大禍時
子の神は勝敗が決した後も目をつむったまま佇んで何事かをぶつぶつと念じていた。しばらくすると、彼の目の前に一人の男が現れた。それは古の神の一柱でもある伊弉諾尊だった。子の神と向かい合うように立っていた伊弉諾は言葉も交わさぬまま身を翻し、子の神に背を向けた。そして、人々が囚われていた方角へ向けて右腕を左から右へ振ると、幽世に移されていた人々が元居た場所に現れた。それらの人々は夕方前に始まった人払いの結界で隔離された直後からずっと念仏を唱えたり、家族に伝わる守りのまじないの言葉をつぶやいたり、お守りの護符を握りながら祈っていたようだが、夕刻の薄暗い頃にようやくそのままの姿で解放されたのだった。
人々が元居た街道や畑が、神々の立つ場所と重ならなかったのは不幸中の幸いだったと言えよう。とはいえ、ようやく現世に戻された彼らは、ほっと一息つく暇もなく強烈な神威を放つ異形の存在を目の当たりにしたのだ。恐れのあまり卒倒してしまう者もいたが、畏れのために平伏して拝む者まで出始めるのだった。その様子を睥睨しながら「これだけの民を幽世に送るとは…」と呆れたように呟いた伊弉諾は「たかが狐と侮りすぎた」と自戒する。「皆様方は御光来くださるか?」と問う子の神に対し、伊弉諾は背を向けたまま「我は行く」とだけ言い残して神界に戻っていった。
※ 戦いの後、狗神は元の肩高5尺の紀州犬の姿に、戌の神は人型になっていた。子の神は雷蔵たちと別れたときの肩高3尺ほどの巨大鼠の状態の方が高速移動する分には都合が良かったが、戦闘直前に人型になっていた。ちなみに、肩高3尺の身近な動物と言えば、セント・バーナードかイングリッシュ・マスティフなどの大型犬くらいになる。それだけ大きい四つ足であれば人型よりも速いはずだ。人里に現れるときは普通のドブネズミのサイズになるので、神だけに何でもありである。
閑話休題。
「ふむ、古の神々の関心は薄いか」と嘆くように呟く子の神に向かって「嘆いても仕方ないのであるよ」と楽天的に告げる辰の神はいつの間にか人型に戻っていた。「それより、我らが御旗の下に急ぎましょう」と戌の神が告げると、彼らはおもむろに歩き出したのだった。
日がすっかり西の山の下に入ったのに空だけが明るいこの薄暮の刻は現世と幽世の境が曖昧になる危険な刻とされ、人々に恐れられる時間帯で、薄明るいので足元は見えるのだが、相手の顔がよく見えない時間帯なのだ。声だけで相手を判別すればよいだろうが、それは聴覚が鋭い者のみの特権である。ほとんどの人は「オレオレ」詐欺に騙される程度の聴覚しかないのだ。
人々が多く集まって暮らすようになると、この時間帯に悪さをする人が多くなる。だからこそ、人々は薄明るい時間帯、まやかしの明るさに恐怖心を覚える。明るさが残っているところはなまじ見えるのだが、陰になっているところが真っ暗になって全く見えなくなるのだ。自分に見えているものの真偽が疑わしいことほど恐ろしいものはない。その時間帯に、自分に向かって微笑みかけているように見える夕空の残照に照らされた“友人”の顔は、本当に自分の友人なのだろうか?
そういう理由で、人々はこの時間帯『大禍時』を酷く恐れる。そして、大禍時に少なからぬ人々が同時に体験したこの不可思議な現象については、その後しばらくの間、京の都でも噂話になるのだった。
※『大禍時』は、後代に『逢魔が時』と言われるようになった。
今回、明確な誤字・表記ゆれは見当たりませんでした。タイトルと「刻」にもともと付いていたルビはそのまま活かしています。
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