第五話 魔導書とおもらしと静電気
ノアが三歳を迎える頃には、身体の制御能力は格段に向上していた。
寝返りを打つことさえ難しかった頃が嘘のように、今では歩き回るどころか、家の中を小走りすることもできる。言葉も不自由なく扱えるようになり、両親との会話も、表面上はごく普通の親子のそれになっていた。
家事をするマリアの周りを、衛星のようにぐるぐると走り回る。ときには意味もなく大きな声を上げ、何かを見つければ指を差し、気になったものがあれば「なあに?」と尋ねる。
もちろん、すべてが本心からの行動というわけではない。
(……三歳児っていうのは、こういうものだろう)
子どもは落ち着きなく動き回り、好奇心の赴くままにあれこれと触り、時には大人を困らせる。そうした振る舞いをすることで、周囲から年相応の子どもとして受け入れてもらえる。
少なくとも、ノアはそう考えていた。
前世の知識を持つ自分が、何もかも理解した大人のように振る舞えば、両親はきっと違和感を覚えるだろう。すでに赤ん坊の頃から、言葉を理解していることを不思議に思われていた節もある。
だからこそ、必要以上に賢く見えないようにする。
分からないふりをする。失敗したら子どもらしく拗ねる。嬉しいときには素直に笑う。
それはノアにとって、自分の正体を隠すための、ささやかな処世術だった。
もっとも、好奇心まで抑え込めるわけではなかったが。
それにしても、この世界は本当に不自由だった。
ネットもなければスマホもない。車など存在するはずもなく、車輪のついた乗り物といえば、ロバにゆっくりと引かせる荷車くらいのものだ。科学技術の観点から見れば、呆れるほどに不便な文明レベルだった。
だが、前世には存在しなかった決定的な要素が一つだけある。
『マナ』と呼ばれる未知のエネルギー。そして、そのマナを行使する術――魔法、すなわち『マギ』である。
ノアの実家であるブラン薬舗は、このマギと非常に縁の深い生業を営んでいた。
一般的な胃腸薬や軟膏、料理や肌の手入れに使う油なども扱っている。だが、店の主力商品は、魔法回復薬、いわゆるマナポーションや精神回復薬の精製・販売だった。
仕組みはこうだ。
ギルドを通じて依頼を出し、冒険者と呼ばれる者たちが採取してきた貴重な薬草や樹液、さらには魔力を宿した『魔石』を買い取る。それらをエリアスが調合し、魔法薬として各所やギルドへ卸すのだ。
(マジックポーションに、精神回復薬……。スピリチュアルな秘薬ってやつか。前世の俺からしたら、科学の敵みたいな存在だな……)
前世の物理学者としての脳が、密かにツッコミを入れる。
もっとも、両親の仕事を馬鹿にしているわけではない。なにしろ、マナは確かな現象として存在しているのだ。自分の目で見たものを、科学者の意地だけで否定するつもりはなかった。
母親のマリアだってそうだ。
彼女はときおり、手元からごく自然に火を生み出す。
(母さんが火を出す……。ヤバすぎだろ)
炎が生まれる瞬間を観察してみても、ノアにはその仕組みがさっぱり理解できなかった。
前世の知識をいくら積み重ねたところで、目の前の現象を説明できない。これほど科学者の知的好奇心を刺激する状況も、そうそうないだろう。
◇
ある昼下がり。
ノアは店先で、ぼんやりと鼻水を垂らしながら通りを行き交う人々を観察していた。
三歳児というものは、普段から鼻水を垂らしている生き物なのだ。少なくとも、今のノアにとってはそういうことになっていた。
薬舗のある通りは、村の中でも比較的人通りが多い。近所の婦人と「こんにちは」と挨拶を交わしていると、通りの向こうから、ひときわ目を引く一団が歩いてきた。
四人組だった。
先頭を歩くのは、腰に剣を提げた青年。使い込まれた革の防具には細かな傷があり、歩くたびに腰の鞘が小さく揺れている。その隣には、長い杖を手にした人物がいた。肩にかかる髪が歩調に合わせて揺れ、杖の先端には小さな装飾が取りつけられている。
その後ろには、錫杖を携えた人物。落ち着いた足取りで周囲に目を配りながら、仲間たちの少し後ろを歩いていた。
そして最後尾には、ひときわ大柄な人物がいた。
いや、人間……なのだろうか。
頭の上には、三角形の猫耳が二つ。髪の間からぴんと立った耳が、通りの物音に反応するように、ぴくりと動いている。
腰の後ろでは、しなやかな尻尾がゆったりと左右に揺れていた。
(……猫耳? 尻尾?)
ノアの視線が、ぴたりと止まった。
遠目には人間に近い顔立ちをしている。だが、頭の上にある耳は明らかに猫のものだし、手の指先には鋭い爪が覗いている。さらに、裾から見える膝から下の形状が、どうにも人間の脚とは違っていた。
踵から足先へと伸びる輪郭は、四足動物の後ろ脚を思わせる。二本足で歩いているのに、その脚の構造には獣の名残が色濃く残っているようだった。
(なるほど……。獣人か。しかも、かなり猫に近いタイプなんだな)
前世では、動物の特徴を持つ人間など創作の中にしか存在しなかった。
それが今、目の前を歩いている。
耳が動く。尻尾が揺れる。大柄な身体を支える脚には、明らかに人間とは異なる特徴がある。
(すごいな……。本当にいるんだ)
気づけば、ノアは一団を目で追っていた。
特に、猫型の獣人から目が離せない。耳の動きにはどんな筋肉が関わっているのか。尻尾は平衡感覚の補助にも使うのだろうか。手の爪は人間の爪と同じ構造なのか。それとも、より獣に近い性質を持っているのか。
疑問が次々に湧き上がる。
そのとき、最後尾を歩いていた獣人が、ふいにこちらを振り向いた。
しまった。見つかった。
ノアは慌てて視線を逸らそうとしたが、間に合わなかった。
獣人はノアと目が合うと、口元をにやりと持ち上げた。鋭い犬歯がちらりと覗く。
そして、尻尾をひと振りすると、大きな手を上げて気さくに振ってきた。
(えっ、あっ……!)
ノアは一瞬、どう反応すればいいのか分からなくなった。
相手は怖がらせるつもりなどないらしい。むしろ、好奇心いっぱいの子どもを見つけて面白がっているようだった。
ノアは慌てて、小さな手を振り返した。
すると獣人は満足そうに笑い、前を歩く仲間に何かを話しかけた。剣を提げた青年もこちらに気づき、軽く手を上げてくる。杖を持った人物は微笑み、錫杖の人物も穏やかに会釈した。
四人はそのまま通りを進み、やがて角の向こうへと消えていった。
(……いいな。今の、もう少し近くで見たかった)
残念そうに一団の消えた方角を眺めていると、ふと気づく。
剣に杖、錫杖。それに、あの大柄な獣人。
身につけた装備は、それぞれ役割が違うように見えた。武器を持つ者、魔法を扱いそうな者、仲間を支える者。そして、身体能力そのものを武器にしていそうな者。
(……そういうことか、冒険者パーティだな?)
そう考えると、すべてに納得がいった。
この薬舗が冒険者から薬草や魔石を買い取っていることは知っている。ならば、今の四人も、採取や討伐の依頼を受けて活動しているのかもしれない。
装備の違いも、単なる好みではなく、戦闘での役割分担を反映しているのだろう。
(なるほど。ファンタジー世界の冒険者パーティって、やっぱりこういう構成なんだな……)
頭の中で勝手に分類しながら、ノアは小さく頷いた。
剣士。魔法使いらしき人物。錫杖を持つ人物。そして、獣人の肉体派。
実際に何ができるのかは分からない。だが、これまで薬舗の中で見聞きしてきた話が、少しずつ実物の姿を伴い始めていた。
この世界には、魔法がある。
魔石があり、魔法薬があり、そして、それらを必要とする冒険者がいる。
自分が暮らしているのは、ただ文明が遅れているだけの世界ではないのだ。
前世とは異なる法則と社会の中で、人々は当たり前のように生活している。
そのことが、ノアには少しずつ実感できるようになっていた。
やがて、通りの向こうから見覚えのある人物が歩いてきた。
街の端で、古びた魔導具や精密カラクリの修理を営んでいる老技術者、ジェフリーだった。
「おい、ノア坊」
「こんにちは、ジェフ爺さん」
「エルは中か?」
「うん、奥にいるよ」
ぶっきらぼうな爺さんだ。
エリアスに用事があるらしい。ジェフリーはひらひらと手を振り、店の中へ入っていった。
魔石の取引か、それとも修理の相談だろうか。
ノアはその背中を見送りながら、頭の中で考えを巡らせた。
(……この世界、思っていた以上に魔法が生活に浸透しているんだよな。科学が発達していないのは、マナとかいう便利なエネルギーが、一般に普及しすぎているせいかもしれない)
科学技術が発達するには、現象を観察し、仕組みを解明し、それを再現するための道具や技術を積み重ねていく必要がある。
しかし、この世界では、科学的な手段を用いなくても、マナと魔法によって似たような結果を得られる場合がある。
火を起こす。水を扱う。傷を癒やすための薬を作る。そうしたことの一部が、マナという未知の力によって補われているのだ。
もし、それが生活のあらゆる場面に浸透しているのなら――。
(科学技術が発達する必要性そのものが、前世の世界とは違うのかもしれないな……)
そんな仮説を頭の片隅に置きながら、ノアは日々の生活を送っていた。
◇
そして、それから数日後。
自宅の書棚を眺めていたノアは、上段に数冊の本が置かれていることに気づいた。
それらは長いあいだ手に取られていなかったのか、表紙にうっすらと埃が積もっている。自分の目線の高さにあるものは一通り観察し尽くしていたノアにとって、手の届かない場所にある本は、ひどく魅力的な存在だった。
じーっと書棚を見上げていると、背後から声がした。
「本が見たいの、ノア?」
帳簿をつけていたマリアが、くすりと笑いながら覗き込んでくる。
「いや……うん、見たい!」
「うーん……でもねぇ、あれはまだノアには早いかもなぁ」
「えー? なにそれ……」
そんな言い方をされたら、余計に気になるではないか。
まさか、あっち系のアレな怪しい本なのか?
いや、こんなところに置いてあるのだから、家業に関係する専門書かもしれない。そう考えれば、むしろ期待が高まる。
すると、奥から顔を出したエリアスが助け舟を出してくれた。
「見せてやればいいさ。マリアがついて、一緒に読んでやればいい」
「まだ早いと思うわよ? 魔導書なんて」
(……なに? 魔導書……だと……!?)
ノアの心が跳ね上がった。
怪しい本どころではない。この世界の根幹を成す技術体系、その一端が記されているかもしれないのだ。
「まあ、いいわ。でも今度ね? 今は手が離せないのよ」
「はーい……」
確かに、マリアは忙しそうだった。店頭での接客に、調合の手伝い、家事までこなしている。今すぐ本を読んでくれとせがむのは、さすがに気が引けた。
だが、ノアとしては「家に魔導書がある」と分かっただけで十分だった。
問題は、いつ読めるかだ。
その日の午後。
マリアが接客のため店先に出ており、エリアスが作業場で仕事に集中している隙を突いて、ノアは動き出した。
薬屋の奥にある物置部屋へ忍び込み、作業場から小さな踏み台をこっそり引きずってくる。それを書棚の下に設置し、えっちらおっちらと上に乗った。
目当ての魔導書は、つま先立ちをして、ようやく手が届く場所にあった。
「よ……っと!」
なんとか引き抜いた本を、膝の上で開く。
どうやら初級の魔導書らしい。
「ふむふむ……」
ノアは小さな眉間にしわを寄せ、ページをめくった。
最初に目に入ったのは、『熱』についての項目だった。
炎をかたどった大雑把な挿絵と、この世界の文字が並んでいる。
「熱の精霊に祈りを捧げ……? ほえ? 熱の精霊ってなんだよ……」
読み進めるほどに、ノアの頭は痛くなってきた。
記述はどれも感覚的で、曖昧だった。理論もへったくれもない。「魂の脈動を感じよ」とか「世界を満たす炎の息吹を抱け」とか、精神論めいた言葉ばかりが並んでいる。
(待て待て待て。脈動ってなんだ。エネルギー保存則はどうなってる? 熱運動を起こすためのエネルギーがどこから来ているのか、そこが一番大事なんだろ……!)
前世の論理的思考が暴走を始める。
こんな詩のような記述だけで熱が発生するというのなら、化学も物理も形無しだ。
もっとも、魔法という未知の現象を、前世の物理学だけで判断しようとすること自体、正しいとは限らない。
ノアにも、そのことは分かっていた。
分かってはいるのだが――。
「火がこれなら……水はどうなんだ?」
好奇心には勝てなかった。
ぱらぱらとページをめくり、『水』の項目を開く。
水の魔法が使えれば、マリアが毎日、井戸から重い桶を運ぶ苦労も減るはずだ。
そう考えたノアは、前世の知識を総動員し、水の構成要素を頭の中に思い浮かべた。
「水素が二つに、酸素が一つ。分子量は十八……。一番シンプルじゃん。大気中にも水蒸気として、そこら中に存在しているし……」
水分子の構造、物性、そして周囲の空間から水を凝縮させるモデル。
頭の中で仮説を組み立て、必要な条件を整理していく。
もしマナが、物質に干渉するためのエネルギー源として働くのなら。そこに物理的なモデルを組み合わせることで、魔法の現象をある程度制御できるのではないか。
魔導書の記述は曖昧だが、だからといって、魔法そのものが曖昧な現象だとは限らない。
現象を再現するための説明が、まだ十分に整理されていないだけかもしれないのだ。
そう考えれば、試す価値はある。
ノアは、ポケットの中にあるものを思い出した。
エリアスからもらった、魔力がほとんど抜けかけた『クズ魔石』の破片だ。
魔石には、マナが蓄えられている。
ならば、残されたマナを利用して、周囲の水蒸気に何らかの作用を及ぼせないだろうか。
仮説としては、まだ粗い。
だが、頭の中で可能性を検討しているうちに、ノアは水を生み出す具体的なイメージを組み立て始めていた。
周囲にある水分。水分子の構造。そこに働きかけるためのマナ。そして、液体として集まる水。
それらをひとつの現象として結びつけようとした、その瞬間だった。
ポケットの中で、魔石がかすかに熱を帯びた。
「……え?」
次の瞬間、ズボンのあたりに、妙なぬくもりと濡れた感触が広がった。
考えるより先に、現象が起きていた。
ノアは目を丸くし、自分の腰元を見下ろした。
いつの間にか、ズボンがぐっしょりと濡れている。
「ええッ!? うそやろ!?」
慌てて踏み台から飛び降りた。
排泄のコントロールは、もう完璧なはずだ。おもらしなどしていない。
それに、ポケットに入っているのは、エリアスからもらった使い古しの『クズ魔石』の破片だけのはず……。
しかし、そのポケットを中心に、じわじわと水滴が湧き出していた。滴はズボンを濡らし、床へとちょろちょろ落ちていく。
「ノア? 何の音? どうしたの?」
ばたばたという物音を聞きつけ、マリアが戸口から顔を出した。
濡れたズボンに、床の小さな水たまり。そして、ノアの手に握られた魔導書。
それらを見たマリアは、一瞬目を見開いた。
――次の瞬間。
「あははは! ノア、やっちゃったのね?」
お腹を抱えて笑い出した。
「違うよ、ママ! これ、おしっこじゃないよ! 本当に違うんだってば!」
必死に弁明するノアを見て、マリアは笑いをこらえながら、ゆっくりと近づいてきた。
「ふふふ……分かってるわよ。その本、読んだのね?」
「うっ……」
どうやら、魔導書を勝手に持ち出したことは、すっかりお見通しらしい。
マリアはノアの小さな頭を撫でた。
仕事のためにひとつに束ねていた蜂蜜色の髪から、細い毛束が頬へとこぼれている。彼女はそれを払うことも忘れ、まずノアの顔を覗き込んだ。澄んだ緑色の瞳には、いたずらを見つけた母親らしい楽しげな光が浮かんでいた。
「もう、夢中になっちゃったのね」
叱るよりも先に、そんな言葉がこぼれる。
マリアは濡れたズボンを見て、また小さく笑った。けれど、その笑い声には、息子をからかうだけではない、どこか嬉しそうな響きもあった。
ノアが何かに興味を持つと、周りが見えなくなることは、彼女にも少しずつ分かってきている。まだ幼いのだから仕方がない――そう思う一方で、こんなにも真剣な顔で本に向き合っていたのかと、感心する気持ちもあった。
マリアは床に膝をつき、そばにあった布を手に取った。片手でノアの頭を優しく撫でながら、もう片方の手で水たまりを拭き始める。
蜂蜜色の髪が頬にかかる。彼女は少しだけ首を傾け、髪を肩の後ろへ流した。それから、恥ずかしそうにこちらを見つめるノアと目を合わせた。
「大丈夫。怒ってないわよ」
「……ほんと?」
「ほんとよ。ただ、本を読むときは、今度からママに声をかけてね。高いところにあるものを取ると、危ないでしょう?」
そう言って、マリアはもう一度、ノアの頭を撫でた。
指先は細く、触れ方は柔らかい。その手の温かさに、ノアの張りつめていた気持ちが、少しずつほどけていく。
叱られると思っていた。
勝手に魔導書を持ち出したことも、床を水浸しにしたことも、言い訳を並べ立てなければ許してもらえないと思っていた。
だが、マリアは笑いながらも、まず自分を安心させてくれた。
そのことが、妙に胸に染みた。
「……ごめんなさい」
「はい。よく言えました」
マリアは微笑み、ノアの濡れた服を着替えさせるために立ち上がった。
その横顔を見つめながら、ノアは自分のポケットに入っている『ただの石くず』と、床に残った水滴を見比べた。
(……俺が水分子の構造をイメージした瞬間、クズ魔石に残っていたマナが反応して、物理的に水が生成された……?)
赤面するような不本意な出来事の裏側で、ノアの胸には、科学者としての狂おしいほどの歓喜と探求心が静かに芽生え始めていた。
これは、偶然なのか。
それとも――。
自分の仮説が、魔法という形で現実になったのか。
ノアは濡れたポケットの中の魔石を、じっと見つめた。
◇
水のおもらし事件からしばらくが過ぎ、ノアは三歳半を迎えていた。
相変わらず文明レベルは低く、相変わらずマナというエネルギーが当たり前のように世界を満たしている。
ノアは日々の生活の中で、密かにマナと既存の物理法則との相互作用を観察し続けていた。
火、水、風、土。
この世界で一般的に使われている魔法は、これら四つの属性を基本としている。人々の暮らしに浸透した生活魔法も、基本的にはこの四属性の範囲に収まっていた。
光と闇という、より希少な二属性も存在するらしいが、それらは一般的な生活魔法とは異なる領域に属する。
ノアはまだ、その全貌を知らない。
ただ一つ確かなのは、この世界の魔法が、前世の物理学とはまったく異なる仕組みで動いているように見えながら、同時に、何らかの形で物理的な現象と結びついているということだった。
ならば、その接点を探ればいい。
未知の現象を前にして、ノアの研究者としての性分が大人しくしているはずもなかった。
◇
ある日の夕暮れ時。
ノアは台所の入り口に立ち、夕食の準備をするマリアの姿をぼんやりと眺めていた。
薄暗くなった台所には、乾燥した薪の独特な香りが漂っている。
マリアはかまどの前にしゃがみ込み、火吹き竹で小さな火種を丁寧に育てていた。束ねた蜂蜜色の髪から、細い毛束が頬に落ちている。彼女はそれを手の甲で軽く払うと、再び火吹き竹を口元へ運んだ。
フゥ、フゥ。
息を吹き込むたび、赤くなった炭がぱちりと爆ぜる。細い煙が立ち上り、やがて、時間をかけて乾いた薪へと火が移っていった。
道具と手間をかけた、あまりにも古風で気の長い光景。
それをじっと見つめていたノアは、ふと首を傾げた。
(……母さんは火を出せるんだから、素直に魔法を使えばいいのに)
以前、マリアが何もないところから火を生み出す様子を見たことがある。
ならば、わざわざ火種を育てる必要などないはずだ。
「ねえ、ママ」
「ん? どうしたの、ノア?」
「魔法で火をつけたらいいんじゃないの?」
マリアは火吹き竹をいったん脇に置き、きょとんとした顔でノアを見た。それから、少し困ったように笑った。
「ふふ。そうね。でもね、こういう小さな火を起こすだけなら、わざわざ魔法を使わないのよ」
「どうして?」
「魔法を使うと、マナが減るでしょう?」
マリアは火種へ目を戻し、息を吹き込みながら答えた。
「火をつけるくらいなら、こうして薪を燃やせばいいもの。ほんの少しの火を起こすためにマナを使うのは、もったいないのよ」
「……もったいない?」
「そう。大きな火が必要なときや、急いでいるときなら魔法を使うこともあるけれど、毎回そうしていたら、いくらマナがあっても足りなくなっちゃうわ」
マリアは笑い、ようやく火が回った薪を確かめた。
「ほら、これで十分でしょう?」
「うーん……」
ノアは納得したような、していないような声を漏らした。
マナを節約する。日常生活の中で魔法を使う人々にとって、それはごく自然な感覚なのだろう。
しかし、ノアの頭の中では、別の疑問が動き始めていた。
(マナを使うと、何かしらのコストが発生する……。それは分かる。でも、そのコストは何に対応しているんだ?)
薪を燃やす場合、化学反応によって蓄えられた化学エネルギーが熱や光へと変換される。火を起こすには手間がかかるが、燃料さえあれば、その反応を利用できる。
一方、魔法で火を生み出す場合はどうだろう。
マナを消費して、炎という現象を発生させる。
この世界の人々は、それを当たり前のように受け入れている。だが、ノアには、その説明だけでは足りなかった。
(マナは、単なるエネルギー源なのか? それとも、物質そのものに干渉するための媒介なのか……)
魔法で火を生み出す際、どこから熱が供給されるのか。燃料となる物質は必要なのか。炎を維持するために、マナはどのように消費されるのか。
そして、もっと根本的な問題がある。
(この世界では、マナを使うことで、質量やエネルギーの関係そのものが変化しているように見える……。いや、そもそも、俺が前世で学んだ質量とエネルギーの等価性を、そのまま当てはめていいのか?)
脳裏に、かつて何度も扱った式が浮かぶ。
質量とエネルギーの等価性。
前世では、物質の質量とエネルギーが結びついていることは、確固たる理論の一部だった。
だが、この世界では、マナという未知の要素が存在する。
(この未知のエネルギーを、人々は『マナ』と呼んでいる。なら、この現象は、単純なエネルギーの移動だけでは説明できないのかもしれない。質量とエネルギーの等価変換そのものに、マナが何らかの形で関わっている……?)
まだ、仮説にも満たない思いつきだ。
マナの正体も、魔法の仕組みも、何ひとつ分かっていない。今の段階で結論を出すのは早すぎる。
それでも、目の前の現象を説明するためには、既存の理論だけでは足りない可能性がある。
そのことが、ノアにはたまらなく面白かった。
「ねえ、ママ」
「今度はなあに?」
「ぼくも、魔法で火をつけてみたい!」
マリアは一瞬、手を止めた。
それから、ノアの顔を見て、ふわりと笑った。
「ノアが? うーん……そうねぇ。もう少し大きくなってからにしましょう」
「えーっ! なんでー?」
「火は危ないもの。ちゃんと使い方を覚えてからじゃないと、だめよ」
「でも、ママはできるじゃん!」
「ママは大人ですから」
きっぱりと言われてしまった。
「それに、今は夕ご飯の準備中でしょう? ノアが火を使ったら、ママが見ていられないもの」
「むぅ……」
ノアは頬を膨らませた。
もちろん、マリアの言い分が正しいことは分かっている。三歳半の子どもに火を扱わせるのは危険だし、食事の支度をしながら付き添うのも難しい。
それでも、目の前で魔法の仕組みを確かめられる機会を逃すのは惜しかった。
ノアはかまどの火を見つめた。
燃え上がる炎。薪の表面で進む燃焼反応。周囲へ広がる熱。
そして、その現象を別の方法で引き起こせるかもしれない、マナという未知の力。
(……魔法を使えば、どんな現象でも効率よく起こせるわけじゃない。少なくとも、母さんの感覚では、火種を作る程度なら薪と火吹き竹のほうが合理的なんだ)
それは、この世界の人々が長い生活の中で身につけてきた経験則なのだろう。
だが、ノアはそこで考えるのをやめなかった。
(だったら、マナの消費量を抑えて、必要な現象だけを起こせれば……?)
炎そのものを生み出すのではなく、別の物理現象を利用して火をつける。
たとえば、電気的な放電。
空気中の電荷を動かし、局所的に電位差を生み出す。電場が気体の絶縁耐力を超えれば、気体が電離し、放電が起こる。条件が整えば、そのエネルギーで薪の表面に着火できるかもしれない。
(問題は、どうやって電荷を動かすかだ。俺自身の身体だけじゃ、まともな放電を起こせるとは思えない。……そうだ、あれがある)
ノアは小さなポケットに手を入れた。
そこには、エリアスの作業場からこっそりもらってきた、魔力がほとんど抜けかけた『クズ魔石』の欠片が入っている。
水を生み出したときも、この魔石が反応していた。
ならば、今回も同じことが起きるかもしれない。
ノアはマリアの様子をうかがった。
彼女は火が安定したことを確かめると、鍋を用意するために立ち上がったところだった。まだ、ノアの考えには気づいていない。
(……ほんの少しだけ。危ないことはしない。魔石の残りのマナで、どんな現象が起こせるか確かめるだけだ)
そう自分に言い聞かせ、ノアは魔石を握りしめた。
空気中の電荷を動かし、局所的に高い電位差を生み出す。絶縁状態を破り、気体を電離させる。
物理現象としての放電を、マナによって引き起こす。
頭の中に、具体的な現象を描く。
そのイメージが形を成した瞬間――。
パチチッ――!!
静かな台所に、乾いた放電音が響いた。
ノアの指先から、青白い光が走った。
小指ほどの長さの電撃が空気を裂き、薪の表面をバチッと叩く。一瞬の閃光。焦げた木肌から、細い白煙が立ち上った。
「……え?」
ノア自身も、思わず間の抜けた声を漏らした。
ほんのわずかなマナを、励起された電荷としてイメージしただけだった。
だが、目の前で起きたのは、まごうことなきプラズマ放電だった。
成功した。
自分の仮説が、現実の現象として成立したのだ。
その事実に気づいた瞬間、ノアの胸の内で、研究者としての興奮が一気に膨れ上がった。
しかし、その喜びを味わう暇はなかった。
火吹き竹を持っていたマリアと、棚から鍋を取り出そうと通りかかったエリアスの動きが、完全に止まっていたからだ。
台所を、重苦しい静寂が支配する。
「……ノア。おまえ、今……何をしたんだ?」
エリアスの声が、かすかに震えていた。
この世界で雷は、主に自然現象として認識されている。空から落ちる雷鳴や稲妻は、人々にとって畏怖すべき現象ではあっても、日常的に扱える魔法ではない。
一般的な魔法は、火・水・風・土の四属性を扱うコモン・マギ。そして、光と闇という希少な属性を扱うアンコモン・マギに大別される。
電撃は、そのどちらにも単純には当てはまらない。
まして、魔法を学び始めたばかりの幼児が、指先から放電を引き起こすなど、常識では考えられなかった。
エリアスは手から滑り落ちそうになった鍋を、どうにか持ちこたえた。そして、膝を折り、ノアの目線まで腰を落とす。
マリアも火吹き竹を床に置き、顔色を変えてノアの肩を抱き寄せた。
二人の目に浮かんでいたのは、「うちの子は天才だ」という歓喜や、自慢げな驚きではなかった。
そこにあったのは、得体の知れない事態に対する、息が止まるほどの不安と恐怖。そして、息子を案じる切実な親心だった。
「ノア、痛いところはないか!? 頭が痺れるとか、胸が苦しいとかはないか!?」
「待って、エリアス! 身体を揺すっちゃダメ! ノア、聞こえる!? ママよ、顔を見せて!」
マリアの手は震えていた。
ノアの小さな手を両手で包み込み、指先が焦げていないか、身体に異常がないかを必死に確かめている。
「大丈夫だよ、パパ、ママ……。どこも痛くないよ?」
ノアは戸惑いながらも、正直に答えた。
しかし、その返事を聞いても、エリアスの焦りは収まらなかった。
彼は慌てて棚へ走り、売り物である一番高価な『最高級マナポーション』の瓶を掴み取った。
「ダメだ、暴走したマナが身体を傷つけているかもしれない! これを飲ませよう。ノア、口を開け――」
「ちょっと、エリアス! 落ち着いて!」
マリアが立ち上がり、必死の様子でエリアスの腕を掴んだ。
「そんな強力な薬、三歳の子に飲ませたら逆に負担がかかるわ! ノアはちゃんと息をしているし、顔色だって悪くないでしょう!?」
「だがマリア、今のは雷だぞ!? 落雷や電撃の魔導なんて、普通は扱える代物じゃない! この子の小さな身体の中で何が起きたと思っているんだ!」
「分かってる、分かってるわよ! でも、あなたまでパニックになったらダメ!」
普段は温厚そのもののエリアスが、見たこともないほど取り乱している。マリアも涙目になりながら、夫を懸命になだめていた。
二人のやり取りを呆然と見上げながら、ノアの胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
(……そうか……)
前世の自分なら、未知の放電現象を再現できたことに歓喜し、実験データを記録していただろう。
だが、この二人にとって重要なのは、現象の科学的価値などではなかった。
ノアが傷ついていないか。
この小さな我が子が、取り返しのつかない危険に巻き込まれていないか。
ただ、それだけが彼らにとって何よりも大切なのだ。
エリアスはポーションの瓶をそっと棚に戻すと、深く息を吐き出した。
そして、震える手でノアを強く、強く抱きしめた。
その胸の温もりと、早鐘のように打つ鼓動が、ノアの肌に直接伝わってくる。
「……よかった。本当に……無事でよかった……」
「ええ……本当に……」
マリアも横から、二人を包み込むように抱きしめてきた。
彼女の頬がノアの髪に触れた。いつもなら明るい声で笑う母親が、今は何も言わず、ただ息子の無事を確かめるように抱きしめている。
しばらくの間、静かな台所で、三人は互いの体温を確かめ合うように、じっと身を寄せ合っていた。
やがて、少し落ち着きを取り戻したエリアスが、ノアを抱いたままマリアへ顔を向けた。
「……マリア。明日、ジェフリーの爺さんのところへ相談に行こう」
「ジェフさん……? あそこは魔道具の修理屋でしょう?」
「ああ。だが、あの爺さんは昔、王都の技師街にいたはずだ。この街で誰よりも、異質なマナの現象や古い機械に詳しい。ノアの身体に何が起きているのか、何か知っているかもしれない」
「そうね……。そうしましょう。あの方なら、口も堅いし……」
二人は真剣な面持ちで頷き合った。
(……パパ、ママ。心配させて、ごめん……)
エリアスの肩に顔をうずめながら、ノアは心の中でそっと謝罪した。
前世で孤独に研究と向き合っていた男にとって、自分の無茶を本気で叱り、本気で心配し、本気で無事を祈ってくれる存在がここにいる。
その事実が、たまらなく温かく感じられた。
科学者としての好奇心は、少しも失われていない。
未知の現象を解明したいという欲求は、むしろ以前より強くなっている。
それでも、今のノアには、研究の成功よりも大切なものがあると分かり始めていた。
ノアは小さな手でエリアスの服の胸元をぎゅっと掴んだ。
そして今度は、自分の意思で、二人の温もりに深く身を委ねた。
文体のスタイルがまだ定まってないので読みにくかったらごめんなさい。




