第四話 天の御柱 (アマノミハシラ)
ある日の夕暮れが近づいたころ、エリアスが仕事の手を止めた。
「ノア、外へ出てみようか」
彼は俺を抱き上げ、店先へ向かった。
マリアも仕事をひと区切りつけて、後からついてくる。
外へ出ると、ひんやりとした空気が頬に触れた。
草と土の匂い。どこかから聞こえる人々の話し声。荷車が地面を通る音。遠くで鳴く鳥の声。
私は父の腕に抱かれながら、周囲の様子を探った。
建物の造りも、道の様子も、行き交う人々の服装も、見慣れたものではない。
……さて。
俺は、いったいどこにいるのだろう。
生まれ変わったという事実は、すでに受け入れざるを得ない状況になっている。問題は、その場所がどこなのかということだ。
まずは、観測できる情報から絞り込むしかない。
俺は空を見上げた。
夕暮れの空には、まだいくつかの星が見えていた。
視界の限られた赤ん坊の身体では、星の位置を正確に測ることは難しい。それでも、見覚えのある星の並びがないか、できる範囲で探してみる。
オリオン座。
北斗七星。
地球の夜空を知る者にとって、比較的見つけやすい星の並びだ。
もちろん、季節や時間帯によって見える位置は変わる。空の明るさによっても、見える星の数は異なる。
それでも、手がかりくらいは見つかるかもしれない。
……ない。南半球か?
少なくとも、俺の知る星空とは一致しなかった。
観測条件が悪いだけなのか。それとも、恒星の配置そのものが違うのか。
いや、まだ判断するには情報が足りない。
俺は視線を動かした。
そのときだった。
空を横切る、巨大な線が目に入った。
地平線の向こうから向こうまで、途方もなく長く伸びる、細い光の帯。
まるで、空そのものに巨大な輪が描かれているかのようだった。
……何だ、あれは。
夕日の光を受けて、輪の一部が淡く輝いている。
土星の環を連想させる、かすかで繊細な光の帯。だが、あの壮麗な環のような幅広さはない。驚くほど細い線が、空の端から端まで途方もなく長く伸びていた。
まるで、天球そのものに一本の光を引いたかのようだった。
……惑星の環なのか?
もしそうなら、惑星と環の軌道面はどうなっている? 地表から見た角度は? 構成物質は氷なのか、岩石なのか、それとも別のものなのか。
そもそも、あの構造はどれほどの距離にある?
見かけの幅が細いからといって、実際の厚さまで薄いとは限らない。観測者との距離が分からなければ、見かけの大きさから実寸を推定することもできない。
分からない。
何ひとつ、分からない。
だが、だからこそ。
……美しかった。
胸の奥から、抑えきれない興奮が湧き上がった。
こんなものを目の前にして、冷静でいられるはずがない。
俺は父の腕の中で身を乗り出し、空を指そうとした。
「空に、輪っかが浮いてるぞ!?」
もちろん、口から出たのは、
「あーっ! うー!」
という声だけだった。
俺は構わず、空を見上げ続けた。
そのとき、すぐそばでマリアが小さく笑った。
「ふふ。ノアにも、天の御柱が見えるのね」
……アマノミハシラ?
聞き慣れない言葉だった。
俺は反射的に母の顔を見た。
彼女は空を見上げ、穏やかな笑みを浮かべている。
まるで、珍しいものを見つけたのではなく、見慣れた美しい景色を眺めているかのように。
「夕暮れの天の御柱は、いつ見てもきれいだな」
エリアスも、感慨深そうに空を見上げた。
「昼間は空に溶け込んじまうこともあるし、夜は暗くて見えにくいことも多い。こうして夕日に照らされていると、ひときわきれいに見えるんだぞ」
父の声には、驚きも警戒もなかった。
母も、父も。
二人とも、あの巨大な輪を見て、何ひとつ不思議には思っていないらしい。
……待て。
天の御柱?
今、そう言ったのか?
俺は再び空を見上げた。
地平線をまたぐ、巨大な環状構造。
地球には、あんなものは存在しない。
少なくとも、俺の知る地球には。
星の配置も違う。空に浮かぶ巨大な輪もある。そして、両親にとっては、それがごく当たり前の風景らしい。
つまり――。
俺は、地球ではない場所にいる。
その可能性が、いよいよ濃厚になってきた。
……いや、まだ断定するには早い。
別の惑星なのか。あるいは、私が知っている宇宙とは異なる環境なのか。
観測機器はない。星の位置を精密に測ることもできない。自分の足で移動して、観測地点を変えることさえできない。
手元にあるのは、赤ん坊の視力と、抱きかかえてくれている父の腕。そして、隣で空を見上げる母の声だけだ。
それでも、未知の現象が目の前にある。
その事実だけで、私の心は落ち着かなかった。
もっと見たい。
もっと知りたい。
あの輪は何なのか。どこから来て、何でできていて、なぜこの空に存在しているのか。
答えを知りたくてたまらない。
だが、同時に、俺はふと思い出した。
先ほど、父と母が私を見つめたときの表情を。
俺が何かを理解しすぎたとき、二人はほんの一瞬だけ、戸惑ったような顔をする。
今も、俺は空を見上げたまま、夢中になっている。
もし、この反応を見られたら。
……いや、今さら取り繕っても遅いか。
俺は空を指そうとしていた手を下ろし、父の胸元に顔を寄せた。
「あぅ」
できるだけ、何も分かっていない赤ん坊らしく。
エリアスが俺を見下ろす。
「どうした、ノア? 眠くなったか?」
私は返事の代わりに、彼の服をつかんだ。
「そろそろ冷えてきたわね。中に入りましょう」
マリアが俺の頬に手を添えた。
指先は温かかった。
「ノアもお腹が空いてきたころだろう。戻ろうか」
エリアスは俺を抱き直し、家へと歩き始めた。
俺は父の腕に揺られながら、何度も空を振り返った。
夕日の光は少しずつ弱まり、巨大な輪の輝きも、やがて薄れていく。
だが、その輪が消えたわけではない。
見えにくくなっただけだ。
空に浮かぶ構造そのものは、何も変わらず、そこに存在し続けている。
私には、まだ何も分からない。
この世界がどこなのか。
あの輪が何なのか。
魔力とは何なのか。
そして、なぜ俺は、前世の記憶を保ったまま、この身体に生まれ変わったのか。
答えを得るためには、観測が必要だ。仮説を立て、検証し、分からないことをひとつずつ減らしていくしかない。
そのためにも、まずは自分の身体を思いどおりに動かせるようにならなければ。
……先は長い。
俺は父の胸元に顔を埋めた。
温もりがある。
帰る場所がある。
今の俺には、それだけで十分だった。
いつか、この世界の法則を解き明かす日が来るとしても。
今はまだ、何も知らない赤ん坊でいればいい。
夕闇に浮かぶ巨大な輪は、何も答えてくれない。
ただ、そこに在り続けていた。




