八幡様の朝餉
雷蔵が境内の中庭に出ると南中門の中の東側に琵琶姫が見えた。彼女は東南東方向を一心に見入っているので、何を見ているのか気になった雷蔵は彼女に近づく。声をかければ聞こえるくらいの距離まで近づくと、彼女は雷蔵の方に振り向き「おお!雷蔵」と声をかけてきたので、先手を取られた雷蔵は「早起きでござるな、何を見てござるか?」と問う。すると琵琶姫は「其方もこちらへ来て見給え、真に美しきご来光じゃ」と言ってきた。
それではとばかりに雷蔵が琵琶姫の背後に近づいて見ると、彼女の頭越しに、だいぶ明るくなった空にくっきりと浮かぶ浅黒い山脈の稜線による陰影が印象深かく、その黒い稜線から冷え切って澄み切っている空に向かってほとばしる朝日は宝石の輝きのように美しく、見る者を圧倒する力強さを湛えている。木々の枝の隙間から見えるその雄大な景色に二人で見とれているうちに、稜線から日輪が浮き上がってきた。その時、衣擦れの音がするのでふと見下ろすと、琵琶姫は朝日に向かって手を合わせているのであった。それに触発された雷蔵も朝日に手を合わせ、今この時間に感謝するのだった。
神職の一人が朝餉の支度が整ったことを告げるために二人の許に訪れると「ご来光を拝しておられましたか」と声をかけてきたので、二人してそちらに振り向く。「朝餉の支度が整ってございます」と告げられたので、雷蔵は「かたじけない」と礼を述べると本殿の方角に遥拝してから神職の許に向かい、琵琶姫はそうしている雷蔵に付き添った。
朝餉の席には子の神と戌の神と辰の神、それと狗神(女人形態)もすでに席についていたが、上座の方向にある御座所にはすだれがかかっていて顔が見えなかったものの誰かが座っていた。上座に近い方の左手には狗神、その向かいの下座に子の神。狗神の右隣は戌の神。子の神の左隣には辰の神が配されており、琵琶姫は雷蔵とは対角の右側奥の一番上座に近いところを勧められた。
ところが、「いやじゃ!」と刺すような声で言った琵琶姫は雷蔵の右手の何もないところに座ってしまった。これを見た辰の神は遠慮なくゲラゲラと笑い始め、狗神もクフフフフと口元を隠しつつ笑い、戌の神は堅物らしく両手の中指で眉間を、両手の親指でそれぞれのこめかみをぐりぐりと揉み始めた。そして、一同の中で最も背の低い子の神は、祭神である八幡神がグックククククと口元を手で押さえて笑いながら肩を震わせているのが見えてしまった。そのあと、彼女が起こした騒動を眺めながら自身も苦笑いするのだった。
宮司が「龍神様、なにとぞ席順にご配慮いただきたく」と言上するも「わらわは琵琶姫じゃ!!それは嫌じゃ!」と言って顔をプイっとそむけてしまうので、宮司は困惑して祭神の顔色を窺った。が、祭神がそれに応える様子はなかった。いてもたってもいられなくなった戌の神は席を立つと琵琶姫に近づき、「膳が据えられていないところに座るのはさすがに失礼であると存じますぞ」というと、「おおそうか、お犬殿はお優しいのう!」と言った琵琶姫は、突如立ち上がると、驚き怪しむ戌の神の後ろを通って、先ほどまで戌の神が座していた膳の前にぺたんと座り込んでしまった。
我慢できなくなった八幡神はついに吹き出して大笑いし始めてしまい、子の神は両手で顔を覆い、狗神は行儀悪くもその場で転がりながらパンパンと床を手でたたき始め、不意を突かれた戌の神はあっけにとられてぽかんとしたまま口をあんぐりと開けていたのだった。宮司以下神職と巫女たちはその状況にどうすれば良いかわからず、表情も体も固まってしまったが、神職見習いや巫女見習いたちは顔を隠していたものの、肩を震わせながら必死で笑いを殺そうとしていた。まあ、笑っていたわけだが。
しばらくして、笑い過て息切れした祭神が、一息ついてから一言「良き哉良き哉」と言ったので神職たちは諦めた。それと同時に戌の神は『え?自分が一番高い席に着くの?』と言う困惑の表情で一同を見回すが、みな目を逸らすだけだった。いや、狗神はいまだに笑っており、笑いすぎて涙を流しながらそれでも笑っていた。そんな彼女の隣には、雷蔵に縋りつきながらご満悦になっている琵琶姫がいるのだ、無理もない。子の神に縋るような視線を向けるも、彼は無下に首を振る。困ったような表情の戌の神は縋るような思いで主催者である祭神に目を向ける。すると「フフッ、良き哉…フフフッ、朕の近くは嫌と申すか?」と言う祭神からの脅しともとれる絶望的な回答に覚悟を決めた戌の神は、その場で一礼すると最上位席に来て御座所と一同に一礼してから膳の前に座るのだった。
以下2点、誤字・脱字を自動修正しました。
**自動修正した箇所**
- 「これを見た辰の神は遠慮なくゲラゲラと笑い始め。狗神も」→「これを見た辰の神は遠慮なくゲラゲラと笑い始め、狗神も」(句点の誤り)
- 「戌の神『え?自分が一番高い席に着くの?』と言う」→「戌の神は『え?自分が一番高い席に着くの?』と言う」(助詞「は」の脱字)
- 「先ほどまで戌の神が座していた膳の前にぺたんと座り込んでしまった」→文末に句点を追加
全文にルビを振ります。
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