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雷蔵伝・魔境奇譚  作者: まろやかポン酢風味
比叡山麓縦断
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天神川越え

雷蔵(らいぞう)は自分(じぶん)の左腕(ひだりうで)に縋(すが)る朝日(あさひ)に照(て)らされた少女(しょうじょ)の顔(かお)に見惚(みと)れていると、右下(みぎした)の方(ほう)から「朝餉(あさげ)は要(い)らぬのか?」と声(こえ)がかかる。狗神(いぬがみ)の体毛(たいもう)はすっかり冷(ひ)え切(き)っていたが、体(からだ)からは熱(ねつ)が発(はっ)せられており、彼女(かのじょ)の吐(は)く息(いき)からは濃(こ)い霧(きり)ができる。雷蔵(らいぞう)は自分(じぶん)たちの周(まわ)りに侍(はべ)る山犬(やまいぬ)と野犬(やけん)たちから血(ち)の匂(にお)いを感(かん)じ取(と)った。彼(かれ)らはすでに食事(しょくじ)を済(す)ませていたようだ。「いただきとうござる」と答(こた)えた雷蔵(らいぞう)は琵琶姫(びわひめ)を促(うなが)して北西(北西)の斜面(しゃめん)から降(お)りて行(い)った。


昨晩(さくばん)の残(のこ)りで少(すこ)し味(あじ)が濃(こ)くなっている茸汁(きのこじる)に琵琶姫(びわひめ)がみそを加(くわ)えたので、非常(ひじょう)に濃厚(のうこう)な味付(あじつ)けのキノコと兎肉(うさぎにく)の味噌汁(みそしる)が出来上(できあ)がった(豚汁(とんじる)ならぬ兎汁(うさぎじる)である)。しかも、飯(めし)はなぜか琵琶姫(びわひめ)の懐(ふところ)から取(と)り出(だ)された笹(ささ)の葉(は)に包(つつ)まれた握(にぎ)り飯(めし)だった。「昨夜(ゆうべ)食(た)べさせるはずだったのじゃ」と言(い)う彼女(かのじょ)は、お代(か)わりもあるという。雷蔵(らいぞう)は現世(うつしよ)の理(ことわり)について考(かんが)えることをやめた。


食事(しょくじ)を終(お)えると戌(いぬ)の神(かみ)が素早(すばや)く片付(かたづ)ける。実(じつ)に仕事(しごと)ができる神(かみ)である。『はて?神(かみ)とは人(ひと)に仕(つか)えられなければ何(なに)もできぬものでは?』と思(おも)った雷蔵(らいぞう)だったが、よく考(かんが)えれば、人間(にんげん)から礼拝(れいはい)と供物(くもつ)を受(う)け取(と)ることで人(ひと)に御利益(ごりやく)を与(あた)えるのが神(かみ)なのだから、神(かみ)とて働(はたら)くに決(き)まっていると思(おも)い直(なお)す。雷蔵(らいぞう)はまだ気(き)づいていなかったが、古(ふる)き神々(かみがみ)の使(つか)いとして稲荷(いなり)の命婦狐(みょうぶぎつね)を討伐(とうばつ)することこそが、雷蔵(らいぞう)が彼(かれ)らに対(たい)して支払(しはら)っている礼拝(れいはい)と供物(くもつ)なのだ。だからこそ、雷蔵(らいぞう)の許(もと)にまつろう神々(かみがみ)は彼(かれ)に対(たい)して便宜(べんぎ)を図(はか)る。琵琶姫(びわひめ)以外(いがい)は。


出発(しゅっぱつ)の支度(したく)を終(お)えた一行(いっこう)は辰(たつ)の神(かみ)と戌(いぬ)の神(かみ)を先導役(せんどうやく)に真野(まの)の丘陵(きゅうりょう)を下(くだ)り、天神川(てんじんがわ)の流域(りゅういき)に入(はい)る。冬枯(ふゆが)れの田(た)の間(あいだ)にある街道(かいどう)を進(すす)んで行(い)くと天神川(てんじんがわ)に差(さ)し掛(かか)る。


※ 現在(げんざい)の天神川(てんじんがわ)が深(ふか)いのは、おそらく、近代(きんだい)に浚渫(しゅんせつ)で河川(かせん)の掘(ほ)り下(さ)げを行(おこな)ったり護岸工事(ごがんこうじ)が行(おこな)われたからであろう。この当時(とうじ)は、おそらく、水害(すいがい)防備林(ぼうびりん)だけで川(かわ)の流(なが)れを固定(こてい)していたと考(かんが)えられる。そのため、本来(ほんらい)の天神川(てんじんがわ)はもっと浅(あさ)かっただろう。さらに川(かわ)の渡(わた)し場(ば)は比較的(ひかくてき)流(なが)れが緩(ゆる)く川底(かわぞこ)が浅(あさ)いところが選(えら)ばれるが、冬季(とうき)の乾燥(かんそう)と水量(すいりょう)低下(ていか)に伴(ともな)って、この時期(じき)の天神川(てんじんがわ)は浅(あさ)かったと思(おも)われる。


渡(わた)し場(ば)と思(おぼ)しき川面(かわも)には少(すこ)し厚(あつ)めの氷(こおり)が張(は)っており、その下(した)を水(みず)が流(なが)れている様子(ようす)が分(わ)かる。氷(こおり)の下(した)で泡(あわ)が流(なが)れていく様子(ようす)が透(す)けて見(み)えるからだ。無数(むすう)の川底(かわぞこ)の石(いし)を飛(と)び石(いし)のように使(つか)って川(かわ)を渡(わた)る雷蔵(らいぞう)一行(いっこう)だったが、4つ足(あし)の者(もの)たちは何(なん)の衒(てら)いもなく川面(かわも)の氷(こおり)を踏(ふ)みつけてパシャパシャと水(みず)しぶきを上(あ)げながら川(かわ)を渡(わた)っていき、あるものはそのままそこで川(かわ)の水(みず)を飲(の)み始(はじ)める始末(しまつ)である。


川(かわ)を渡(わた)ると、鬱蒼(うっそう)と木(き)が生(お)い茂(しげ)る仰木(おうぎ)の台地(だいち)への緩(ゆる)い上(のぼ)り坂(ざか)が始(はじ)まるのだった。日(ひ)が高(たか)くなり、冬枯(ふゆが)れの木立(こだち)の枝(えだ)の隙間(すきま)から木漏(こも)れ日(び)が差(さ)し込(こ)んでくる。木(き)の陰(かげ)で暗(くら)くなっているところと、木漏(こも)れ日(び)が差(さ)し込(こ)んでいるところの明(あか)るさの差(さ)が激(はげ)しいので、眩(まぶ)しさ軽減(けいげん)させるために雷蔵(らいぞう)は左手(ひだりて)を顔(かお)の左側面(ひだりそくめん)にあてて、木漏(こも)れ日(び)が目(め)に入(はい)らないようにしながら台地(だいち)を登(のぼ)るのだった。

今回、明確な誤字・表記ゆれは見当たりませんでした。全文にルビを振ります。

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