第一話 籠神こよみ
いつもの通り、その手に、落雁をのせる。
「お礼だ」とそれは言った。
子供のようで老いたような。
男とも女ともつかない声。
「消してやろうか?」
何を?――
言葉は喉まで出掛かっている。
けれど、それは声にならなかった。
「うん」
私は力強くそう答えていた。
はあ、はあ…
呼吸の音で現実へと引き戻される。
目が覚めると息はまだ少し乱れていた。
あの夢だ。
いつも同じ場所で途切れる。
夢の残穢が腹の奥にまだ張り付いているようだった。
体が汗で冷え、不快感がまだ残っていた。
籠神の家の匂いは、いつもどこか冷えている。
外に目を向ければ奥の方が白んでいる。
朝が少しずつ入りこんでくる時間。
少し早いが、このまま起きるか。
今日からだっていうのに!
まったく、最悪だ。
夢を見た日は決まってろくな事が起きない。
◇◇◇
「これで最後だ」
ことりと、それは小さな音を立てた。
目の前に置かれたのは、籠目と呼ばれる小さな籠。
「神剥がしの古神へ厄介払いとはな。あの老いぼれも、最後は役に立ってくれたな」
「十年もの間、置いてやったのだ。恩は忘れるなよ」
籠目を持ち上げて満足そうに笑うと、再び私の前へそれを置いた。
「お世話になりました」
深々と頭を下げる。
「化け物め」
隣に座っていた卯月が吐き捨てるように言った。
私は頭を下げたままやり過ごす。
胸の奥は、ひどく静かだった。
「くれぐれもよろしく頼む」
そう言い残し、二人はこちも見ずに部屋から出て行った。
(最後まで、嫌な奴らだ)
これで最後。
(……やるか)
籠目を足下に置き、息を整える。
腹が熱を帯び、内側で何かが大きく畝った。
籠目はまるで息を潜めたように静止している。
指先がわずかに強張る。
カタ
籠目から微かな音が漏れた。
(来る)
次の瞬間、籠の隙間から黒い影が、形を定めないままゆらりと這い出してきた。
腹の奥がひとつ脈打った。
それに呼応するように、部屋の空気がわずかに歪んだ。
◇◇◇
数日後、小夏と一緒に籠神の家を後にした。
行き先は古神。
籠神と同じく神を扱う一族。
あの一族も相当きな臭い。
嫌な予感が胸を掠めた。
「大旦那様の遺言とはいえ、なんでこよみお嬢様があの家で下働きしなきゃいけないんですか?納得できません」
小夏は小さい身体を震わせ怒っている。
声は強いが今にも泣き出しそうに聞こえた。
「籠神の嗣子は卯月に決定したからな。いずれにしても、あの家に居場所はなかったよ」
「でも…やっぱりおかしいです」
小夏は食い下がるように言った。
「急ごう、日が暮れてしまう」
長引きそうな会話を切り上げ、足早に歩き始めた。もうすでに足がつりそうなほどだが、日が暮れると面倒だ。
歩きながら腹を軽くさする。
指先から伝わる感覚は、いつもより落ち着かない。
腹の内側が一つ波打つ。
呼応するような、返事をするような動きだった。
行きたくない。
けれど…じじ様は全てを承知で、あの遺言を残した。
籠神にだって居場所はなかったしな。
古神に行けばあの日の糸口があるはずだ。
あの日のこと、腹のこと。
母が死んだ理由はわからない。
けれど、この腹と繋がっている気がする。
思い出そうとすると、霧がかったように遠くへ沈んでしまう。
忘れているんじゃない。
思い出すことを腹が拒んでるんだ。
あの日を境に全てが壊れた。
腹はあの日から蠢き始めた。
目線を下げて自分の腹を見つめた。
道と言うにはあまりにも細く険しい。
石とぬかるみが足にまとわりつく。
しかし、こうやって屋敷の外に出るのは一体何年振りだろう。
思いだそうとしても、はっきりとは浮かばなかった。
気持ちとは裏腹に、冷えた空気は心地よく頬をかすめていく。
黙々と歩き続ける。
鬱蒼とした木々が途切れ、その隙間から目指すべき場所が、少しずつ姿を現し始めた。
「小夏。付き添いはここまででいい。
これ以上近づくとお前に障りがあるかも知れない。さあ、お前はここでお帰り」
「もう少し一緒に…」
私の袖をぎゅっと掴み、こちらを見上げた小夏の目は赤く、目には涙が溜まっていた。
瞬きをすれば、そのままこぼれ落ちそうだ。
「いや、ここまでで充分だ。お前ではこの先の神域に入れない。今まで本当に世話になった。してもらうばかりで何もしてやれずすまなかった」
小夏は何か言いかけたが、それは言葉にならなかった。唇がわなわなと震え、溜まっていた雫がこぼれ落ちた。
「ほら、そうやってすぐに泣く」
私は少し笑う。
懐から手巾を取り出し、小夏の涙を拭いてやった。
袂を探り、小夏の目の前に出した。
「さあ、これを持ってお帰り。今日で最後だしな。せっかくなんで、あるだけ盗んでやった」
小夏の手に落雁の小さな包みを握らせた。小夏はぐずぐずと鼻を啜りながら、ふふっと小さく笑った。
「さあ、もう行きなさい」
「はい」
小夏は頷き、何度か振り返りながら、来た道を戻っていく。
小さくなる後ろ姿を、ほんの少し見送った。
もう会えないかもしれないな。
籠神にいい思い出はほとんどない。
小夏がいてくれて救われた。
あの子だけが、私を人として見てくれた。
明るく屈託ない笑顔が、胸の奥に滲んだ。
(さてと。行くか)
遠く、古神の屋敷の方から鈴の音が聞こえる。




