その洞穴は街道から獣道をかなり上がったところにあったが、歩き通しだった雷蔵は疲労困憊で早く眠りたいところだったが、いくら綿入りの直垂を着ているとはいえ、真冬の夜空の下で横たわるのは命に関わる。かと言って、敵地に入っている以上そのへんで宿を取るわけにも行かず、やむを得ない洞穴野宿である。琵琶姫に手を引かれ、辰の神に背中を押されつつ獣道の坂道を登る。
子の神が翳す松明の明かりがなければ辺りは全く見えない暗闇だった。四足たちは山の遠くの方で咆哮を上げていた。彼らの主たちは飲まず食わずでも問題ないが、眷属たちは現世の生き物たちである以上飲み食いをする必要がある。そうしているうちに斜面の一部が崖になっているところにいきあたる。雷蔵の目の前で人化した戌の神が崖下の低木をかき分けると、その奥に吸い込まれそうな暗黒があり、子の神がそこに松明を翳すと洞穴が見えた。
狗神が先に入って行き、「足を伸ばせる広さはないが、屋根のない所で寝るよりはマシであろう」と洞穴から顔を出して述べる。眠くてフラフラになっている雷蔵の鎧具足を辰の神と琵琶姫が外していく。「かたじけない」と力なく述べた雷蔵はよたよたと洞穴に這いつくばって入って行く。鎧を外した途端にむせ返るような臭気が放たれる。冬用に少し綿を多めに入れた直垂は汗を吸って重くなっており、そこに垢と皮脂が混ざるのだ。剣道をやっていた人であればなんとなくわかるだろう。
汗が引くときが一番体が冷える。雷蔵はブルっと震えると狗神にしがみつく。健康な犬の体はものすごく暖かく、こう言うときに犬を抱いて眠るのは低体温症や凍傷を予防する上で一定の効果があるだろう。肩高150cmもある巨大犬なら尚更である。雷蔵が横になろうとした時、琵琶姫が「なにか口に入れ給え」と光る団子と竹の水筒を渡してきた。その後、彼女はすぐ外に出て何かをしていたのだった。
飲み食いを済ませた雷蔵は狗神の腹に自分の背を預けて横になると、そのまま明け方まで一気に眠ってしまうのだった。雷蔵が寝付いてから程なくして琵琶姫が洞穴の中に入ってくると、雷蔵の寝顔を眺めながら彼の髭面の頬を優しく撫でた。「良いのか?」と問う狗神に、琵琶姫は力なく苦笑いを浮かべるだけだった。
煮炊きする煙の匂いで雷蔵は覚醒し始める。煮炊きの匂いとは別に良い香りがする。自分の腹の方側には唐風の衣装をまとった女人が雷蔵に背を預けるように横たわっていたのであった。思わず彼女の手を掴むと「起きたようじゃの」と狗神に水をさされたので気不味く感じて彼女の手を離そうとしたが、琵琶姫が彼の手を握り返して「うふふっ」と嬉しそうにするので狗神が呆れたようにあくびをしたのだった。
軽くいちゃついていると雷蔵の腹が派手に鳴ったので、琵琶姫は飛び起きて雷蔵の手を引っ張り始めた。こんな小柄な少女のどこに数えで齢30になる身の丈6尺の大男を引っ張る力があるのか?と不思議に思うような腕力で彼女は雷蔵の上体を自分の腰に乗せると洞穴から出ていった。
琵琶姫にしがみつくような人様には見せたくない格好で洞穴から出てきた雷蔵を見た戌の神は無言でそっと顔を背けながら鍋をかき混ぜ、子の神は二人を一瞥すると、この斜面にどうやって建てたのかわからない三石竈に何もなかったかのように薪を放り込みながら火加減を見るのだった。一方、辰の神は少し離れた所で捌き終わった山鳥の死骸を持ってこちらに寄ってくるところだった。
彼は竈前の微妙な空気に驚き怪しみながらも特に何か言ってくるでもなかったが、「もうしばし待つである、今朝は山鳥鍋である」と言いつつ、鍋の上で山鳥だったものの関節を小刀で切りながら次々に鍋の中に落とし込んでいく。それを戌の神が汁杓子でかき混ぜながら鍋の奥に混ぜ込んでいく。茸の香りがふんわりと漂う鍋からくる香りに、雷蔵の腹の虫が騒ぎ始めるのだった。
雷蔵たちがいるのは逢坂山の西斜面なので朝日は入ってこなかったが、山科の盆地の向こう側の山に当たった柔らかな朝日の反射が木立の隙間からきらめく。盆地の田園の合間にある家屋からは煮炊きする竈の煙が上がっており、まるで雲でもかかっているかのように煙が一定の高さで平らにたなびいていた。そこに朝日が反射して朱色に輝く。
しばらく琵琶姫と並び立って朝の景色を眺めていると狗神がすっと雷蔵の右脇に出てきて体をこすりつけてくるので、彼は右手で狗神の頭から背中にかけて撫でると、彼女は気持ち良さそうに耳をピクピクと動かした。そうしていると戌の神から声を掛けられる。「肉が煮えました」と。