第三話 小さな手と、温かな手
「はい、ノア。おむつを替えましょうね」
母マリアの声が降ってきた。
どうやら、またその時間がやってきたらしい。
俺は母に抱き上げられながら、静かに天井を見つめていた。
以前は、自分の意思とは無関係に生じる生理現象に、少なからず抵抗があった。排泄すら自由にならず、その後始末を両親に任せるしかない。前世の記憶を持つ人間として、これほど屈辱的なことがあるだろうか。
だが、いくら不満を抱いても現状は変わらない。手足は思うように動かず、身体の制御もままならないのだ。
ならば――。
(……うむ。よきに計らえ)
俺は、ついに悟りの境地へと至った。
自らの力でどうにもならぬのなら、信頼できる者に任せる。それもまた、家の中心で鎮座し、そこから指揮を執る者に求められる資質なのである。
(ただし、手際よく頼む。ワシも暇ではないのでな)
これは恥ではないのだ。
実際の俺は、母に両足を持ち上げられ、されるがままになっているだけだった。
「エリアス、替えのおむつを取ってくれる?」
「ああ、分かった」
父エリアスが棚へ向かう。
(うむ。そなたは補給担当か)
母の手つきは優しく、動きにも迷いがない。そこへ戻ってきた父が替えのおむつを広げようとするものの、慣れない手つきにマリアが苦笑した。
「そうじゃないわ。こっちを持って」
「あ、ああ。こうか?」
「そうそう」
(……父上、しっかりなされよ)
二人とも、まだ親になって間もない。世話をするたびに手探りで、それでも懸命に俺と向き合ってくれている。
「はい、できたわよ」
マリアが服を整え、俺の顔を覗き込む。
「今日はおとなしいわね、ノア」
(……で、あるか)
褒められたらしい。
(大儀であった)
俺は満足げに目を閉じた。
両親にとっては、ただ我が子の世話をしただけ。その一方で、当の本人はいたって尊大に一部始終を見届けた。
(……ふむ。悪くない)
こうでもしないとやってられなかった。
*
赤ん坊としての生活は、想像以上に過酷だった。
頭の中ではいくらでも緻密な動作を描けるのに、身体は別の生き物のように言うことを聞かない。右手を動かしたつもりが左手まで動き、視線を固定しようとすれば首が傾く。
すべての動作が過酷な筋トレとリハビリのようだった。
そして、身体の不自由さ以上に俺を惑わせたものがある。
両親の言葉が、理解できてしまうのだ。
二人の声は意味を伴って頭に入ってくる。言葉だけでなく、問いかけの意図や、何を伝えようとしているのかまで、ほとんど苦労なく把握できていた。
だが、理解できることと、自分の口で話せることは別だ。
頭の中では大人と同じように考えられる。言いたいことも山ほどある。それなのに、声を出せば「あー」だの「うー」だのという音ばかりが出てくる。
(……もどかしいにもほどがある)
前世の記憶を持つ俺が、周囲からはただの赤ん坊にしか見えない。
だからこそ、できるだけ手のかからない「良い子」でいようと努めていた。泣いて両親を困らせず、何かを理解しても必要以上に反応しない。
問題は、頭で考えたとおりに振る舞うことが、思いのほか難しいことだ。
身体の発達とともに、周囲の世界が少しずつ見えるようになっていく。部屋の隅の木箱、壁際に並ぶ瓶、棚から吊るされた乾燥薬草。大人たちが何気なく扱っている道具のひとつひとつが、俺にとっては未知の観察対象だった。
父のエリアスは薬師だ。薬草を乾燥させ、刻み、すり潰す。液体を小さな瓶へ移し、分量を確かめながら調合する。
植物の種類や処理方法によって、抽出される成分や薬の性質は変わるはずだ。なぜ組み合わせによって効果が変化するのか。前世の知識を使えば、調べられることは山ほどある。
前世では、実験装置の予約を取り、条件を整え、膨大なデータを解析して、ようやくひとつの結果にたどり着いていた。
それが今は、未知の現象が手を伸ばせば届く距離にある。
問題は、手を伸ばしても届かないことだった。
そんなある日、俺は店の奥に置かれた、重厚なすり鉢とすりこぎに目を奪われた。
灰色がかった石の内側には細かな凹凸が刻まれ、すりこぎの木肌は長年使われてきたのか、滑らかに磨かれている。
単純な道具だが、興味深い。
刃物で切る場合と、圧力をかけて摩砕する場合では、植物組織の壊れ方が異なる。抽出効率にも違いが出るはずだ。
実際に確かめてみたい。
俺は床を這って、すり鉢へ向かった。
途中で身体が傾き、尻もちをつく。
(……くっ。重心制御が不安定すぎる)
それでも諦めずに手を伸ばしたが、指先はすりこぎを支えきれなかった。
ゴトッ。
「おや?」
木箱を整理していた父が、音に気づいて振り返った。
「ノア? そんなところまで来ていたのか」
エリアスは道具を置き、こちらへ歩いてきた。
深い栗色の短髪に、太く真っすぐな眉。若々しい顔立ちには、薬瓶や樽を運ぶ仕事で鍛えられた逞しさがある。袖をまくった腕には細かな作業傷があり、薬草の匂いが染みついた革のエプロンを身につけていた。
父は床のすりこぎを拾い上げ、俺の前に差し出した。
「これが欲しいのか?」
俺は、こくんとうなずいた。
「……?」
父の声が、ほんの少しだけ止まった。
俺はまだ、その反応の意味に気づいていなかった。
すりこぎを受け取り、木肌を確かめようと夢中になっていると、視界の端に父の顔が映った。
エリアスはすりこぎを持ったまま、俺を不思議そうに見つめていた。
温かな琥珀色の瞳に、驚きと戸惑いが揺れている。
(……あ)
そこで、ようやく気がついた。
(さっき、俺……頷いたのか)
問いかけの意味を理解し、あまりにも自然に答えてしまった。
普通の赤ん坊なら、言葉を理解して返事をすることなど、そう簡単にはできないだろう。
(……しまった)
内心で青ざめかけた、そのときだった。
「ふふ、エリアスったら。ノアにそれはまだ早いでしょう?」
店の奥からマリアの声がした。
振り返った彼女は、呆れたように笑いながらも、夫と息子の様子を微笑ましそうに眺めていた。艶のある金茶色の髪を後ろで束ね、白い刺繍入りのエプロンを身につけている。頬にこぼれたおくれ毛を細い指で払う仕草にも、どこか明るく親しみやすい雰囲気があった。
「まあ、そうなんだけどさ……」
エリアスは困ったように頬を掻いた。太い眉が少し下がる。
「だけど見てくれよ、マリア。この子、真剣に覚えようとしてるんだ。きっと賢くなるぞ!」
「もう、あなたったら」
マリアは笑いながらも、俺の顔を覗き込んだ。
エリアスの声には、息子への誇らしさがあった。それでも、さっきの反応に驚いた気持ちまですっかり消えたわけではないのだろう。俺を見つめる琥珀色の瞳には、ほんのわずかな迷いが残っていた。
……不安にさせたかもしれない。どうすべきだったのか。
二人は、まだ親になって間もない。初めての子育てに戸惑いながら、それでも俺が何かを覚えようとするたび、嬉しそうに受け止めてくれる。
俺自身も、大人の意識を抱えたまま赤ん坊を演じるのは初めてだ。
お互いに不器用で、ちぐはぐな仮面劇を演じているような気がした。
「ほら、そんなに気になるなら、少しだけ見せてあげたら?」
マリアに促され、エリアスはすり鉢の前に腰を下ろした。
「そうだな。じゃあ、よく見ておくんだぞ」
父は乾燥した薬草をすり鉢に入れ、すりこぎを動かした。乾いた葉が石の内側で細かく砕けていく。
「こうやって細かくすると、薬を作るときに扱いやすくなるんだ」
(……なるほど?)
圧力をかけ、摩擦を生じさせ、植物組織を破壊する。細かくすれば液体と接触する面積が増える。ただし、熱による成分の変性なども考慮する必要があるはずだ。
父の手つきを見ているうちに、俺はまた夢中になっていた。
「……ノア?」
呼ばれて顔を上げると、エリアスが俺の目をじっと見つめていた。
その表情には、先ほどと同じ戸惑いが少しだけ浮かんでいる。
(……またか)
俺は慌てて手足をばたつかせた。
「あー、きゃっ!」
自分でも、ずいぶんとわざとらしい声だと思った。
けれど、エリアスは責めるどころか、小さな俺の手をそっと取った。
「それじゃあ、少しだけな」
父は俺の指をすりこぎの柄に添え、自分の大きな手で包み込んだ。
「こう持つんだ。力を入れすぎず、ゆっくり動かしてみよう」
俺は言われたとおりに手を動かそうとした。
当然、思いどおりにはいかない。指は柄を支えきれず、腕もうまく動かない。すりこぎがわずかに揺れたのは、俺の力なのか、父が補助してくれたからなのかも判然としなかった。
(……これは、実験として成立しているのだろうか)
そう思いながら、自分の小さな指と父の大きな掌を見比べた。
俺の意思を補うように、父の手がそっと動いている。
自分の身体さえ自由にならず、知りたいことがあっても、確かめる手段がほとんどない。
それなのに、二人は俺が興味を示したものを否定せず、一緒に見ようとしてくれる。
できないことを笑うのでもなく、無理だと決めつけるのでもなく、当たり前のように教えてくれる。
前世では、研究のために議論を重ね、成果を求めて実験を続けてきた。
だが、これは少し違う。
何かを成し遂げるためでも、成果を出すためでもない。
ただ、一緒に過ごしている。
(……まあ、悪くない生活かもしれない)
そう思ったとき、店の奥からマリアが近づいてきた。
「もう、エリアスったら。そんなに夢中になって、ノアが疲れちゃうでしょう?」
「いや、俺が教えたわけじゃないぞ。この子が自分から興味を持ったんだ」
「はいはい。あなたもノアも、そっくりね」
マリアは可笑しそうに笑い、俺をひょいと抱き上げた。
柔らかな腕が身体を包み込む。薬草の香りに、ほのかな花の香りが混じった。
彼女の胸元では、薬草の葉をかたどった小さなペンダントが揺れていた。
光を受けてきらりと輝く装飾に、俺は思わず目を奪われた。
(……綺麗だな)
気づけば、手を伸ばしていた。
「あら、それが気になるの?」
マリアが微笑む。
俺は彼女の胸元からペンダントをつかみ、細やかな造形をじっと眺めた。
葉脈まで丁寧に表現されている。いったい、どんな素材でできているのだろう。どうやって加工したのだろう。
興味が膨らみ、観察に夢中になったその瞬間――。
「ぺんだん!」
口から、思わず言葉が飛び出した。
……え?
今、俺は何と言った?
マリアの表情が止まった。
エリアスも、すり鉢の前で動きを止めている。
「……ノア?」
マリアのエメラルド色の瞳に、驚きと戸惑いが浮かんだ。
当然だ。
二人は一度も、その装飾を「ペンダント」と呼んでいない。
初めて見るものの名前を、赤ん坊の俺が口にしたのだ。
(……やってしまった)
そう思ったものの、次の瞬間、マリアの顔にぱっと笑顔が広がった。
「すごいわ、ノア! 今、言葉を話したのね!」
「すごいじゃないか! 天才だ!」
エリアスも駆け寄り、目を輝かせて俺を褒めた。
……待ってくれ。
二人とも純粋に喜んでいる。だが、俺の反応を不思議に思わないわけではないはずだ。
マリアは、一瞬だけ俺の顔を探るように見つめた。
すぐに笑顔を取り戻したものの、ほんのわずかに曇った目元が、俺の胸をちくりと刺した。
(……申し訳ない)
不安にさせるつもりなんてないのに。
俺はただ、目の前にあるものを知りたいだけだった。すりこぎの仕組みを知りたい。薬草のことを知りたい。ペンダントが綺麗だと思ったから、もっと近くで見たかった。
それだけなのに、そのたびに二人を驚かせてしまう。
前世の記憶を持って生まれたことは、俺の意思ではない。
それでも、二人が見ているのは普通の赤ん坊としての俺だ。
この人たちは、俺が何者なのかを知らない。それなのに、全身全霊で愛情を注いでくれる。
このまま隠し続けることが、二人に対する誠実さなのだろうか。
今の俺には、その答えが分からなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
この人たちを悲しませたくない。
できることなら、心配そうな顔ではなく、いつもの笑顔を見ていたい。
俺は、マリアの頬にそっと手を伸ばした。
そして、たどたどしく口を動かす。
「……マ、マ」
マリアの表情が止まった。
「……え?」
エメラルド色の瞳が、大きく見開かれる。
俺はもう一度、彼女を見つめた。
「ママ……」
今度は、少しだけはっきりと言えた。
マリアの唇が震えた。
「……ノア。今……ママって……」
声がかすれる。
そして彼女は、俺をぎゅっと抱きしめた。
「……っ、ノア……! ママよ……! ありがとう……!」
頬に、温かいものが触れた。
涙だった。
いつも明るく、しっかり者の母が、声を震わせて泣いている。
俺は少し驚いた。
ただ、喜んでほしかっただけなのに。
「おいおい、マリア。泣くことないだろう」
エリアスが苦笑しながら近づいてきた。
けれど、その琥珀色の瞳も潤んでいるように見えた。
「だって……この子が……」
マリアは言葉を途切れさせ、俺を抱きしめ直した。
そんな母の肩に、エリアスがそっと手を添える。
父も母も、まだ若い。子育てに戸惑い、自分たちの理解を超える息子の反応に不安を覚えることもある。
それでも、二人は俺を恐れず、突き放さず、こうして受け止めてくれる。
(……ああ。それなら、よかった)
俺は母の胸元に顔を寄せた。
薬草の香りと柔らかな布地。その向こうから伝わる、温かな体温。
前世の俺は、研究に没頭することが当たり前だった。知らないことを知りたい。分からないことを解き明かしたい。その欲求に突き動かされ、ひたすら前へ進んできた。
けれど今は、研究とは関係のない、こんな小さなことで誰かを喜ばせることもできるのだと知った。
そう思うと、不思議と胸の奥が温かくなった。
(……あれ?)
気づけば、目に涙が浮かんでいた。
別に、悲しいわけじゃない。泣くつもりだってなかった。
なのに――。
「ふぇええええん!」
……えっ、俺!?
「まあ! ノア、どうしたの?」
マリアが慌てて俺を抱き直し、背中を優しく撫でた。
「よしよし、大丈夫よ。ママはここにいるからね」
「お、おい、どこか痛いのか?」
エリアスも隣に腰を下ろし、大きな手で俺の頭をそっと撫でる。
二人とも、どうしていいか分からない様子だった。それでも、泣き止ませようと一生懸命にあやしてくれる。
「ほら、あなたも一緒に抱いてあげて」
「あ、ああ。よしよし、ノア。大丈夫だぞ」
ぎこちない父の声に、マリアが小さく笑った。
「ふふ……こうして泣いてくれると、私たちにもできることがあるんだって思えるわね」
「そうだな。いつもおとなしいから、どうしてやればいいのか分からないこともあったしな」
二人は顔を見合わせ、今度は少し安心したように笑った。
……なんだ、それ。
俺はただ、胸がいっぱいになって泣いてしまっただけなのに。
それなのに二人は、俺をあやせることが嬉しいらしい。
まったく、親子というのは思いどおりにならないものだ。
俺はマリアの服を小さな手でぎゅっと握った。
母が俺を抱きしめ、父がそっと頭を撫でる。
(……まあ、これでいいのか)
何もかも、うまくいくわけじゃない。
俺は泣きたくないときに泣き、二人は泣く理由も分からないまま、必死にあやしてくれる。
それでも、こうして互いに手を伸ばしている。
……うん。
ままならないけれど。
それが、家族というものなのかもしれない。
見にくい点、改善点、あれば教えてください。なにぶん初なもので




