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第十一話 奥殿の猫

 まただ…


 小さな手だ。

 その手は目の前でひらひらと動いている。


 いつもの通り、その手に、落雁をのせる。


「日月は仕方なかったさ」

「だから、消してやるよ」


 その声はやけに悲し気に聞こえた。


 急な息苦しさに襲われ、思わず目を開けるとそこには知ってる天井があっただけだった。


 寝てたのか。


 耳元にはまだあの声が残っていた。

 いつもとは違う夢。


「だから、消してやるよ」か。


 まるで自分が願ったようで、思わず顔をしかめた。


(馬鹿らしいよな。全く…)

 あんな夢は忘れるに限る。


 あの夢を見た日はろくな事が起きない、そう思いながら頭を振り、無理やり起き上がる。


(やれやれだ)

 首を軽く回し、朝餉の準備に向かう。


(何事だ?!)

 腕にある違和感に思わず立ち止まり袖を捲った。


 見れば、あの丸かった痣は黒い墨が滲んだような線となり、腕に広がっている。


 文字だ。読めはしないが、そうとしか思えない。


(呪符みたいだ…)


 厨二的でかっこいい、が。

 いや、待て。

 今はそれどころじゃないだろ。


 奥殿のことが一瞬よぎるが、すぐに掻き消す。

 余計なことは考えないでおこう。


 慌てて袖を下ろし、周囲に視線を走らせた。


 誰も私のことなど気にかけていない。

 使用人達は皆、忙しなく動き回り、自分の仕事をこなしていた。


(見られてないよな)

 袖の上から痣を強く抑えた。


 落ち着かないまま、朝餉の準備に取り掛かる。

 野菜を切り、湯を沸かす。

 手を動かしていれば、余計なことは忘れられる。


 味噌汁の香りが鼻を掠める。

 籠神だの古神だのって大層な名前はあるが、結局、朝は味噌汁だ。


 しかし、ふとした拍子に袖が揺れ、その隙間にちらりと黒い線がのぞく。


 むしろ…

 さっきより…格好よくなってないか?


「こよみ。朝餉を坊ちゃんのお部屋に持って行っておくれ」

 そう言い、夕立から膳を差し出される。


 いつもだけど、今日は本当に行きたくない。


「私、今日は急ぎの用事が…」

 膳を夕立に押し戻した。

 つい力が入り、皿ががちゃんと音を立てる。


(この痣…)

 奥殿に入った時なら、白雨は気付くだろう。

 そして、必ず家記帖まで辿り着く。

 それだけは避けたい。


 あれだけは駄目だ。


 思わず痣の部分を思い切り掴んだ。

 爪が食い込む。


 ――ばれるわけにはいかないんだ。


 試しに膳をもう一度夕立へと押し返してみた。


「お前に急ぎの用事なんてないだろ!馬鹿言ってないで、さっさと行ってくるんだよ」


 無駄に怒られ、そして断れるわけもなかった。

 とぼとぼと白雨の部屋へと向かう。


 部屋の前で立ち止まり、深呼吸をしようと息を深く吸った。


「また、お前か」

 部屋の中からひんやりとした白雨の声が響いた。


 なんでだ?

 しかも、誰かもわかるのか?


 襖をおずおずと開ける。


「今日はお前に朝餉の準備をしてもらうか」


 白雨はそう言って、卓の前に座った。


(何で今日に限って…)


 渋々、端に座り準備を始める。


(気を付けなくちゃ)


 白雨は油断も隙もない。

 一を知らなくても百ぐらい気づきそうだ。


 腕に十分気をつけながら、ご飯をよそい白雨に差し出す。


 白雨はその様子をじっと眺めている。


「最近、何かなかったか?」

「いえ。何もありませんが」

 つい早口になる。


「なら、いい」

 そう言いつつも視線は外れない。


 耐えきれない。

 不本意だけど、沈黙を破らざるを得なかった。


「早く召し上がらないと冷めてしまいますので、私はこれで失礼します」

 お辞儀をし、そそくさと襖に手を掛けた。


「先日、奥殿に猫が入ってな」

 白雨は唐突に話し始めた。


(これだから嫌だったんだ)


 襖から手を離し、ゆっくり振り返る。

 動揺するな。


「わざわざ奥殿に入るなんて、特殊な猫ですね」

「ただの考えなしだろ」

「入るなと言えば必ず入る。隠すのが下手なくせにな」


「入る理由があったんじゃないですか」

「……もちろん、猫の話し、ですが」


「好奇心は猫をも殺すって言うだろ」

「まあ、生きてはいたな」

 白雨は澄ました顔をする。


(随分とまあ、物騒な猫の話だ)


「あの中には、特殊な結界が張ってる」


 やっぱりな。

 あの結界、あれは白雨そのものだ。

 奥殿での結界が感覚をなぞった。


「触れれば体に痕がつく」

 白雨はゆっくりと湯呑みに手を伸ばした。


(痕…?!)

 もしかして…この痣のこと?


「毛だらけなのにですか?」

 つい、反発が口を突く。


「見えるなら苦労しないだろ」

 そう言って口の端で笑う。


「ちょっとした世間話だ」

「もう、行っていい」


 そう言うと、こちらも見ずに、とても美しい姿勢で朝餉を食べ始めた。


 白雨の部屋を出て、その場にしゃがみ込んだ。


 ばれてる?

 本当に世間話ってこともあり…えない。

 ないない、それはない。

 あれは、警告だ。


 廊下から見える奥殿をぼんやりと眺めた。


 後悔はしてない。

 どうしたって必要だったんだ。


 白雨はなぜ、追求しない?

 腕を捲れば終わりだ。

 それなのになんで見逃すんだ?


 袖を捲くり腕を見ると、痕はまだ黒々とそこに残っていた。


 やっぱり。

 あの夢を見た日は本当にろくな事がないんだ。


 思い切り袖を下ろす。


 十年探したんだ。

 今さら諦められるか。


 そう思いながら、ただ奥殿を見つめた。


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