第八話 街道の先にある日常
朝の空気には、まだ夜の冷たさが残っていた。
ノア・ブランは玄関先で外套の襟を整え、街道の向こうを見やった。村を出てバルトルムへ向かうのは、もう何度目になるだろう。
十五歳になった今では、八キロほどの道のりも、以前ほど遠くは感じない。
「ノア、薬の追加分はちゃんと持った?」
背後から母のマリアが声をかけた。
「持ったよ。サイキックネクターが六本、傷薬が十本。それから、父さんに頼まれた納品書も」
「よし。……あら、外套の留め具がずれてるわ」
マリアは近づき、ノアの胸元を直した。仕事のためにまとめた蜂蜜色の髪から、細い毛束が頬の横へこぼれている。
「もう十五歳なんだから、少しくらい自分でできるよ」
「あら、そうね。でも、曲がっていたら気になるでしょう?」
「……母さんが気になるだけじゃないか?」
マリアは楽しそうに笑った。
その奥では、父のエリアスが薬棚を整理していた。薬草の香りが漂う店内には、乾燥させた葉や根が束ねられ、調合を待つ小瓶が並んでいる。
ブラン薬舗は、今では村の外からも客が訪れる店になった。とりわけエリアスの調合する高品質の薬は評判がよく、傷薬や体力回復薬だけでなく、魔導士向けのマギポーションや、回復術師向けのサイキックネクターにも、冒険者ギルドや修道院から定期的な注文が入っている。
「バルトルムに着いたら、叔父さんにも顔を見せておいで。最近は忙しいんだろう?」
「うん。アルスにも会う予定だよ」
「なら、ちゃんと食べてるか確認してきてくれ。あいつは稽古に夢中になると、食事まで忘れるからな」
エリアスが苦笑した。
「それ、叔父さんも同じだと思うけど」
「ははは。否定できないな」
ノアは父の笑顔を見て、店の奥へ視線を移した。
薬草の匂い。使い込まれた調合台。朝の光が差し込む窓。出かける息子の身支度を気にする母と、帰りの食事を心配する父。
この家には、特別なものなど何もない。
けれど、ここで過ごす時間を面倒だと思ったことはなかった。
「行ってくるよ」
「気をつけてね」
「無理はするなよ。何かあったら、まず帰ってこい」
「わかってる」
両親に手を振り、ノアは村の外へと歩き出した。
◇
街道は、村を離れるにつれて少しずつ幅を増していく。
道の両側には低い草地と雑木林が続き、朝露をまとった葉が風に揺れていた。荷車の轍が残る地面はところどころぬかるみ、遠くから鳥の鳴き声が聞こえてくる。
ノアは歩きながら、周囲の魔力の流れを意識していた。
この世界では、魔力は特別な場所だけに存在するものではない。人の身体にも、植物にも、土にも、水にも、濃淡の差こそあれ広く分布している。
それをどう取り出し、どう制御し、どのような現象へ結びつけるか。
魔法とは、その手順を実行する技術なのだと、ノアは考えていた。
ただ、理屈がわかることと、実際に安全に扱えることは別問題だ。
そのことを、村外れの工房に住む老技師から何度も教わった。
ジェフリーは、素材の癖や装置の限界、魔力を流した際に生じるわずかな異変を見逃さない。ノアが構造を理屈で説明しようとすると、老人は決まって短く問い返した。
――それで、どこまで持つ。
その問いに答えられない限り、理論はまだ道具になっていない。
ノアはそうした言葉を思い返しながら、足元のぬかるみを避けた。
不意に、街道沿いの草むらが揺れた。
続いて、低い唸り声が二つ。
ノアは足を止めた。
草むらから現れたのは、鋭い牙と硬い鱗を持つ二頭のヴェノムリザードだった。全長は人の腰ほど。成体には及ばないが、毒を持つ魔物であることに変わりはない。
「……この辺りまで出てくるのか」
ノアは鞄を道端に置いた。
二頭が低く身を沈める。黄色い目が、こちらを捉えていた。
左の個体が先に飛び出した。
ノアは後ろへ跳ばない。踏み込んでくる軌道をわずかに外し、腰を切って身体を滑らせた。牙が衣服をかすめる。風圧が頬を撫でた。
すれ違いざま、ノアは地面へ手をかざした。
草の根元に残った水分が、一瞬で凍りつく。
着地したヴェノムリザードの脚が滑った。巨体が傾き、硬い鱗が地面を擦る。
もう一頭が、仲間を踏み越えて襲いかかってきた。
速い。
ノアは反射的に腰を落とし、右腕を地面すれすれまで引いた。
腕を、地面から上へ勢いよくすくい上げる。
地表を走った風が砂を巻き、細かな礫を引きずり上げた。舞い上がった砂礫が、伸ばした腕の先へと一気に集まる。
ノアはそのまま腕を前へ突き出した。
「エア・ショットガン」
スドンッ!
圧縮された空気が、砂礫をまとめて前方へ叩き出す。
衝撃がヴェノムリザードの顔面から喉元へ直撃。魔物の身体が地面から浮き、数歩分後方へ弾き飛ばす。鱗を擦りながら転がり、四肢をばたつかせた。
すかさず次のターゲットへ視線を移す。
地面を蹴り、横へ走る。吹き飛ばした個体から距離を取りながら、もう一頭の位置を確かめた。
氷の上で滑った個体が、すでに体勢を立て直そうとしていた。喉の奥から、低く湿った唸りが漏れる。
こちらへ向けて、大きく口を開ける。
ノアの指先に、青白い火花が走った。
凍った草の表面で、薄い氷が音を立てる。地面には、凍結しきらなかった水分が残っていた。冷えた空気の中に、わずかな水蒸気が白く漂っている。
ノアはそこへ意識を向けた。
電荷の偏り。放電の経路。空気が絶縁を保てなくなる瞬間。
バチッ、バチバチッ!
考えがまとまるより先に、身体が動いていた。
腕を振り抜く。
バリッ!
青白い閃光が地面から走り、ヴェノムリザードの身体へと届いた。
魔物の四肢がびくりと跳ねた。
踏み込もうとしていた脚が止まり、開いた口から唸り声が途切れる。
動きが止まったのは、ほんの一瞬だった。
だが、それで十分。
ノアは一気に間合いを詰める。魔物が反射的に首を振るより早く、その懐へ踏み込んだ。
狙ったのは、硬い鱗に覆われた首の横ではない。頭と胴をつなぐ、顎の付け根に近い部分だった。
腰を回し、体重を乗せた掌底を、喉元のすぐ下へ短く叩き込む。
ゴツッ!
鈍い衝撃。再び神経を壊す電流を流す。
電撃で筋肉の動きを乱されていた魔物は、踏ん張ることもできず、首を落とすように地面へ崩れた。四肢が一度だけ痙攣し、そのまま動かなくなる。
ノアはすぐには近づかず、数歩離れた位置から様子を見た。
呼吸はあるか。四肢に反応はあるか。
確かめられる範囲で状態を観察し、ようやく息を吐く。
「……よし」
もう一頭も、起き上がろうとはしなかった。
ノアは周囲を見回した。街道に人影はない。
そこでようやく、肩に入っていた力が抜けた。
「……今のは、少し強かったかな」
思わず呟き、ノアは倒れた二頭へ視線を戻した。
エアショットガンは、思ったよりも勢いよく魔物を吹き飛ばしていた。狙ったのは体勢を崩し、動きを止めることだったが、結果としてはかなりの衝撃を与えてしまった。
圧縮空気に砂礫を乗せる。発想自体は単純だ。
だが、空気の圧力だけでは硬い鱗に覆われた相手を止めにくい。だから砂礫を巻き込み、質量と速度を重ねた。腕をすくい上げる動作にしたのも、地面から砂礫を集め、そのまま前方へ押し出す流れをひとつのイメージにまとめるためだった。
そして、もう一つ。
電撃。
ノアは自分の指先を見た。青白い光は、もう残っていない。
先ほどの放電は、地面に残った水分を経路の一部として利用したものだ。電気が流れやすい場所を作り、狙った方向へ放電を導く。理屈のうえでは説明できる。
しかし、理屈を説明できることと、毎回同じように制御できることは違う。
電流の強さや経路がわずかに変われば、身体への影響も変わる。筋肉や神経の働きを一時的に乱すだけで済むとは限らない。生命維持に関わる機能まで損なえば、足止めでは済まなくなる。
ノアはその危険性を知っている。だからこそ、両親からも人前で雷を使わないようにと念を押されていた。
それなのに、戦闘が始まった瞬間には、考えるより先に魔法を選んでしまった。
エアショットガンも、電撃も。
頭の中で現象を組み立てるとき、ノアはこの世界で一般的な魔法の構築手順を、どうしても遠回りに感じてしまう。
既存の魔導体系に従うなら、風を圧縮し、砂礫を巻き上げ、加速させ、衝撃の方向と範囲を定める。それぞれの条件を決められた順序で指定し、術式を成立させなければならない。
詠唱に落とし込むなら、たとえば――。
コンプリーメ・アエロム、ウォルウェ・ラピッロス、エルンペ・インプルスム、コモン・マギ・ウェントゥス。
これだけでは済まない。必要な条件をひとつずつ言葉にし、現地の方式に沿って組み立てれば、詠唱はさらに長くなる。
戦闘の最中に、それを順番に唱えている余裕はない。
だからノアは、必要な現象をひとつのイメージにまとめる。空気が集まり、砂礫が舞い上がり、腕を伸ばした先へ衝撃が放たれる。そうした一連の動作を頭の中で結びつけることで、長い手順を省いていた。
そのイメージにつけた名前が、エアショットガンだった。
今回も、考えるより先に身体が動いた。腕をすくい上げれば砂礫が巻き上がる。伸ばした先へ衝撃を放てばいい。そうした直感的な像が、魔法の構築を助けてくれたのだ。
便利ではある。
だが、反射的に使えるからといって、使っていい場面まで考えなくてよいわけではない。
ノアは小さく息を吐いた。
「……父さんたちに知られたら、また怒られるな」
もっとも、怒られる理由は十分にある。
ノアは二頭の状態をもう一度確かめた。どちらも命に別状はなさそうだ。討伐の証明になる部位を傷つけすぎないよう気をつけながら、持参していた縄でまとめる。毒を受けていないことも確認した。
魔物の討伐は、街道を通る人々の安全を守る仕事でもある。素材には用途があり、ギルドへ持ち込めば報酬も出る。
ただし、魔法の威力を試すために、必要以上の危険を冒すつもりはなかった。
ノアは鞄を拾い、縄を肩にかけて歩き出した。
◇
バルトルムの街門が見えてきたころには、太陽もずいぶん高くなっていた。
天の御柱はうっすらとだが見えている。
グランヴェル子爵領の主要都市であるバルトルムは、グラースヴェルト村とは比べものにならないほど人の往来が多い。
荷車を引く商人、武具を背負った冒険者、仕入れの品を抱えた職人。街門の周辺では、衛兵が通行人を確認しながら忙しそうに声を飛ばしていた。
ノアは二頭の魔物を引きずっているせいで、何人かの視線を集めた。
ヴェノムリザードの幼体自体は、珍しい獲物ではない。ただ、二頭を一人で運んでいるとなれば、話は別らしい。
街門を抜け、冒険者ギルドへ向かう。
建物の前には、依頼の掲示板を確認する者や、仲間と相談する者が集まっていた。扉を開けると、受付でのやり取りや酒場からの笑い声が一度に耳へ飛び込んでくる。
「おはようございます、ミリーさん」
「ノア君! おはよう。今日はずいぶん大荷物ね……って、ヴェノムリザード!?」
受付のミリーは、ノアの後ろに続く二頭を見て目を丸くした。
「街道で遭遇したんです。二頭とも討伐済みです」
「二頭も? ちょっと待ってね。まずは状態を確認するから」
ミリーは受付から出てきて、魔物の傷や鱗の状態を確かめた。少し遅れて、素材査定を担当する職員もやってくる。
「毒袋と牙は使えそうね。外側の傷も少ないし、素材としては悪くないわ」
職員がそう言う一方で、ミリーは魔物の顔と喉元をじっと見ていた。
「……でも、ここ。ずいぶん強い衝撃を受けているみたい」
「そうなんですか?」
ノアはできるだけ自然に聞き返した。
「鱗に大きな裂傷がないのに、打撃を受けた痕跡があるの。普通に武器で叩いたなら、もう少し傷が残りそうだけど……」
ミリーは顔を上げ、ノアを見た。
「ノア君、どうやって倒したの?」
「風魔法で体勢を崩して、動きを止めました。二頭とも幼体だったので、なんとか」
嘘ではない。ただ、説明としてはずいぶん省略している。
ミリーはまだ何か聞きたそうだったが、背後から別の声が割り込んだ。
「おい、ちょっと見せてくれ」
近くで依頼票を確認していた大柄な冒険者が、査定中の魔物に近づいてきた。その後ろからも、数人の冒険者が興味を示して集まってくる。
「ヴェノムリザード? しかも二頭か」
「幼体でも毒持ちだろ。こいつ、一人でやったのか?」
「鱗がほとんど割れてねえな。剣で仕留めたわけじゃなさそうだ」
一人が魔物の胴を確かめ、別の一人が顔の周辺を覗き込む。
「こっちは、何かをまともに食らって吹っ飛ばされたように見えるな。だが、テルルスで石をぶつけたにしては傷が少ない」
「ヴェントスじゃねえのか? 風圧で転ばせたとか」
「風だけで、この体格をここまで飛ばせるか? それに、もう一頭のほうは倒れ方が違うぞ」
男たちは、ノアではなく魔物の状態を見ながら議論を始めた。
「麻痺毒でも食らったのか?」
「ヴェノムリザードの毒は自分で持ってるだろうが。逆だ、逆」
「じゃあ、何かの魔法で動きを止めたってことか?」
ノアは表情を変えず、話を聞いていた。
彼らが見ているのは、あくまで結果だ。片方は顔から喉元にかけて強い衝撃を受け、もう片方は目立った傷がないまま動きを止められている。外から見ただけでは、どちらも魔法によるものとしかわからないだろう。
問題は、もう一つの魔法だ。
あの青白い放電を、誰かが見ていた可能性はないか。
ノアはさりげなく周囲を見回した。ギルド内にいる冒険者たちは、今のところ魔物の傷や倒れ方に関心を向けている。雷を見たと話す者はいない。
ひとまず、目撃された様子はなさそうだった。
ミリーは査定票を手にしたまま、改めてノアへ向き直った。
「ノア君。ヴェントスでここまでの威力を出せるの?」
「条件がそろえば、可能だと思います。風の圧力だけじゃなくて、周りの砂や小石も一緒に飛ばせば、衝撃を強められますから」
説明しながら、ノアは言葉を選んだ。
仕組みそのものを隠す必要はない。だが、威力を上げる方法を詳しく語ることと、実際にどこまで危険な現象を起こせるかを教えることは別だった。
「なるほど……。ただ風をぶつけるんじゃなくて、周囲のものまで利用するのね」
「はい。ただ、扱いを間違えると危険なので」
「そうね。勝てるかどうかと、安全に倒せるかどうかは別だもの」
ミリーは査定票に目を落とした。
「ノア君、討伐の記録はきちんと残しておくわ。素材の報酬も、あとで渡せるようにしておくから」
「お願いします」
「それと、次に似た魔物と遭遇したときも、無理はしないでね」
「わかっています。ありがとうございます」
ノアは軽く頭を下げた。
背後では、まだ冒険者たちが議論を続けていた。
「ヴェントスにテルルスを乗せたって話だったな。あれ、鎧の隙間に入ったら厄介じゃないか?」
「複合魔法なんてどんだけ長い詠唱だよ。お前の婆さんの説教かぁ?」
「ガハハハハ!」
「それより、もう一頭はどうやって動きを止めたんだ? 倒れ方が妙にきれいだったぞ」
「そこまではわからん。本人に聞いてみりゃいいだろ」
「聞いたって、簡単に真似できるとは思えねえがな。前衛がこうやって……」
男が両手を動かしてみせる。
「あいつソロなんだろ?」
「ああ」
「ソロかよ!」
また笑い声が上がった。
ノアは歩みを止めず、後ろから聞こえてくる声から意識を切り離した。
魔法の仕組みを理解してもらえるのは、必ずしも悪いことではない。だが、理解されることと、危険な使い方まで知られることは同じではなかった。
魔物の査定を職員に任せ、ノアはギルド学校へ向かった。
◇
ギルド学校の教室は、建物の奥にある。
広い部屋に並ぶ机と椅子は、年齢の違う子供たちが使いやすいよう、大きさがまちまちだった。黒板の横には文字表と数字の表が貼られ、棚には読み書きの練習帳や計算用の石板が整然と並んでいる。
ここに通うのは、冒険者やギルド職員の子供だけではない。商人の家の子もいれば、街の修道院で暮らす孤児たちもいる。
読み書きと計算は、冒険者にとっても欠かせない。依頼書を読み、報酬を確かめ、物資の数を間違えずに扱う。そうした基礎を身につけることは、子供たちの将来の選択肢を増やすことにもつながっている。
この学校を作るために尽力した人物の一人が、ハンスだった。
前線で戦っていたころの彼は、重い斧を振るう冒険者だった。今では冒険者ギルドの物資統括管理官として、武具や薬品、食料の流通を管理している。
その経験から、実力のある冒険者であっても、読み書きや計算ができなければ不利益を被ることを知っていた。依頼の内容を正しく理解できず、物資の配分を誤り、報酬の計算で損をする。そうした失敗は、戦闘の腕だけでは防げない。
だからこそ、子供のうちから学ぶ機会を与えるべきだと考えたのだ。
ノアが教室に入ると、子供たちが一斉に振り返った。
「ノア先生!」
「今日は計算の続き?」
「昨日の問題、全部できたよ!」
「おはよう。順番に聞くから、まず席に着こうか」
ノアは笑いながら、机の間を歩いた。
先生と呼ばれるたびに、少しだけ居心地の悪さを覚える。前世では研究者として働いていたが、子供たちを相手に授業をする経験などなかった。
それでも、教えること自体は嫌いではない。
知らなかったことがわかる瞬間。難しく見えた問題の仕組みが理解できて、子供たちの顔がぱっと明るくなる瞬間。
それを見るのは、研究とは違う楽しさがあった。
「じゃあ、今日は昨日の続きから。数字を足すだけじゃなくて、何を数えているのか考えてみよう」
ノアは黒板に簡単な問題を書いた。
「薬草が十二束あります。そこから三束を使いました。残りはいくつ?」
「九束!」
「正解。じゃあ、同じ薬草を三人に同じ数ずつ分けるなら?」
「……三束ずつ?」
「そう。計算の仕方がわかっていれば、買い物でも仕事でも役に立つ。数字は、答えを出すためだけにあるんじゃないんだ」
子供たちは真剣に黒板を見つめた。
「先生、これができたら冒険者になれる?」
前列の少年が、石板を抱えながら尋ねた。
「これだけでなれるわけじゃないよ。体力も必要だし、危険を見分ける知識も必要だ。でも、できることが増えれば、選べる仕事も増える」
「じゃあ、もっと勉強する!」
「うん。その意気だ」
ノアが頷くと、子供たちは再び石板へ向き直った。
魔法の研究に没頭していると、世界は法則と現象の集まりに見えることがある。だが、こうして子供たちと向き合っていると、知識が役に立つ場面は実験室の中だけではないのだと実感する。
誰かが文字を読めるようになる。計算を覚える。自分の力で仕事を選べるようになる。
それもまた、世界の仕組みを知ることの意味なのだろう。
◇
授業が終わり、子供たちが片づけを始めたころだった。
「ノア、そろそろお昼の準備を手伝ってくれる?」
教室の入り口から、少女が声をかけた。
栗色の髪を低い位置でまとめ、耳の後ろへ流している。紫水晶を思わせる瞳は柔らかく、飾り気のない修道服の上には作業用の前掛けを着けていた。子供たちと過ごしていたのだろう。袖口には、わずかに埃がついている。
リネア。
ノアと同じ十五歳。幼いころに拾われ、バルトルムの修道院で育った少女だ。
彼女の暮らす修道院は、天柱聖教の教えのもと、孤児や病人、行き場をなくした人々を受け入れている。領主や国の権力にも干渉しない独立した施設であり、救いを求める者にとって、身分を問わず身を寄せられる場所でもあった。
天柱聖教が信仰するのは、空を横切る光の帯――『天の御柱』、人々が親しみを込めて『ミハシラ様』と呼ぶ存在だ。
月のように満ち欠けすることなく、いつも変わらず頭上に架かる光。それは人々にとって、世界を支え、日々の暮らしを守ってくれる不変の象徴だった。
(……あれ、惑星リングなんだけどな。説明したところで、たぶん伝わらないだろうけど)
リネア自身は、熱心な信徒というわけではない。けれど、修道院で育った彼女にとって、空に変わらず在り続ける光は、いつしか心を静かに落ち着かせてくれるものになっていた。
今はギルド学校で年長の生徒たちを補助しながら、小さな子供たちの世話をしている。自分が受け入れてもらったように、誰かの居場所を守りたい――そんな思いが、彼女の毎日の仕事につながっていた。
「もちろん。何を運べばいい?」
「食堂にパンとスープを運ぶの。小さい子たちが先に来るから、お願いできる?」
「わかった」
ノアが返事をすると、リネアは安心したように微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、ノアは返事をするのが一拍遅れた。
「……どうしたの?」
「いや、何でもない。すぐ行くよ」
「ふふ。じゃあ、待ってるね」
リネアは小さく笑い、廊下へ出ていった。
ノアは自分の頬に触れかけ、思いとどまった。
気にするほどのことではない。
そう結論づけて、彼は食器の入った籠を持ち上げた。
◇
食堂には、年の違う子供たちが集まり始めていた。
修道院で暮らす子供たちの中には、親を亡くした者や、事情があって家族と離れて暮らす者がいる。リネアもまた、幼いころに両親を亡くし、この修道院に引き取られた一人だった。
彼女の名は、修道院のシスターがつけてくれたものだという。家族について覚えていることは少なく、姓も知らない。
けれど、彼女は自分が受け取ったものを、今度は年下の子供たちへ渡そうとしていた。
「ほら、押さないで。スープは逃げないからね」
「でも、ぼく、おなかすいた!」
「わかってるよ。ちゃんとみんなの分があるから、順番に座ろう」
リネアは小さな男の子の目線に合わせてしゃがみ、乱れた襟を直した。
その子は少し不満そうな顔をしていたが、彼女が頭を撫でると、ようやく椅子に座った。
ノアはその様子を横目で見ながら、パンの籠をテーブルへ置いた。
「リネアは、子供たちの扱いが上手だね」
「そうかな?」
「うん。さっきの子、最初は全然聞く気がなさそうだったのに」
「おなかがすいていると、何を言われても落ち着かないことがあるでしょう? 私も小さいころ、そうだったから」
リネアは照れくさそうに笑った。
「だから、まずは食べてもらうの。話をするのは、そのあとでもいいから」
その言葉を聞き、ノアは小さく頷いた。
問題が起きたとき、原因を探し、仕組みを理解し、解決策を組み立てる。ノアはそうした順序を自然に選ぶ。
リネアは、目の前の相手が何を必要としているのかを、まず考えるらしい。
どちらが正しいという話ではない。ただ、彼女のやり方には、ノアが見落としがちなものが含まれている気がした。
「リネアお姉ちゃん!」
食堂の隅から、幼い少女の声がした。
振り向くと、五、六歳ほどの女の子が片足を引きずるようにして立っていた。転んだらしい。膝には擦り傷があり、痛みのせいか、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「どうしたの? 転んじゃった?」
リネアはすぐにそばへ駆け寄った。
少女はこくりと頷き、目に涙をためた。
「いたい……」
「そっか。痛かったね。びっくりしたね」
リネアは少女を責めなかった。傷を見ようと急かすこともせず、まずは背中をそっと撫でる。
「大丈夫。ここにいるよ。ちょっとだけ、膝を見せてくれる?」
少女は恐る恐る足を差し出した。
傷は深刻なものではない。だが、幼い子供にとっては、少し血がにじんだだけでも十分に怖いのだろう。
リネアは布で周囲の汚れをそっと拭き取り、傷を確かめた。
「うん。ちゃんと手当てしようね」
彼女は少女の膝に手を添え、目を閉じた。
「痛いの、少しでもなくなりますように……」
祈るような声だった。
ノアは、彼女の手元を見つめた。
魔法を使うとき、この世界の人々はたいてい何らかの変化を示す。魔力が集まる気配、身体の内側を通る流れ、術式を成立させるための動き。個人差はあるが、観察を重ねれば、何らかの手がかりは得られる。
だが、リネアの手元には、それがなかった。
魔力の流れがない。
少なくとも、ノアがこれまで認識してきた魔法の発動過程とは一致しない。
それなのに――。
「ルミナス・ハート……」
リネアが小さく呟いた。
その瞬間、彼女の瞳が淡い青の光を帯びた。
光はごく短く、膝に添えられた手の周囲を柔らかく包む。熱も、風も、魔力が弾けるような感覚もない。
ただ、少女の泣き顔から少しずつ力が抜けていった。
「あれ……?」
少女が自分の膝を見下ろした。
擦り傷は塞がり、残っていた赤みも薄れている。
「痛くない……!」
「よかったね」
リネアはほっとしたように笑った。
少女はすぐに彼女へ抱きついた。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「どういたしまして。でも、今度からは走るときに気をつけようね」
「うん!」
少女は元気を取り戻し、友達のもとへ駆けていった。
その背中を見送ったあと、リネアはゆっくりと立ち上がろうとした。
しかし、膝に力が入らなかったらしい。身体がふらりと傾く。
「リネア!」
ノアは考えるより先に手を伸ばし、彼女の腕を支えていた。
「……ごめんね。ちょっと、立ちくらみがしたみたい」
「ちょっと、で済ませていい顔色じゃないよ」
リネアの頬から血の気が引いていた。呼吸も浅く、いつもの穏やかな笑顔を保つ余裕がないように見える。
「座って。今、薬を出すから」
「でも、子供たちの食事が……」
「食事は僕が運ぶ。君は休んで」
ノアは近くの椅子に彼女を座らせた。
リネアは何か言いかけたが、結局、素直に頷いた。
ノアは持っていた鞄から小瓶を取り出す。中身は、父エリアスが調合したサイキックネクターだった。
「これを飲んでみて」
リネアは小瓶を見て、少し驚いた顔をした。
「この薬……ブラン薬舗のもの?」
「そうだよ。修道院にも定期的に届けているはずだけど」
「うん、知ってる。シスターが薬を受け取るところも見ているし、私も何度かお世話になったことがあるの。祈りを続けて疲れてしまったとき、この薬を飲むと、少し気持ちが落ち着くことがあるんだ」
リネアは両手で小瓶を受け取り、少しずつ口に含んだ。
しばらくすると呼吸が落ち着き、強張っていた肩の力がわずかに抜けた。
だが、顔色がすぐに元へ戻ったわけではない。
「……ありがとう。少し楽になった」
「よかった。でも、まだ無理はしないで」
「うん。そうするね」
リネアは小瓶を大事そうに両手で包んだ。
ノアは彼女の様子を見守りながら、先ほどの光景を思い返していた。
傷は治った。
それだけなら、治癒魔法の一種と考えることもできる。だが、魔力の流れを確認できなかった。術式の構築も、通常の発動に伴う変化も観測できていない。
それにもかかわらず、結果だけが成立している。
疑問が次々に浮かんできた。
「リネア。さっきのは、治癒魔法なの?」
尋ねる声は、思ったより慎重になった。
リネアは少し考え込んだ。
「ううん……私にも、よくわからないの」
「わからない?」
「傷が痛そうだったから、少しでもよくなりますようにって祈っただけ。ミハシラ様が助けてくれたのかな……でも、どうしてそうなるのかは、私にもわからないよ」
彼女は困ったように笑った。
「私、特別なことをしているつもりはないの。あの子が痛がっていたから、痛くなくなってほしかった。それだけ」
ノアは言葉を失った。
彼が知りたいのは、現象を呼ぶ名前ではない。何が起きたのか、どのような条件で成立したのか、そして、なぜリネアが倒れそうになるほど疲れてしまったのか。
だが、目の前の少女は、まだ青白い顔をしていた。
今は質問を重ねるべきではない。
「……わかった。詳しいことは、また元気なときに聞かせて」
「うん。私にわかることなら、いくらでも」
リネアはそう答え、少しだけ姿勢を正した。
「でも、ノア。あの子が笑ってくれたから、私はそれでよかったんだよ」
ノアはすぐには返事ができなかった。
彼女にとって大切なのは、奇跡の正体ではない。祈りがどのような仕組みで働いたのかでもない。
目の前にいる子供が、痛みから解放されて笑顔を取り戻すこと。
その結果が得られたのなら、彼女はまず、それを喜ぶのだ。
「……そっか」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
リネアは微笑んだ。
◇
昼食の片づけが一段落したころ、食堂の扉が勢いよく開いた。
「おーい! ノア、いるか!」
聞き慣れた大声が響く。
「叔父さん、ここは学校の食堂だよ」
「わかってるわ! だから昼飯を食いに来たんだろうが!」
入ってきたのはハンスだった。
エリアスより少し年上の彼は、鍛え上げられた大柄な身体に仕事用のベストを着ている。短く乱れた赤みのある栗色の髪と、鋭い琥珀色の目。こめかみには古い傷跡が残っていた。
かつて前線で名を知られた冒険者らしい風格は、今も失われていない。
ただし、物資統括管理官となった現在、彼の手には巨大な斧ではなく、書類の束が握られていた。
「ハンスさん、こんにちは」
リネアが挨拶すると、ハンスは彼女の顔を見て、少し眉を寄せた。
「おう、リネア。……顔色が悪いぞ。ちゃんと飯は食ったのか?」
「はい。少し疲れただけです」
「少し、ねえ」
ハンスは納得していない様子だったが、それ以上問い詰めることはしなかった。
代わりに、ノアへ目を向ける。
「お前、ちゃんと見ておけよ。無理して倒れられたら、周りが困るだろうが」
「わかってるよ。今、休んでもらってる」
「ならいい」
言葉はぶっきらぼうだったが、リネアを気遣っているのは明らかだった。
そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。
「親父、先に行くなら言ってくれよ!」
顔を出したのは、十七歳になったアルス・ブランだった。
母親譲りの赤みがかった髪は相変わらず跳ねていて、日に焼けた顔には細かなそばかすが散っている。鍛錬で鍛えた身体には無駄がなく、腰には使い込まれた木剣を提げていた。
「おう、アルス! お前が遅いからだろうが!」
「俺は書類を運ぶのを手伝ってたんだよ!」
「言い訳するな! 飯を食ってから動け!」
「それ、親父がいつも言ってることだろ!」
アルスは呆れたように言い返し、それからノアとリネアに気づいた。
「おっ、ノア! 今日も来てたのか。リネアも一緒だったんだな」
「こんにちは、アルス」
「おう! ……って、ノア。お前、また飯を抜いてないだろうな?」
「今日は食べたよ」
「今日は、じゃないだろ! ちゃんと毎日食えよ。お前は考えごとを始めると、すぐ食事を忘れるんだからな!」
「アルス、ノアはさっきまで授業をしていたんだよ」
リネアが穏やかに取りなすと、アルスは少しだけ声を落とした。
「そ、そうか。ならいいけどよ……」
どうやら、彼女に注意されると調子が狂うらしい。
ノアはそれを見て、思わず口元を緩めた。
「何だよ、その顔」
「別に」
「絶対、何か考えてるだろ!」
「気のせいだよ」
「お前の気のせいは信用できねえ!」
アルスが騒ぎ、ハンスが大笑いする。
「だはははは! いいじゃねえか、元気があって! がたがた抜かすな、若いんだから肉を食って寝ろ!」
「親父、それじゃ何の解決にもなってないだろ!」
「細かいことを気にするな!」
食堂に笑い声が広がった。
ノアはその声を聞きながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
誰かが大声で笑い、誰かが呆れ、誰かがそのやり取りを楽しそうに眺める。何でもない会話の中に、言葉だけでは説明しきれないものがある。
ノアはまだ、そのすべてを理解できているわけではない。
けれど、理解できないからといって、価値がないわけではなかった。
◇
午後、ノアはギルドの事務所で、ハンスから頼まれていた薬品の納品書を渡した。
「これで今月分は全部だよ。父さんが、次の調合分も用意できるって」
「助かる。お前の親父の薬は、現場の連中から評判がいいからな」
ハンスは納品書に目を通し、数量を確かめた。
「特にサイキックネクターは重宝している。マギポーションとは、必要とされる理由が違うからな」
「魔導士向けと、回復術師向けだね」
「ああ。魔導士は魔力を使って魔法を行使する。だから、減った魔力を補うマギポーションが必要になる。一方、回復術師が奇跡を使うと、魔力とは別に精神へ負担がかかる」
ハンスは納品書を机に置いた。
「傷を治せても、術者自身が倒れちまえば次の患者を助けられねえ。サイキックネクターは、その消耗を和らげ、回復を助けるための薬だ」
「父さんも、その違いを前提に調合しているんだよね」
「もちろんだ。ギルドも、回復術師の奇跡が魔力を使った魔法とは別物だってことは理解している。必要なものが違うんだから、備える薬も違う。それだけの話だ」
ハンスは書類をまとめ、机の端に置いた。
「修道院にも定期的に届けられるのはありがたい。あそこにも、人を助けるために自分をすり減らす者がいるからな。必要なときに薬がなけりゃ、休むことさえ難しくなる」
「使った力を補うだけじゃなくて、使ったあとに回復することも大事なんだね」
「そういうことだ。どんな力だって、使う人間が倒れちまったら続かねえからな」
ハンスは肩をすくめた。
「まあ、俺は薬の専門家じゃない。だが、必要な薬を必要な人間に届けるのが、俺の仕事だ」
ノアは頷いた。
サイキックネクターは、奇跡を無制限に使えるようにする薬ではない。消耗した精神を支え、回復を助けるものだ。無理を重ねれば、薬があっても倒れることはある。
リネアの青白い顔が、ふと脳裏をよぎった。
あの奇跡がどのような仕組みで成立したのかは、まだわからない。けれど、彼女が負担を負っていたことだけは確かだった。
「ところで、教会と修道院は同じ組織なの?」
ノアは、以前から気になっていたことを尋ねた。
ハンスは少し考えた。
「そういう扱いの場所もあるだろうが、ここがどういう仕組みなのかは、俺も細かいところまでは知らん。少なくとも、ギルドが普段やり取りしているのは修道院の責任者だ。祈りや儀礼のことまで、こっちが口を出すわけじゃない」
「修道院の運営は、シスターたちが中心になっているんだね」
「ああ。ギルド学校との連携も、子供たちが読み書きを学べるようにと始まったものだ。まあ、俺は宗教の専門家じゃねえ。子供たちが食えて、学べて、安心して眠れるなら、それでいいと思ってる」
その答えは、ハンスらしいものだった。
ノアは頷いた。
教会がこの国でどのような権限を持っているのか。王家や領主とどのような関係にあるのか。精霊信仰が社会の仕組みとどう結びついているのか。
興味はあるが、今の段階でわかっていることは少ない。
「ところでノア」
ハンスの声に、ノアは思考を切り替えた。
「最近、領主館の連中がギルドに顔を出すことが増えてきた。薬品や魔物素材の扱いについて、いろいろと確認したがっているらしい」
「領主館が?」
「ああ。詳しい話はまだ決まっていないが、領内の物資の流れを見直したいんだと。お前の親父の薬も、評判が広がっているからな」
「父さんは、いつもどおり薬を作っているだけだよ」
「それで十分だ。だが、評判が広がれば、見ている連中も増える。そこは覚えておけ」
ハンスの口調は真剣だった。
ノアは小さく頷いた。
父が薬を作るのは、誰かの役に立つためだ。必要とする人に届くのなら、それは望ましいことだろう。
ただ、薬の価値を認めることと、その薬を作る者の事情まで理解することは別だ。
その違いを、ノアは忘れないようにしようと思った。
◇
夕方、ノアは修道院へ薬品の追加分を届けた。
修道院は街の喧騒から少し離れた場所に建っている。石造りの建物は飾り気こそ少ないが、窓辺には花が置かれ、庭には子供たちが育てているらしい薬草が並んでいた。
門をくぐると、庭先で数人の子供たちが遊んでいた。
「あっ、ノア先生!」
昼間、膝を擦りむいた少女が、こちらに気づいて駆け寄ってきた。
「もう走って大丈夫なの?」
「うん! もう痛くないよ!」
「それはよかった。でも、転ばないように気をつけてね」
「はーい!」
少女は元気よく返事をして、友達のところへ戻っていった。
少し離れたところで、その様子を見ていたリネアが微笑んでいた。
「今日は、ありがとう。あの子、さっきまでずっとノアにお礼を言いたがっていたの」
「僕は何もしていないよ。治したのは君だろう?」
「でも、ノアがそばにいてくれたから、安心できたと思う」
リネアはそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「私も、助かったよ。あのあと休ませてもらったから、もう大丈夫」
「本当に?」
「うん。まだ少し疲れているけど、ちゃんと休めば平気だと思う」
ノアは彼女の顔色を確かめてから、頷いた。
「ならよかった。でも、また同じようになったら、すぐに誰かに頼ってほしい」
「……うん。気をつけるね」
リネアは、少し困ったように笑った。
「ノアは、いつもよく見ているんだね」
「そうかな」
「うん。私が疲れていることにも、すぐ気づいたでしょう?」
ノアは返事に詰まった。
彼女の顔色や呼吸、身体の揺れ。異変を示すものはいくつもあった。
だが、それを口にすれば、また理屈っぽい説明になってしまいそうだった。
「……心配だったから」
結局、そう答えた。
リネアは目を丸くし、それから柔らかな笑顔を浮かべた。
「ありがとう、ノア」
たったそれだけの言葉なのに、ノアは妙に落ち着かなくなった。
修道院の奥から、シスターがリネアを呼ぶ声がした。
「リネア、夕食の支度を手伝ってくれる?」
「はい、今行きます!」
彼女は返事をしてから、ノアに向き直った。
「今日はありがとう。薬も、届けてくれてありがとうね」
「うん。また何か必要になったら、父さんに伝えておくよ」
「そうするね」
リネアは軽く頭を下げ、建物の中へ戻っていった。
ノアはその背中をしばらく見送った。
彼女の奇跡について、わかったことはほとんどない。
魔力の流れを伴わずに傷が治ったこと。発動のあと、彼女が強い疲労を見せたこと。そして、本人はその現象を特別な技術だとは考えていないこと。
現時点で確かなのは、それくらいだ。
仮説はいくつも立てられる。だが、どれも決定的な証拠を欠いている。
答えを急ぐ必要はない。
まずは観察すること。相手を理解すること。そして、知りたいという気持ちが、相手を傷つけることのないようにすること。
それは研究の手順であると同時に、人と関わるうえで忘れてはならないことでもある。
◇
ギルドの酒場へ戻ると、ハンスとアルスがすでに席を取っていた。
「おう、ノア! こっちだ!」
ハンスが手を振る。
「遅かったな。腹が減ったぞ!」
「叔父さんが先に食べていればよかっただろ」
「お前を待ってやってたんだよ!」
「はいはい」
「おい、聞き流すな!」
アルスが横から口を挟んだ。
「まあまあ。とりあえず食おうぜ。俺、今日は稽古で腹が減ってんだ!」
「お前はいつも腹が減ってるだろうが!」
「育ち盛りだからな!」
「だはははは! そうだ、食え! 薬を飲んで肉を食って寝ろ、以上だ!」
ハンスの豪快な笑い声が、酒場に響いた。
ノアは二人の向かいに座り、運ばれてきた料理に手を伸ばした。
温かなスープと焼きたてのパン。肉の香ばしい匂い。周囲から聞こえる冒険者たちの会話。
昼間に見た、リネアの瞳に浮かんだ青い光が、ふと脳裏をよぎった。
あの現象は何だったのか。
魔法なのか。それとも、魔法とは別の仕組みなのか。
今の知識では、まだ答えを出せない。
「ノア、何ぼんやりしてんだ?」
アルスがパンを頬張りながら尋ねた。
「いや、ちょっと考えごとをしていたんだ」
「またかよ。冷める前に食えって!」
「わかってるよ」
ノアはスープを口に運んだ。
窓の外では、夕暮れの光が街並みを照らしていた。仕事を終えた人々が家路につき、街道を行き交う荷車の数も少しずつ減っていく。
ここには今日を生きる人々の営みがある。
薬を作る父と母。子供たちに学ぶ機会を与えようとする叔父。自分の道を探しながら、誰かを守ろうとするアルス。そして、目の前の痛みを少しでも和らげようとするリネア。
ノアは、世界のすべてを知りたいと思っている。
ただ、知識を増やすことだけが、世界を理解する方法ではないのかもしれない。
そう考えながら、彼はもう一口、温かなスープを飲んだ。




