に掛けられた工具。作業台の上には、分解された魔導器や歯車、用途のわからない細かな部品が並んでいる。
窓から差し込む朝の光が、空中を漂う細かな埃を照らしていた。
作業台の奥では、ジェフリーが片目に拡大鏡を当て、金属部品を調べていた。
七年前に比べれば、白髪はさらに増え、背中も少し丸くなった。それでも、太い眉の下にある目は鋭く、道具を扱う手には迷いがない。
ノアは持ってきた包みを作業台の端に置いた。
「母さんが焼き菓子を持っていきなさいって」
「いらんと言ったら、持って帰るのか」
「うん。母さんには、渡したって報告するけど」
「……そういうところだけ、妙に素直だな」
ジェフリーは拡大鏡を外し、包みを手元に引き寄せた。
「置いとけ。あとで食う」
「うん」
ノアは工房の中を見回した。
三歳のときの事件以来、彼はこの工房へ頻繁に通うようになっていた。最初は魔導器の仕組みが知りたかっただけだったが、いつの間にか、ジェフリーの作業を手伝うのが日課になっていた。
魔導ランプの点灯機構。着火器の火花を生む仕組み。冷却箱の温度調整。マナを通す回路と、その流れを制御する板状の部品。
ノアにとっては、未知の原理を調べる絶好の機会だった。
ジェフリーにとっても、ノアは扱いにくい助手ではあったが、役に立つことも多かった。部品の配置や動作の変化をよく覚えており、一度説明したことを次の作業で応用してみせる。
ただし、ときどき説明の途中で妙な言葉を口にする。
そのたびに、ジェフリーは眉間にしわを寄せることになるのだった。
「今日は何だ。魔導器の修理か? それとも、また魔法の常識をひっくり返す実験か?」
「ちょっと確認したいことがあるんだ」
「確認、ねえ」
ジェフリーは椅子から腰を上げ、作業台の上を片づけた。
「で、何をする?」
ノアは周囲を見て、火をつけても問題のない木片を一つ選んだ。
「火の魔法。もう一度、条件を確かめたい」
「この前もやっただろうが」
「前回と条件を変えるんだ。どこまで同じ結果になるか見たいから」
「……まったく。お前の頭ん中じゃ、世界は実験台か」
そう言いながらも、ジェフリーは木片の周囲に余計なものがないか確認し、作業台の端に水の入った容器を置いた。
「火をつけるなら、燃え広がらねえようにしろ。終わったら、焦げ跡まで確認する。いいな?」
「うん。ありがとう、ジェフ爺さん」
ノアは木片の前に立った。
頭の中で、現象を組み立てる。
燃焼を維持するための条件。熱の供給。周囲の空気の状態。マナによる干渉が、それらにどう作用するのか。
彼は、火が生まれる様子を思い描いた。
指先にマナが集まる。
次の瞬間、木片の表面に小さな橙色の炎が灯った。
ジェフリーは黙って炎を観察した。
ノアは炎を数秒だけ維持し、すぐに空気の流れを変えた。燃焼を支える条件を崩すように、局所的な気流を組み替える。
炎が揺らぎ、消えた。
焦げた木片の表面に、まだ熱が残っている。
ノアは空気中の水蒸気を凝結させ、細かな水滴を集めた。それを焦げ跡に落とし、残った熱を奪う。
「……ふむ」
ジェフリーは、木片を手に取った。
「火をつけて、消して、冷やす。詠唱も魔石もなし。相変わらず、妙な芸当だな」
「火そのものを呼び出しているわけじゃないんだ。燃焼が成立する条件を整えて、マナで現象を起こしている。僕の理解が正しければ、だけど」
「また、その『僕の理解が正しければ』か」
ジェフリーは木片を置いた。
「自信があるんだか、ないんだか、わからん言い方をする」
「確かめていないことを、確かだとは言えないからね」
ノアは素直に答えた。
ジェフリーは少しだけ口元を緩めた。
「……まあ、そこは悪くねえ」
彼は長年、魔導器の修理を生業にしてきた。
魔導ランプが点かなくなれば、まず回路を調べる。部品の摩耗を確認し、マナの通り道に詰まりがないかを探り、熱による変形や接合部の緩みを確かめる。
マナが流れていないからといって、すぐに魔石のせいだと決めつけることはない。
道具は、素材と構造によって成り立っている。
どれほど強いマナを注ぎ込んでも、金属が耐えられなければ歪む。回路が細ければ過負荷で焼き切れる。接合部が弱ければ、そこから壊れる。
それはジェフリーが何十年もかけて身につけた、職人としての感覚だった。
ノアの説明は、彼の知っている言葉とはずいぶん違う。ときには何を言っているのか、まるでわからないこともある。
それでも、ノアの考え方には筋が通っていた。
何かを起こしたら、その結果を確かめる。条件を変えれば、何が変化するのかを観察する。思ったとおりにならなければ、考え直す。
ジェフリー自身も、道具を直すときには似たようなことをしてきた。
ただ、ノアはそれを、見たこともない言葉と理屈で説明しようとするのだ。
「……お前のやり方は、俺には全部わかるわけじゃねえ」
ジェフリーは腕を組んだ。
「だが、起きたことを確かめずに、わかったつもりになるよりはましだ。そこは忘れるなよ」
「うん。ジェフ爺さんが、いつも道具でやっていることと同じだね」
「一緒にするな。俺は道具を直してるんだ」
「僕も、魔法の仕組みを調べてるんだよ」
「……口が減らねえ小僧だ」
ジェフリーは呆れたように鼻を鳴らした。
けれど、ノアを追い出そうとはしなかった。
「で、今日はそれだけじゃねえんだろう?」
「うん。地属性の魔法について、相談したいんだ」
ノアは作業台の上に、親指ほどの大きさの使い古しの魔石を置いた。
「火、水、風は、魔石を使わなくてもかなり安定してきた。でも、土だけはまだ難しいんだ」
「ほう」
「空気や水なら、流れや状態を変えることで対応できる。でも、土や石の形を変えるのは、もっと負荷が大きい。物質の構造そのものを変えようとすると、マナの制御がうまくいかなくなる」
ノアは言葉を選びながら説明した。
本当は、原子や分子の結びつき、結晶構造、物質を形作る相互作用について、もっと細かく話すこともできる。
しかし、それをそのまま説明しても、ジェフリーには伝わりにくいだろう。ノアは、相手が理解できる言葉に置き換えようとした。
「たとえば、土を壁みたいな形に固めようとすると、途中で構造が崩れることがあるんだ。力をかける場所がずれたり、形を保つためのマナが足りなかったりするんだと思う」
「なるほどな」
ジェフリーは魔石をつまみ上げた。
「それで、そいつを使うと安定するのか?」
「うん。魔石を介すと、マナの流れを制御しやすくなる。変化させたものが、途中で崩れにくくなるんだ」
ノアは少し考え、それから、つい口を滑らせた。
「結晶格子の補助グリッドとして機能しているんじゃないかと思う」
ジェフリーの手が止まった。
「……何だって?」
「結晶格子の補助グリッド」
「繰り返さんでいい。意味を聞いてるんだ」
「あ、ごめん」
ノアは一度、口を閉じた。
自分にとっては、考えていることを表すための自然な言葉だった。だが、相手にとって馴染みのない言葉なら、説明になっていない。
「ええと……魔石を、形を保つための足場みたいに使っているんだと思う。石を別の形に変えるとき、ただマナを流すだけじゃ、うまく形を作れない。魔石があると、マナの流れを誘導して、変化した構造を安定させやすくなるんだ」
ジェフリーはしばらく黙っていた。
やがて、魔石を光にかざし、表面を指先でなぞる。
「足場、か……」
彼は魔石を作業台に戻した。
「つまり、マナを流すためだけじゃなく、形を保つためにも使ってるってことだな」
「そう考えてる。まだ、確かめきれてはいないけど」
「ふん。最初からそう言え」
ジェフリーは魔石をノアのほうへ押し戻した。
「だが、考え方としては悪くねえ。道具を使うなら、何のために使うのかを見極める必要がある。魔石だから何でもできる、ってわけじゃないからな」
「うん。だから、どんな条件で安定するのかを調べたいんだ」
「その前に、自分の身体がどこまで耐えられるかを覚えろ」
ジェフリーの声が、少しだけ厳しくなった。
「マナを流せば何でもできると思うな。お前はまだ十歳だ。身体も、マナを扱うための器も、成長の途中だろうが」
ノアは素直にうなずいた。
地属性の魔法を無理に使おうとすると、身体の内側を細かな砂でこすられるような感覚が生じる。マナの通り道が乱れ、制御が追いつかなくなるのだ。
それが何に由来するのか、ノアにはまだ完全にはわからない。
だからこそ、ジェフリーの経験を頼りにしていた。
ジェフリーは、マナを扱う人間として、ノアよりずっと長い時間を生きている。
彼は魔導器の修理を通して、マナが素材にどのような影響を与えるのか、どの程度の負荷で部品が壊れるのか、どんな兆候が危険の前触れになるのかを知っていた。
その知識は、理論書を読んだだけでは得られないものだ。
「石や金属は、空気や水とは違う。形が決まっていて、簡単には動かん。そこを無理に変えようとすれば、マナを扱うお前のほうにも負担が返ってくる」
ジェフリーはそう言いながら、魔石を指先で軽く叩いた。
「精霊の力を借りるにしても、道具を使うにしても、まずは自分の限界を知ることだ。限界を知っていれば、補う方法も考えられる」
「……うん」
ノアは、ジェフリーの言葉を頭の中で反芻した。
理論として考えれば、マナの流量と物質の構造変化、その負荷の関係を整理する必要がある。実験条件を揃え、魔石の大きさや状態を変え、結果を比較すれば、何かしらの傾向が見えるかもしれない。
だが、ジェフリーが伝えようとしているのは、それだけではなかった。
自分の身体を実験道具のように扱うな。
結果を求めるあまり、壊れるまで試すな。
できることと、できないことを見極めろ。
ノアは、その言葉を軽く受け流すつもりはなかった。
「ありがとう、ジェフ爺さん。次は、魔石の状態を変えながら、少しずつ試してみるよ」
「少しずつ、だぞ」
「うん」
「一度に条件を変えすぎるな。何が原因で結果が変わったのか、わからなくなる」
ノアは目を瞬かせた。
「……それ、僕も同じことを考えてた」
「なら、最初からそうしろ」
ジェフリーは、また鼻を鳴らした。
ノアは小さく笑った。
自分の知識がジェフリーに伝わらないことはある。逆に、ジェフリーの説明が、自分の理論とぴたりと一致しないこともある。
それでも、ジェフリーの言葉には、ノアがまだ知らない経験が詰まっていた。
理論だけでは見えないものがある。
そのことを、ノアはこの工房で何度も学んでいた。
「……ところで、ノア」
ジェフリーが、ふいに声を低くした。
「お前の力のことだ。村の外で、むやみに見せるんじゃねえぞ」
「わかってるよ」
「お前は、自分が何をやっているのか、ある程度わかっているつもりなんだろう。だが、周りの人間が同じように理解できるとは限らん」
ジェフリーは工具を片づけながら続けた。
「理解できないものを怖がる奴もいる。逆に、便利だからと利用しようとする奴もいる。どちらにしても、お前が困ることになるかもしれん」
ノアは、静かにうなずいた。
「僕は、偉くなりたいわけじゃないんだ。魔法がどういう仕組みなのか、知りたいだけだから」
「……そうか」
ジェフリーは、ノアの顔を見た。
その眼差しには、子供の好奇心だけではない、妙に落ち着いたものがある。けれど、目の前にいるのは、まだ十歳の少年だ。
知りたいという気持ちは本物だろう。ノアは自分の力を誇示したがるわけでも、誰かを従わせたいわけでもない。ただ、世界の仕組みを理解したいのだ。
だからこそ、ジェフリーは思う。
この小さな頭に、どれだけの知識が詰まっているのか。本人にも、まだわかっていないのかもしれない。
「……だったら、なおさら身体を大事にしろ」
ジェフリーは、ノアの頭を軽く小突いた。
「知りたいことがあるなら、長生きして調べろ。無茶をして倒れたら、そこで終わりだ」
「痛いよ、ジェフ爺さん」
「痛いくらいで済んでるなら、ありがたく思え」
ノアは苦笑した。
「わかった。無茶はしない」
「その言葉、何回目だ?」
「……覚えてない」
「だろうな」
ジェフリーの声に、ほんの少し笑いが混じった。
ノアは作業台の上を片づけ、ジェフリーに礼を言って工房を後にした。
◇
帰り道、夕暮れの光がグラースヴェルト村を赤く染めていた。
薬草畑の向こうでは、農作業を終えた人々が道具を片づけている。家々の窓からは灯りが漏れ、夕食の支度をする匂いが風に乗って流れてきた。
丘の近くまで戻ると、遠くから大きな声が響いた。
「ノアー! 飯だぞー!」
アルスが木剣を振りながら、こちらへ手を振っている。
「今行くよ、アルス兄さん!」
ノアは声を返し、駆け出した。
ブラン薬舗の窓からは、母マリアの歌声が聞こえていた。父エリアスが食卓を整え、ハンスが大きな声で何かを話し、アルスがそれに負けじと応じている。
にぎやかで、少し騒がしくて、温かい。
昼間はジェフリーの工房で魔導器の構造を考え、マナの扱いについて教えを受ける。夕方にはアルスと木剣を振り、時には一緒にパンを食べる。そして夜になれば、家族の待つ食卓へ帰る。
ノアは、世界の仕組みを知りたかった。
魔法も、マナも、物質も、まだわからないことばかりだ。ひとつの疑問を解けば、その先にはまた新しい疑問が待っている。
それでも、すべてを理屈で説明できるわけではないことを、ノアは少しずつ学んでいた。
アルスが自分を守ろうとする気持ち。父と母が向けてくれる愛情。ジェフリーがぶっきらぼうな言葉の奥に隠している気遣い。
それらを、無理に数式へ置き換える必要はなかった。
世界は、法則だけでできているわけではない。
少なくともノアにとって、この世界は、知りたいという好奇心と、守りたいと思う人たちの温もりが一緒に存在する場所だった。
「ノア! 早くしろよ! 肉がなくなるぞ!」
アルスの声に、ノアは笑った。
「今行くってば!」
彼は、家の灯りへ向かって走った。
十歳のノアにとって、その日もまた、何にも代えがたい一日だった。




