下戸の夕餉
神職は食事の前に汗を流すように強く求めてきた。それはそうだ、朝から歩き通しな上にこの登山である。人間である雷蔵ならいざ知らず、辰の神も汗まみれである。むさ苦しい男二人が汗臭い臭気を放っているのだから風呂を勧められもしよう。是非もなく雷蔵は風呂を頂くことにし、神職に案内される。ところが、いつの間にか人の姿に戻った子の神と戌の神は本殿に行くと言い出したので別の神職が奥に行くと宮司が出てきて対応することになった。彼は灯火を用意して二柱を本殿まで案内した。一方、辰の神は「其の方の背中を流そうぞ」と言って雷蔵と共に風呂に行くのであった。
この時代の風呂といえば蒸し風呂であり、汗を流したら垢すりで体をこすって垢を剥がし、湯水で流すものだったことだろう。背中を流すのは一人だと骨が折れるので、背中を洗ってくれる人がいるのはありがたいことだ。相手は人ではないが。お互いの背を流しながら親睦を深める。道すがらの出来事や町や村の風物などについて語ったりしながら心の垢も落とす。そうして風呂から上がった一人と一柱は、二人の女性とすれ違う。一人は琵琶姫だったが、もう一人の壮年の女性は何処かで会ったような気もするが良く思い出せない。「いつも共に居たと言うのに、薄情じゃのぅ」と言う声と話し方で狗神と気付いた雷蔵は気まずそうに「失礼致した」と詫びるが、彼女は追い打ちをかけるように「我のあられも無き姿まで見ておいて忘れ給うとは」と言うと大げさにオヨヨヨと嘘泣きをする。
「戯れが過ぎるぞ野良犬!」と琵琶姫が窘めた所で彼女の小芝居は終幕となった。それから、琵琶姫はいたずらっぽい上目遣いで「覗きたもうな」と言いながら雷蔵の胸を左手の人差し指で押す。そう念を押す様に言う琵琶姫に「勿論でござる」と答えた雷蔵だったが、狗神はクスクスと笑いながら琵琶姫に向かって「あれは朴念仁ぞ」と言いつつ雷蔵に流し目を送りながら琵琶姫と連れ立って風呂場に入って行く。風呂の戸を締める直前、琵琶姫は雷蔵の背なかに視線を送るが、雷蔵が彼女の視線に気づくことはなかった。
神前に供えるものしか無いと断って神職は食前に御神酒を勧めてくる。辰の神は「結構結構」と嬉しそうに景気良く飲み干すが、雷蔵は下戸であるため困ってしまった。それでも「あ、、、有難き幸せ」と緊張しながら御神酒を頂く。いつも酒席で雷蔵は馬鹿にされるので、酒には苦手意識しかなかったのだった。「武士でありながら酒も飲めぬとは!」と窘められるのが精神的に堪えるのだ。雷蔵は甘酒でも顔が真っ赤になるくらいであるのに、まして、清酒はとてもきつくて無理だった。だが、せっかく出してもらったものに口を付けないのも失礼になるし、辰の神も見ているので飲まざるを得ない。目をぎゅと瞑った雷蔵は、噎せながらなんとか御神酒を飲み切ると、それを見計らったかのように膳が運ばれてきた。
酒でフラフラになってきたために、雷蔵は箸がおぼつかなくなってきてしまった。もう食事どころではなくなり始めたところ、琵琶姫たちが風呂を済ませて食事の間に入ってきた。琵琶姫はなんだかちょっと拗ねている感じで、狗神がニヤニヤしながら琵琶姫の様子を楽しんでいるようだった。ところが、二柱は雷蔵が酔っているのを見て慌てて介助に入る。
琵琶姫は『此処は私の指定席』とばかりに雷蔵の左側に座るが、その右側には狗神がドスンと腰を下ろす。そして、「のう?朴念仁であろう?」と琵琶姫に語りかけながらふらつく雷蔵の体を支える。琵琶姫はそんな狗神を尻目に雷蔵の右手から箸をひったくり、自分の左手に持つと甲斐甲斐しく雷蔵に給餌し始めた。暫くして琵琶姫は楽しくなってきたらしく、ふらつく雷蔵に「ほうれ、お口を開け給え、よちよち、良き哉良き哉」などと赤子に離乳食でも食べさせる母親のように振る舞い始めるので、酒を飲みかけていた辰の神は吹きそうになって慌てて口をふさいでしまったために噎せ込み、狗神はそれを見てケラケラと笑うのだった。
以下3点の誤字を自動修正しました。
**自動修正した箇所**
- 「汗臭い臭気を放っていきるのだから」→「汗臭い臭気を放っているのだから」(誤字)
- 「神前に備えるものしか無い」→「神前に供えるものしか無い」(誤字:備える→供える。神への捧げ物の意)
- 「琵琶姫いたずらっぽい上目遣いで」→「琵琶姫はいたずらっぽい上目遣いで」(助詞「は」の脱字)
全文にルビを振ります。
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