第一話 籠神こよみ
いつもの通り、その手に、落雁をのせる。
「お礼だ」とそれは言った。
子供のようで老いたような。
男とも女ともつかない声。
「消してやろうか?」
何を――?
言葉は喉まで出掛かっている。
けれど、それは声にはならなかった。
「うん」
私は力強くそう答えた。
はあ、はあ…
呼吸の音で現実へと引き戻される。
この夢は、いつも同じ場所で途切れる。
母が死んでから幾度となく見るこの夢。
あの声はいつも私の腹の奥をざわつかせる。
途切れたままの記憶。いや、そこだけがすっぽりと“無い”。あの日の記憶に触れようとすると、腹の奥が決まって蠢いた。
夢の残穢がまだ体の奥に張り付いているようだ。汗で冷えて体が重い。
少し早いが、このまま起きるか。
朝が少しずつ入り込んでくる時間。
あの夢を見た日は、決まってろくな事が起きない。
長月は私の前に小さな籠を置いた。
ことりと、それは小さな音を立てる。
目の前に置かれたのは、籠目と呼ばれる小さな籠。
「あの古神へ送るとはな。あの老ぼれの思惑などどうでもいいが」
長月は眉を顰める。
「古神へ行こうが、お前の役目は終わらん。十年もの間、抱えてやったのだ。それを忘れるなよ」
籠目を持ち上げながら長月はそう言うと、再び私の前へそれをとんと置いた。
「長い間お世話になりました」
私は深々と頭を下げる。
逃げるつもりはない。
けれど、古神に行けば何か糸口があるかも知れない。あの日のこと、そしてこの腹のこと。
「化け物め」
長月の隣に座っていた卯月は蔑むような目をこちらに向け、吐き捨てるように言う。
私は頭を下げたままやり過ごす。
胸の奥はいつも通りひどく静かだった。
「しくじるな。それだけだ」
そう言い残し、二人はこちらも見ずに部屋から出て行った。
最後まで変わらず、だな。
…やるか。
籠目を足下に置き、息を整える。
腹の奥が熱を帯び、内側で何かが大きく畝った。
籠目はまるで息を潜めたように静止している。
指先がわずかに強張る。
カタ
籠目から微かな音が漏れた。
来る。
次の瞬間、籠の隙間から黒い影が、形を定めないままゆらりと這い出してきた。
腹の奥がどくんとひとつ脈打った。
それに呼応するように、部屋の空気がわずかに歪んだ。
黒い影が音もなく近づいてくる。
私は、いつものように深く息を吐く。
腹の奥が静かに応えた。
数日後――
小夏と一緒に籠神の家を後にした。
籠神には二度と戻れない。いや、戻らない。
行き先は古神の屋敷。
怖くないわけではない。
けれどもう、他に道がない。
「大旦那様の遺言とはいえ、なんでこよみお嬢様があの家で下働きしなきゃいけないんですか?納得できません」
小夏は小さい身体を震わせ怒っている。
声は強いが今にも泣き出しそうに聞こえた。
「籠神の嗣子は卯月に決定したからな。いずれにしても、あの家に私の居場所はなかったよ」
「でも…やっぱりおかしいです」
小夏は食い下がるように言った。
「急ごう、日が暮れてしまう」
長引きそうな会話を切り上げ、足早に歩き始めた。もうすでに足がつりそうなほどだが、日が暮れると面倒だ。
歩きながら腹を軽くさする。
指先から伝わる感覚は、いつもより落ち着かない。
ずっと残る疑念。
母は、私が殺したのかも知れない。
考えれば考えるほど、その疑いは腹の奥へと行き着いた。
目線を下げ自分の腹を見つめる。
古神の家か。
よろづ様を剥がし封印する一族。
見つかれば、剥がされる。
いや、剥がされるくらいでは済まないだろう。
細く険しい道を黙々と歩く。
石とぬかるみが足にまとわりついた。
しかし、こうやって屋敷の外に出るのは一体何年振りだろう。思い出せないまま、黙々と歩き続けた。
鬱蒼とした木々が途切れ、その隙間から目指すべき場所が少しずつ姿を現し始めた。
「小夏。付き添いはここまででいい。これ以上近づくとお前に障りがあるかも知れない。さあ、お前はここでお帰り」
「もう少し一緒に…」
私の袖をぎゅっと掴み、小夏は見上げるように私を見た。
「いや、ここまでで充分だ。お前ではこの先の神域には入れない。今まで本当に世話になった。してもらうばかりで何もしてやれずすまなかった」
小夏は何か言いかけたが、それは言葉にならなかった。
唇がわなわなと震え、溜まっていた雫がこぼれ落ちる。
「ほら、そうやってすぐに泣く」
私は笑いながら、懐から手巾を取り出し、小夏の涙を拭いてやる。
袂を探り、小夏の前で手を広げる。
「さあ、これを持ってお帰り。今日で最後だしな。せっかくなんで、あるだけ盗んでやった」
小夏の手に落雁の小さな包みを握らせた。小夏はぐずぐずと鼻を啜りながら、ふふっと小さく笑った。
「さあ、もう行きなさい」
「はい」
小夏は頷き、何度か振り返りながら、来た道を戻っていく。
小さくなる後ろ姿を見送りながら、もう会えないかもしれないと思った。
明るく屈託ない笑顔が、胸の奥に滲んだ。
さて、行くか
遠くからは、しゃんしゃんと鈴の音が静かに響いていた。




