第六話 異端の才能と魔導解析
翌日。
ノアはエリアスに抱き上げられ、マリアと共に街の端にあるジェフリーの工房を訪れていた。
父の腕に抱かれながら、ノアは道すがら何度も工房の建物を見上げた。古びた木造の壁に、ところどころ石材を組み合わせた造り。屋根の端には黒ずんだ煙突が突き出し、入口の脇には、用途の分からない金属部品や木箱が積み上げられている。
看板には、何かの道具をかたどった図柄が描かれていた。長年風雨にさらされたせいか、文字はかすれ、端の木材も少し反り返っている。
いかにも街外れの修理屋、といった風情だ。
だが、ノアにとっては、それだけで十分に魅力的だった。
扉を開けると、油と金属、煤、そしてかすかに焦げたマナの匂いが鼻をくすぐった。
カチ、コチ。
どこかで時計が時を刻んでいる。
壁の片隅には小さな木製の掛け時計があり、その振り子が規則正しく揺れていた。作業机の脇には、皿に盛られた真鍮の歯車と、蓋を外された小型の時計。細い針金のような導魔鋼の線、先の尖ったピンセット、何枚もの金属板、用途の分からない刻印が施された部品まで、机の上には整然と並べられている。
一方で、壁際には修理待ちの魔道具が所狭しと置かれていた。
淡い光を失いかけた輝石灯。先端の金属部分が黒く焦げた着火魔道具。木製の杖に巻かれた金属の帯には、細かなひびが走っている。さらに奥には、小さな箱のような道具があり、扉を開けると内側からひんやりとした空気が流れてきた。
冷魔箱――食料を冷やして保存するための魔道具らしい。側面の小窓からは、細い溝が幾重にも刻まれた金属板が覗いている。
灯りをともす。火を起こす。食べ物を冷やす。道具を動かす。
前世なら電気や燃料、機械の仕組みに頼っていた仕事の一部を、この世界ではマナが担っているのだろう。
もちろん、魔法だけですべてが解決するわけではないらしい。
輝石灯には導魔線が必要で、着火魔道具には触媒があり、冷魔箱にはマナを流すための回路が組み込まれている。どれも、マナさえあれば何でもできるという代物ではなさそうだった。
(……うわ。何ここ。最高じゃん)
ノアは父の腕の中で、目をきらきらと輝かせた。
道具の形も、部品の配置も、傷や焦げ跡も、ひとつひとつが観察の対象だ。何がどうつながり、どこから力が伝わり、何が原因で動かなくなったのか。
分からないものが、こんなにたくさんある。
それだけで胸が躍った。
「おい。入口で突っ立ってねえで、さっさと入んな」
作業場の奥から、しゃがれた声が飛んできた。
ランプの下で細かな部品を覗き込んでいた老人が、ルーペを目元から外す。無造作に伸びた灰白色の髪は、あちらこちらに跳ねていた。深く刻まれた目元の上には白く太い眉があり、長年の作業で煤や油の染みついた手は、年齢に似合わず大きく、節くれ立っている。
背筋はしゃんと伸び、肩幅も広い。年老いてはいても、身体の芯まで衰えたようには見えなかった。
ジェフリーは訪ねてきた三人を順番に眺めると、最後にエリアスの腕の中にいるノアへ目を止めた。
「……なんだ、エル。朝っぱらから夫婦揃って深刻な顔して。そっちの鼻たれ小僧が、なんぞしよったか」
「いや、まあ……その、ちょっと相談したいことがあってな」
エリアスは苦笑した。
短い深栗色の髪に、日に焼けた肌。薬草の匂いが染みついた仕事着の袖は肘までまくられ、腕には細かな作業傷がいくつか見える。大きな手でノアの身体を支える様子は慣れていたが、今日はその手に、わずかな力が入りすぎていた。
ジェフリーは白い眉を片方だけ持ち上げた。
「相談? お前さんがそんな顔するたあ、よっぽどだな」
「……まあ、そうなんだ」
エリアスとマリアは顔を見合わせた。
マリアは胸元の小さな薬草模様のペンダントに、無意識に指先を添えていた。仕事のためにまとめた蜂蜜色の髪から、頬の横へ細い毛束がこぼれている。いつもなら明るい笑顔で店先に立っている彼女も、今朝は澄んだ緑の瞳に不安を滲ませていた。
昨夜の出来事を、いったいどこから話せばいいのか。
二人とも、まだあの光景をうまく整理できていなかった。
やがてエリアスが意を決し、ノアの起こした「雷事件」について説明し始めた。
三歳の息子が、薪に向かって手をかざしたこと。
その指先から、乾いた火花のようなものが走ったこと。
そして、薪の表面が焦げ、細い煙が上がったこと。
説明のあいだ、ジェフリーはほとんど口を挟まなかった。
ただ、時折、太い眉がぴくりと動いた。
話を聞き終えると、老人はしばらく黙り込んだ。手にしていたルーペを作業台へ置き、節くれ立った指で顎を撫でる。
やがて、鼻で笑った。
「ハッ……冗談だろ、エル。雷だと?」
「俺だって、できれば冗談であってほしかったさ」
「そもそも、この世界にそんなコモン・マギがあるかね。火、水、風、土……どれにも当てはまらん。雷なんぞ、基本属性の魔導で扱う現象じゃない」
ジェフリーは、先ほどまで分解していた小型時計の部品を脇へ避けた。
真鍮の歯車が皿の上で、ちり、と小さな音を立てる。
「雷を操るとなれば、光を司る精霊種――フェイか……あるいは……」
そこで、言葉が途切れた。
老人の表情から、さっきまでの軽薄さが消える。何かを思い出したように眉間へ深い皺を寄せ、そのまま口をつぐんだ。
(……今、何を言いかけた?)
ノアはジェフリーの顔を見上げた。
詳しい事情は分からない。だが、今の一瞬、老人が何かよくない可能性を考えたことだけは伝わってきた。
(まさか、俺が人間じゃないとでも疑ってるのか?)
ジェフリーは何も言わなかった。
それでも、言葉の途切れた先に何があったのか、エリアスとマリアにも察しがついたらしい。二人の表情が目に見えて硬くなる。
マリアはノアの背中に添えていた手を、そっと握り直した。
工房に、重苦しい沈黙が落ちた。
カチ、コチ。
壁の時計だけが、変わらぬ調子で時を刻んでいる。
やがてエリアスは、ノアを抱いたまま片手を差し出した。
「……これを見てくれ」
掌に載っていたのは、小さな魔石の欠片だった。
昨夜、ノアがポケットに入れていたクズ魔石だ。
ジェフリーは最初、何の変哲もない石を見るような目を向けた。だが、手に取って角度を変えた瞬間、その表情が一変した。
「……おい。こいつは」
かつては結晶のように透き通り、内部にわずかなマナの輝きを宿していたはずの魔石。
それが今では、光をほとんど通さない、くすんだ石へと変わっていた。中心から細かな亀裂が走り、表面にも目立たないひびが広がっている。
ジェフリーはルーペを取り上げ、魔石を指先でつまんだ。光の角度を変え、表面を確かめ、亀裂の走り方を追う。裏返しては戻し、別の角度から何度も覗き込む。
その手つきには、迷いがなかった。
見慣れない現象を前にしても、いきなり神秘や奇跡に答えを求めるのではない。まずは、目の前にある物質を観察する。傷を確かめ、構造を見て、どこに負荷がかかったのかを考える。
長年、壊れた魔道具と向き合ってきた職人の手つきだった。
「……こいつは、ただマナを使い切っただけじゃねえな」
ジェフリーは低く呟いた。
「結晶の内側が傷んでやがる。マナの流れが止まっただけなら、こんな割れ方はしねえ。どこかに、許容量を超える負荷がかかったんだ」
太い眉が、ほんのわずかに寄る。
彼は魔石を作業台へ置くと、隣にあった小さな金属製の鑑別具を引き寄せた。細い導魔鋼の線を魔石の表面へ近づけ、反応を確かめる。
何も起こらない。
ジェフリーは舌打ちした。
「完全に死んでやがる。いや……正確には、マナを通すための構造そのものが潰れたか」
そして、ゆっくりとノアへ視線を戻した。
「……ノア坊」
「な、なに?」
「お前、本当にこれを使ったのか?」
「……う、うん」
ジェフリーは椅子から立ち上がると、ノアの前にしゃがみ込んだ。
年老いてなお大柄な身体が、三歳児と目線を合わせるために低くなる。煤と油の染みついた大きな手が、作業台の縁を掴んだ。
その瞳には、老技師特有の鋭い観察眼と、隠しきれない戦慄が宿っていた。
「どうやった?」
「えっと……冬に服をぬぎぬぎするとき、バチッて光るでしょ? あれを薪にぶつけたら、早いかなって……」
「……は?」
ジェフリーの眉がぴくりと動いた。
「はぐらかすんじゃない」
「はぐらかしてないよ?」
「静電気の感覚を知っていたところで、ただのクズ魔石を焼き切るほどの放電を叩き出せるはずがないだろうが!」
「ええ……」
「ええ、じゃない!」
老人の声が工房に響いた。
エリアスが慌てて口を挟む。
「ジェフ、落ち着いてくれ。ノアはまだ三歳なんだ」
「三歳だから聞いとるんだろうが!」
ジェフリーはノアへ向き直り、声を落とした。
「いいか、ノア坊。お前は頭の中で何を思い描いた? 精霊に祈ったのか? 何か特別な言葉を唱えたのか? どんな順番で術を組み立てた?」
「……祈ってないし、順番とか、何も……」
ノアは言葉を濁した。
このままでは、両親にまで余計な疑いが向けられるかもしれない。
転生者であることだけは、絶対に隠さなければならない。
ならば、前世の物理モデルをそのまま話すわけにはいかないが、現象を思い描いたこと自体は説明できる。
子供特有の直感的なイメージ――ということにしておこう。
「……火を育てるの、時間がかかるでしょ?」
「火を育てる?」
「うん。だから、空気の中に、見えない小っちゃい光の粒がいっぱい並んでるのをイメージして……それをぎゅーって集めて、薪に向かって『光の橋』を架けたの。そしたら、バチッて……」
「――――」
ジェフリーの息が止まった。
ルーペを握る手が、微かに震えている。
エリアスとマリアも、思わず顔を見合わせた。
ジェフリーは額に手を当てたまま、何も言わず工房の中を往復し始めた。作業台の前で立ち止まり、また歩き出す。
カチ、コチ。
時計の音が、彼の足音の合間を縫うように響く。
やがて、唐突に振り返った。
「ノア坊。誰かに古代語を教わったことはあるか?」
「こだいご?」
「古代語だ。今の言葉とは違う、古い時代の術式に使われる言葉だよ」
「……ない、です」
なんだよ、古代語って。
初めて聞いたんだけど。
「本当か?」
「本当だよ……」
「誰かが、お前の知らんところで教えた可能性は?」
「ないってば……」
ジェフリーは再び黙り込んだ。
「空気の中にある粒を束ねて、現象の橋を架ける……。精霊への祈りも、古代語による術式も介さず、頭の中で組み立てたイメージだけでマナを局所的に励起させた、というのか……?」
その声には、困惑と驚愕が入り交じっていた。
ジェフリーは長年、魔道具の修理と解析に携わってきた技師だ。王都の技師街にいた頃には、より高度な魔導機械の開発や維持にも関わっていた。
そこで彼が学んだのは、魔法を扱うからといって、物質の性質まで都合よく変わるわけではない、ということだった。
マナを通す線には耐えられる量がある。熱を受ける部品には限界温度がある。金属は負荷をかけ続ければ摩耗し、結晶は許容量を超えればひび割れる。
どれほど優れた術者が、どれほど強いマナを流そうとも、最後にそれを受け止めるのは物質であり、構造なのだ。
王都にいた頃、ジェフリーはその当たり前を無視する人間を何度も見てきた。仕組みを理解しようともせず、祈りや権威さえあれば道具は動くと考える者たち。壊れた機械を前に、部品の耐性ではなく、扱った者の信心や運の悪さを原因にしたがる者たち。
そうした考え方に嫌気が差し、彼は王都を離れた。
今は、村人が持ち込む生活魔道具を直し、必要ならば内部の部品を作り直す。派手な仕事ではない。だが、輝石灯が再び夜の食卓を照らし、着火魔道具が朝のかまどに火を灯し、冷魔箱が食料を長く保てるようになる。それで十分だった。
魔法は奇跡のように見えるかもしれない。
だが、道具として使うなら、動く理由と壊れる理由を知らなければならない。
その信念を、ジェフリーは曲げたことがなかった。
彼の知る限り、一般に使われるコモン・マギ――火、水、風、土の四属性は、人間がマナを扱い、熱や流れ、物質の変化といった目に見える現象へ干渉する技術だった。
そこには、長い年月をかけて蓄積された術式と、精霊への祈りをはじめとする伝統的な作法がある。
もちろん、それらがなぜ機能するのかを、誰もが完全に説明できるわけではない。
それでも、決められた手順を守れば、一定の現象を再現できる。
それが、魔導という技術の常識だった。
ところが、目の前の三歳児は、その手順を踏んでいない。
いや、そもそも手順というものを知らないらしい。
それなのに、通常の四属性では説明しにくい放電現象を起こし、魔石の内部構造まで崩壊させてしまった。
雷は自然界にも存在する。
だが、自然に発生する現象を観察できることと、それを人間が自在に引き起こせることは、まるで別の話だ。
「今ここで雷を出せるか?」
「うん」
「ジェフさん!」
ノアは両親のほうを振り返った。マリアは不安そうに息子を見つめ、エリアスもわずかに眉を寄せている。家で起きたことを思い出せば、心配するのも無理はなかった。
「大丈夫だ。わしが見ておる。周りに何もないことも確認しておるからな」
ジェフリーがそう告げると、エリアスは一度だけ頷いた。
「ノア、ゆっくりでいい。昨日のようにやってごらん」
「うん!」
ノアは小さな手を前にかざした。
次の瞬間、指先に青白い光が走る。
バチッ!
乾いた音とともに、細い雷光が空中を駆け抜けた。
「……なんじゃ、今のは」
ジェフリーは目を見開き、ノアの手元を凝視した。驚きのあまり、手にしていた道具を持つ指が止まっている。
魔導の常識に照らせば、ノアのやったことは、あまりにも異質だった。
「……おい、エル。マリア」
ジェフリーは、掠れた声で二人を振り返った。
「この子は……何か得体の知れんものに憑かれたわけでも、病気でもないだろう」
「……本当か?」
エリアスが、すがるように問い返す。
普段は客の相談にも落ち着いて応じる薬師の顔が、今は不安に揺れていた。薬草をすり潰し、薬効を見極めてきた大きな手も、息子を抱く腕の中でかすかに強張っている。
「ああ。少なくとも、今の話とこの魔石を見る限りではな」
ジェフリーは、もう一度ノアを見た。
「ただ……恐ろしく頭の回る、異端の才能だ」
「才能……ですか?」
マリアの声は、細く震えていた。
彼女はノアのそばへ寄り、蜂蜜色の髪を耳にかけた。緑の瞳は、ジェフリーの答えを待ちながらも、何度も息子の顔へ戻っている。息子が無事であることを確かめたい。その思いが、隠しようもなく表情に表れていた。
「そうだ。既存の魔導書に書かれた『精霊への祈り』を、まるで必要とせん。頭の中で現象の筋道を組み立て、それを直接マナに反映させようとしておる」
ジェフリーはそこで声を潜めた。
「……いいか、エル。マリア。このことは、絶対に外で喋るんじゃないぞ」
「どうして?」
「王都の魔導院に知られたら、どんな扱いを受けるか分からんからだ」
その言葉に、二人の顔が再び強張った。
エリアスは唇を引き結び、マリアはノアの肩へそっと手を置いた。二人とも、息子の才能がどういう意味を持つのか、まだ分かっていない。
それでも、ジェフリーははっきりと告げた。
「少なくとも、俺はこの子を化け物扱いするつもりはない。だが、世間がそう考えるとは限らん。理解できんものを、怖がる人間は多いからな」
エリアスは小さく息を呑んだ。
マリアはしばらくノアを見つめていたが、やがてその目に涙が滲んだ。
「……よかった。ノアが無事なら、それでいいわ……」
マリアはノアの頬をそっと撫でた。
指先は温かく、触れ方はいつもと変わらない。才能がどうとか、魔導の常識がどうとか。そんなことは、彼女にとって二の次だった。
目の前にいるのは、昨日と同じ、小さな息子なのだ。
「ジェフさん、ありがとう……。それで、これからどうすればいいでしょう?」
エリアスの問いに、ジェフリーは顎を撫でながら考え込んだ。
作業台の上では、分解途中の時計が蓋を外されたままになっている。小さな歯車が何枚も噛み合い、細い軸がその中心を貫いていた。どれか一つでも歪めば、針は正しく時を刻まなくなる。
ジェフリーはそれを一瞥し、ノアへ視線を戻した。
壊れた道具を直すには、まず構造を知る必要がある。
ならば、この子にも、まずは現象をよく見る場所が必要なのかもしれない。
ジェフリーは呆れたように息を吐いた。だが、その口元には、ごくわずかな笑みが浮かんでいた。
「……ノア坊」
「なに?」
「お前、明日から昼はうちへ遊びに来なさい」
「えっ?」
「壊れた道具の仕組みを見せてやる。何がどうなって動くのか、好きなだけ観察すればいい」
ノアの目が輝いた。
壊れた魔道具。内部構造。魔導回路。
つまり、実物を好きなだけ調べられるということだ。
最高じゃないか!
「ただし!」
ジェフリーが、ぴしゃりと言った。
「外で妙な真似をするんじゃないぞ。何か試したくなっても、必ず大人に相談しろ。分かったな?」
「……うん!」
ノアは元気よく返事をした。
そして、少し考え込む。
「……でも、アーク放電じゃなきゃ、スパークしてもいいの?」
「…………は?」
「ほら、アーク放電って、ずっと電流が流れ続けるやつでしょ? スパークなら一瞬だし――」
「ばっっっかもんッ!!」
工房を揺るがすほどの怒鳴り声が、外まで響き渡った。
エリアスが肩を跳ねさせ、マリアが思わず耳を塞ぐ。
ノアはきょとんとした。
才能を褒められた直後に、馬鹿だと言われた。
解せぬ。
――いや、理屈としては別に間違ってないと思うんだけどな……。
もちろん、口には出さなかった。
ジェフリーは大きな手で額を押さえ、長く息を吐いた。
「いいか、鼻たれ小僧。現象の名前を知ってることと、安全に扱えることは別だ。どれだけ一瞬でも、流れる電流と通り道の耐性を無視すりゃ、道具だろうが身体だろうが壊れるんだ。分かったか!」
「……はーい」
ノアは素直に返事をした。
その返事が本当に理解を示すものなのか、単に叱られたから返したものなのか。ジェフリーは判断しかねるように目を細めた。
それから、ノアの顔をじっと見た。
そこにいるのは、まだ小さな子供だ。だが、その瞳の奥には、目の前の現象を自分の頭で理解しようとする、異様なほど鋭い光がある。
恐ろしい。
同時に、技師としては、どうしようもなく興味を惹かれる。
この子は、どこまで構造を見抜くのだろう。
どこまで、自分の仮説を現実に変えてしまうのだろう。
ジェフリーは、その問いを口にしなかった。
ただ、作業台の上に置かれた魔石を、もう一度見つめた。
こうしてノアは、ジェフリーという理解者と、魔道具を観察・解析できる環境を手に入れたのだった。
◇
それからというもの、ノアの知的好奇心は爆発した。
昼間はジェフリーの工房に通い詰め、壊れた魔道具の内部に刻まれた、回路のような魔法陣を観察する。
夕方は実家の薬舗に戻り、身の回りで起きる現象を、科学者としての視点から検証した。
工房へ通うようになって、ノアは魔道具が特別な品ばかりではないことを知った。
もちろん、冒険者が使う魔導杖や、希少な魔石を組み込んだ道具には高価なものもある。だが、輝石灯のように夜の明かりを担うもの、着火魔道具のように台所の火起こしを助けるもの、冷魔箱のように食料を保存するものもある。
魔道具は、暮らしの中に溶け込んでいた。
その一方で、どれも壊れる。
導魔線が焼き切れた輝石灯は光を失い、触媒が劣化した着火魔道具は火付きが悪くなる。冷魔箱はマナの流路が詰まれば冷えなくなり、魔導杖は過剰な出力を受ければひびが入る。
マナが便利な力であることと、道具が物理的な制約を受けることは、矛盾せずに同時に成り立っている。
ジェフリーは、そうした故障を決して「運が悪かった」で済ませなかった。
「光らねえなら、まず導魔線を見ろ。火がつかねえなら、触媒が死んでねえか確かめろ。冷えねえなら、流路が詰まってねえか調べる。原因も分からんうちから、魔石を取り替えりゃ直ると思うな」
太い指で部品を示しながら、ジェフリーはいつもそう言った。
「祈って直るなら、俺ら技師はいらねえんだよ」
口調は無骨で、説明も決して優しくはない。
だが、彼はノアの問いを頭ごなしに否定することはなかった。ノアが部品の形や配置に興味を示すと、面倒そうに眉をひそめながらも、実物を手に取らせてくれる。危険なものには触らせず、代わりに壊れた部品を渡して、どこが損傷しているのかを考えさせた。
「よく見ろ、ノア坊。ここだ。焦げてるだろ」
「うん」
「どうして焦げた?」
「……マナが流れすぎたから?」
「それだけじゃ足りねえ。どこを通って、どこで熱が出て、なんでここだけ焼けたのか。そこまで考えろ」
ジェフリーは答えをすぐには教えなかった。
その代わり、ルーペを渡し、ノアが自分で観察するのを待った。
もっとも、三歳児の体では、できることにも限りがある。
大掛かりな実験はできない。精密な測定器もない。マナの量を数値で測る方法すら、まだ分からない。
それでも、観察できることはある。
何を使ったのか。どんな手順を踏んだのか。結果はどうなったのか。
少しずつ情報を集め、仮説を立て、次の実験で確かめる。
その繰り返しだ。
そしてノアには、ずっと確かめたい仮説があった。
(……待てよ。最初はクズ魔石から水を出した。次はクズ魔石を握ってスパークを出した。でも……)
ノアは、母マリアが庭の巨大な蜂の巣を撃退したときのことを思い出した。
彼女は詠唱とともに、手のひらから炎を噴き出していた。
魔石を手に持っていたわけではない。
そして、自分が放電を起こした直後には、父エリアスがひどく慌てていた。
マナの負荷で体内の通り道が傷ついた可能性がある、と言っていたのだ。
(……やっぱり、魔石は必須じゃないんだ)
魔石は、魔法を起こすための補助具か、マナを扱いやすくするための触媒なのだろうか。
あるいは、外部から力を供給するための蓄積媒体なのかもしれない。
少なくとも、母さんの炎や自分の放電を見る限り、魔石そのものがなければ魔法を起こせないわけではない。
(だとすると、魔法を発動させる主なエネルギー源は、自分自身の『体内マナ』と、空間を満たす『環境マナ』。その二つの関係にあるんじゃないか……?)
もちろん、まだ仮説だ。
体内マナと環境マナが、どういう仕組みで現象に変換されるのかは分からない。そもそも、二つを明確に区別できているのかさえ、確証はない。
だが、もし仮説が正しければ。
毎回ポケットにクズ魔石を忍ばせる必要はなくなる。
それを確かめるため、ノアはある日の夕方、誰にも見られないよう薬舗の裏庭へ向かった。
ポケットには、魔石を入れていない。
完全な手ぶらだ。
ノアは自分の胸の奥に意識を向けた。
そこには、かすかに感じられる温かな何かがある。
体内マナ――そう呼ばれているものだろう。
しかし、父の言葉を思い出す。
マナを過剰に使えば、体に負荷がかかる。場合によっては、体内の通り道を傷つけることさえあるらしい。
(……なら、体内マナだけを使うのは避けたい)
ノアは、大気中に潤沢に存在するという環境マナへ意識を向けた。
周囲にある環境マナを九割、自分の体内マナを一割。
実際にその割合で扱えるかは分からない。そもそも、マナの量を測る手段がないのだから、数字はあくまで目標だ。
それでも、環境マナを主な供給源とし、体内マナは現象の方向を定めるための触媒として使う。
そういう構成を、頭の中で組み立てていく。
(……よし。まずは、少量の水からだ)
前世で学んだ流体力学。そして、初級魔導書で見たコモン・マギの分類。
それらを手掛かりに、ノアは水を生成するためのモデルを思い描いた。
水を生み出す――というより、まずは周囲にある水分を集め、凝縮させる。
空気中には水蒸気が含まれている。温度や圧力などの条件が変われば、気体の水分子が集まって液体になることもある。
前世の知識を使えば、原理そのものは難しくない。
問題は、どうやってその現象を引き起こすかだ。
(……魔法の詠唱は、どうなってたっけ)
ノアの頭に、魔導書に記されていた文法が浮かんだ。
あの本によれば、魔法の詠唱には一定の語順がある。
基本となるのは、動詞、目的語、主語。
つまり、VOS――動詞・目的語・主語の順番だ。
ここから遠く離れた辺境で栄えた文明の言葉の模倣らしい。
たとえば、何かを分離するという動詞が『セパロー』。水を意味する目的語が『アクアム』。そして、誰がそれを行うのかを示す主語が『エゴー』。
基本形なら、『セパロー・アクアム・エゴー』。
――私は、水を分離する。
この順番で、何を起こすのか、何に作用するのか、誰がそれを行うのかを詠唱に組み込んでいく。
もちろん、実際の魔法は単語を並べるだけでは成立しない。目的や対象、作用させる範囲などに応じて、修飾語や追加の語句が必要になる。
今回の目的は、環境に存在する水分を集め、手のひらの上に凝縮させること。
そのためには、対象となる水だけでなく、どこから水を得るのか、どこを起点に作用させるのかも指定する必要がある。
ノアは魔導書の記述を思い返し、頭の中で詠唱を組み立てた。
動詞は『セパロー』。
目的語は『アクアム』。
環境を示す語句として『アンビエンティア』。
さらに、自分の手を作用の起点とするための語句を加え、『アプド・メ』で結ぶ。
セパロー・アクアム・アンビエンティア・アプド・メ。
(……本当に長ったらしい詠唱だな……母さんは歌うように詠唱してたっけ)
少量の水を環境から「省エネ」で集めるだけなのに、こんなに長い手順が必要になる。
しかも、精霊だか何だか知らない存在に、お伺いを立てるような形式までついている。
(科学を……なめんじゃねぇ……! 俺の元いた世界じゃなぁ……神様は死んだことになってんだわ!)
ニーチェの言葉が脳裏をよぎる。
幼い奥歯をぐっと噛み締め、丸みの残る眉根に深いシワを寄せる。頭の中に描いたモデルを頼りに、捉えどころのない環境マナを強引に束ねようとする。こめかみの奥がじんと重くなり、意識を研ぎ澄ませるほど、三歳児の小さな身体に目眩がするような圧がかかった。
もちろん、前世の世界で神の存在が科学によって単純に否定された、という意味ではない。ノアが言いたいのは、自然現象を説明するために、神秘的な存在を持ち出す必要はないということだった。
少なくとも、彼が研究してきた物理現象は、観測と理論によって説明し、再現することができた。
ならば、この世界の魔法だって。
(……大気中の水蒸気を収束させ、凝縮させる。主な供給源は環境マナ。指向性を与えるためのトリガーだけを、僕の体内マナで補う……!)
ノアは右手をすっと差し出し、掌を開いた。
詠唱を頭の中でなぞりながら、周囲の水分子が集まり、液体へと変わるイメージを重ねていく。
じわ……っ。
手のひらの上の空間が、かすかに靄を帯びた。
ちりちり、と指先をかすめるような微かな振動。夕日の光が揺らぐ空気を淡く照らし、その中心に、小さな透明の粒が輪郭を結んだ。
ポタリ。
それはノアの掌へ落ち、冷たい感触を残して弾けた。
「……っ」
できた。
本当に、できた。
――いや、待て。
喜びが胸に込み上げた、その直後。
パチパチと、視界の端で小さな火花が散ったように見えた。
ほんの一滴の水を生み出しただけだ。
それなのに、体中の血管の中を細かな砂が流れているかのような、経験したことのない感覚が一瞬だけ駆け抜けた。
「……っ、う……」
ノアは思わず壁に手をついた。
(あ……これが、マナを消費した感覚か?)
体内マナを使ったときに生じる、独特の感覚なのかもしれない。
環境マナを利用することで、体内マナの消費を抑えられた可能性はある。だが、それでも負荷がゼロになるわけではないらしい。
(……なるほど。省エネにしたつもりでも、まだ無駄があるのか。それとも、体内マナを使うこと自体に、何か別の負担があるのか……?)
疑問は尽きない。
測定手段もない。今の自分に分かるのは、ほんのわずかな感覚と、目の前で起きた現象だけだ。
それでも。
ノアは小さな息を吐き、掌を見つめた。
そこには、もう水滴の跡しか残っていない。
だが、確かに一度、水は生まれたのだ。
(……でも、できた……!)
ノアの唇に、自然と笑みが浮かんだ。
魔石という補助輪は、もういらない。
いや、正確には、魔石なしでも魔法を発動できる可能性を示せた、というだけだ。もっと多くの条件を確かめなければならないし、今のやり方が本当に効率的なのかも分からない。
それでも、一歩前進したことは間違いない。
前世の物理学と、この世界のマナ。
二つの異なる法則が、ノア・ブランという少年の中で、少しずつ結びつき始めていた。
(……ほんとに脈動したかも……あながち魔導書も嘘じゃないか?)




