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パラドクス・エレメント ~異端の魔導解析学~  作者: アナレンマ


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第二話 再起動

 意識の再起動は、圧倒的な機能不全とともに訪れた。

……動かない。

 最初に気づいたのは、それだった。

 手も、足も、まともに動かせない。首を持ち上げることすらできず、視界はぼんやりと霞んでいる。何かが見えているのは確かなのだが、輪郭が曖昧で、目の前に何があるのかもよくわからない。

おい……ちょ……、どうなってる?

 意識はある。考えることもできる。自分が誰で、何をしていたのかも覚えている。

 あの実験施設で、何が起きたのかも。

なら、ここはどこだ?

 事故のあと、病院に運び込まれたのだろうか。意識だけが戻り、身体は深刻な損傷を受けている。放射線障害か、神経系の損傷か。あるいは、その両方。

 可能性はいくらでも考えられる。だが、今の状態では確かめようがない。身体の状態を確認しようにも、手足ひとつ思うように動かせないのだ。

 ひとまず、誰かに助けを求めよう。

「……っ、あ……」

 声を出そうとした。

 ところが、喉から飛び出したのは、言葉とは似ても似つかない音だった。

「……ヒンギ……フゲェ……」

…………は?

 今の、俺の声か?

 いや、待て。何かの間違いだろう。声帯に問題があるのかもしれない。なら、もう一度試せば――。

「ヘギャー! フンギャー!」

 違う。そうじゃない。

 頭の中では、ちゃんと言葉を組み立てられる。助けを呼ぶことだって、今の状況を説明することだってできる。なのに、いざ声を出そうとすると、口も舌も喉も、まるでこちらの指示を理解してくれない。

 どうしてだ。何が起きている?

「オギャー! オギャアアーッ!」

……違うって! 俺は助けを呼びたいんだ! 泣きたいわけじゃない!

 いや、そもそも、どうしてこんな声しか出せないんだ?

 焦れば焦るほど、呼吸が乱れる。身体を動かそうにも、手足はばたつくだけで、何をどうすればいいのかさえわからなくなってくる。

「フンギャッ! ホギャー! フギィィッ!」

 おい、落ち着け。落ち着くんだ。まずは状況を把握しろ。自分が置かれている環境を確認して、それから――。

「オギャアアアーッ!」

……落ち着けるか、こんな状況!

 自分でも何をしているのかわからない。考えようとする意識と、思うようにならない身体が、まるで別々の生き物のようだった。

 そのとき、視界の端で何かが動いた。

 大きな影が二つ。ぼやけた輪郭が、こちらへ近づいてくる。

 人影だ。

 二人とも、こちらを覗き込んでいるらしい。片方は男性、もう片方は女性のように見えた。

「まあ、元気な声ね」

 女性の声がした。驚いているというより、どこか嬉しそうな響きだった。

「よく頑張ったな。無事に生まれてきてくれて、本当によかった」

 男性の声も聞こえる。

 二人の声から伝わってくるのは、安堵と喜びだった。少なくとも、俺の状態を見て慌てている様子はない。

……生まれた?

 今、なんて言った?

「オギャー! フギャッ!」

 違う、そうじゃない。今のは質問だ。俺は今、何を言われたのか確認したいんだ!

 しかし、そんな意図が伝わるはずもなかった。

 女性がこちらに顔を近づける。ぼんやりとした人影が視界いっぱいに広がり、顔らしきものが見えた。目や口の位置は何となくわかるものの、細かな表情までは捉えられない。

 それでも、こちらを見つめる気配は感じられた。

「ノア。あなたの名前はノア・ブランよ……逢えてうれしいわ……ノア。この世界へ、ようこそ」

 柔らかな声だった。

 言葉の意味はわかる。だが、その内容を理解するより先に、頭の中で別の疑問が膨れ上がっていた。

ノア?

 それが、俺の名前だというのか?

 男性が女性の肩にそっと手を置いた。二人の姿は相変わらずぼやけていたが、男性が何かをこらえるように息を吸い、鼻をすすったのは聞こえた。

「……いい名前だ。なあ、ノア」

 声が少しだけ震えていた。

……泣いているのか?

 嬉し涙、というやつだろうか。

いや、そんなことを考えている場合じゃない。

 状況を整理しよう。

 俺は、あの実験施設にいた。極低温センサーの異常を確認し、磁場のフィードバック系に問題を見つけた。その後、装置に異常が起きて――。

 覚えているのは強烈な赤と青。

 そこから先は、途切れている。

 記憶がないわけじゃない。何が起きたのか、最後まで理解できなかっただけだ。

 それなのに、今はどうだ。手足は動かない。言葉も話せない。目の前の二人は、自分を生まれたばかりの赤ん坊として扱っている。

 まさか、本当に生まれ直したとでもいうのか?

 転生? 記憶を持ったまま? そんな馬鹿な。

 科学者として、そんな説明を簡単に受け入れるわけにはいかない。証拠もなければ、仕組みもわからない。そもそも、意識が別の身体に移るなんて現象は、これまでの科学では説明できないはずだ。

……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。

 まず、自分の身体を確認しろ。動かない理由を探れ。声が出せないなら、ほかの方法で意思を伝えられないか試すんだ。

 そう考えて、もう一度、手を動かそうとした。

 動かない。

 足はどうだ。

 動かない。

 首は?

……やっぱり駄目だ。

 視界はぼやけたまま。声は泣き声にしかならない。自分がどこにいて、どれほどの時間が経過し、何が起きたのかさえわからない。

 まじかよ……冗談だろ。

「ふふ、ノア。お腹が空いたの?」

女性――マリアは、俺をそっと抱き上げた。

 温かい。

 身体を包み込む腕も、頬に触れる手も、驚くほど温かかった。視界が揺れ、周囲の景色がさらに曖昧になる。けれど、身体を支えてくれる腕の感触ははっきりとわかった。

「ほら、エリアス。あなたも抱いてあげて」

「ああ」

 男性――エリアスが、少しぎこちない手つきで俺を受け取った。

 身体が移される感覚に、思わず身構える。だが、落とされることはなかった。大きな腕が俺を支え、身体が安定する。

 大きな手だった。少し硬く、指先には細かな傷がある。薬草のような匂いに、土の匂いが混じっていた。

 何かの仕事をしている手なのだろうか。

 そんなことを考えていると、エリアスが嬉しそうな声で言った。

「ノア、父さんだぞ」

 父さん。

 その言葉が、頭の中で妙に響いた。

 この二人は、自分の両親なのだという。

 いや、だって、だからといって、すぐに納得できるわけがない。

 俺には前世の記憶がある。あの研究施設で働いていた、大人としての記憶だ。事故が起きる直前までのことは覚えている。だが、そこから今まで、どれだけの時間が経ったのかはわからない。

 ほんの一瞬だったのか。それとも、長い間眠っていたのか。

……そもそも、これは本当に眠っていたと言えるのか?

 考えれば考えるほど、わけがわからなくなってきた。

 それが、どうして赤ん坊になっている?

 どうして、この二人はこんなにも自然に俺を抱いている?

 二人は俺を見つめているらしい。視界がぼやけていて表情の細部まではわからないが、声の調子も、身体を支える手つきも、ひどく優しかった。

 まるで、この世で何より大切なものを手にしたかのように。

 そのことが、かえって俺を混乱させた。

 違う。俺は赤ん坊じゃない。話を聞いてくれ。俺は――。

「オギャー! ヒギャー! フンギャアアーッ!」

……くそっ!

 違うんだって! そうじゃない! 俺は話がしたいんだ!

 だが、どれだけ必死になっても、口から出るのは泣き声だけだった。

「よしよし。大丈夫よ、ノア」

 マリアの声が聞こえる。

 大丈夫って、何がだ。

 俺は今、何も大丈夫じゃないんだが!

「ほら、エリアス。きっとびっくりしたのね」

「ああ。大丈夫だぞ、ノア。父さんも母さんも、ここにいるからな」

 ……母さん?

 父さん?

 頭の中で、その言葉が何度も繰り返される。

 二人が何を言っているのかはわかる。だが、その言葉を自分のこととして受け止めるには、あまりにもわからないことが多すぎた。

 それでも、温かい腕に包まれ、優しい声を聞いているうちに、さっきまで張り詰めていた意識が少しずつ疲れていく。

 身体は思いどおりにならない。状況は理解できない。自分が本当に生まれ変わったのか、それとも何か別の現象に巻き込まれたのか、その答えもない。

 ただ一つ確かなのは、今の俺には、泣くことくらいしかできないということだった。

……いや、泣き声なら、いくらでも出せそうだけどな。

 そんなことを考えたところで、また喉から「ふぎゃっ」という音が漏れた。

 こうして俺は、ノア・ブランという赤ん坊として、わけのわからない第二の人生を始めることになった。

 自分が本当に生まれ変わったのか。その仕組みは何なのか。ここはどこで、あの実験施設で起きたことは何だったのか。

 答えは、まだどこにもない。

 ……先が思いやられる。

 そう思ったところで、俺の意識は、ゆっくりとまどろみの中へ沈んでいった。


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