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第十話 失われた八月

 部屋に戻る。

 やっと夕立から解放された。


(ふぅ)

 思い切り息を吐き出す。


 ひとまずはやり過ごせた。

 あの場で見つかってたら終わってたな。


 あれは、白雨だったんだろうか。

 奥殿での腹の反応を思い返す。


 いや。誰でも構わない。

 今のところ、騒ぎにはなってないし。

 わからなければ無いのと同じだ。


 目的の物は手に入れたんだ。

 白雨の顔がちらつく。

 そう、泳がせるつもりなら、こっちは泳ぎきってやる。


 決意を新たに、懐から本を出した。

 殺風景な部屋。

 隠す場所なんて無さそうだ。


(机の裏しかないか)

 ありがちだけど。

 ひとまずはそこへ慎重に貼り付けた。


 緊張が一気に解けたからか、いつの間にか意識が途切れ、気付けば朝になっていた。


 目を覚まし、そのまま湯浴みへと向かった。

 湯に浸かると温もりで体の強張りが解けていく。


(風呂は命の洗濯だな)

 風呂に入って損をしたことは一度もない。


 ふと、腕に目が止まる。

 赤い痕が揺らめいていた。湯の中でゆらゆらと不自然に。それは脈打っているようにも見え、思わず腕を上げる。


「何だ?」

 ぎょっとして思わず声が漏れる。


 白い肌に丸い痕がぼんやりと浮かんでいた。

 軽く押してみるが、痛みはない。


(なんだ、痣か…)

 昨日はなかったはず。

 きっと奥殿に入った時にぶつけたんだろう。


 今日は天気がいいからまず洗濯だ。

 空気はまだ冷たく、湯上がりの熱が肌からすっと抜けていった。


 勢いよく桶に水を注ぎ、洗濯を始める。


 あれ…


 作務衣の隙間から、先ほどの痕がのぞいた。


(大きくなってる?)

 皮膚の下で何かが動いた気がして思わず息が詰まった。


(何か妙だ)

 勝手に広がる痣なんてあるんだっけ?

 いや、ないだろ。


 その不穏にも見える痣をひと撫ですると、指先が少しだけ冷えた気がした。


 夕餉も終わり、部屋へと戻る。

 襖を閉め、深く息を吐き出した。


(見よう)

 見るために持ってきたんだ。

 ここに十年前が忍んでる。

 そう思うだけで、どくどくと鼓動が鳴り響く。


 誰もいないのに部屋をぐるりと見回し、机の裏に隠していた本を慎重に取り出す。


『八年古神家記帖』


 古びた表紙の表書きには、美しい文字でそう記されていた。

 一族は、何代にも渡り家記帖を記す。これは、国からの命だ。


 何度も手に取られてきたのだろう、角は丸みを帯びている。本の表紙をそっと撫で、気持ちを落ち着かせる。


 見たら後戻りはできない。

 知ったら、知らない事にはできない。

 ここにきっと記されている。

 母が死んだ日のことが。


 でも、見ない選択は出来ない。

 やっと、手が届く。


 深く息を吸うと、古びた紙の匂いが鼻を掠め、胸の奥がわずかに軋み、手が震えた。


 紙のざらつきを指に感じながら、ゆっくりと一項目をめくる。


 一月から順に綴られている。


 神事の席次や出席者。

 国主からの任。

 淡々とした記録が続く。


 そして、その中に紛れる、古神が剥がしたよろず様の記録。


(手当たり次第だな)

 そのうち世界が壊れそうだ。


 逸る気持ちを無理やり抑え、一頁ずつ、引き延ばすように目を通していく。


 つと、指が止まる。


 八月だった。

 母が死んだのは。

 あの日のことはほとんど覚えていない。


 大きな虹、蝉の声。

 たったそれだけ。


 無意味な記憶。

 肝心なことは一つも覚えていないのに。


 いつしか八月の項に辿り着く。


 呼吸を整える。

 しかし、指が震え紙がうまく捲れない。

 怖い。

 知りたいのに怖い。

 けれど、十年前の自分に触れることが、どうしても怖い。


 ただ見るだけ。

 たったそれだけ。

 すうっと息を吸い込んだ。


 八月三日

 古神黒雨

 籠神日月

 国主からの命にて●●村へと出立。


 母の名前…

 胸がざらつく。

 指をそっと降ろし名前をなぞる。

 村の名前は真っ黒に塗り潰されている。

 試しに光に翳して見た。が、まるで読めない。


 八月五日

 古神黒雨

 籠神日月


 任を遂行

 村人は全員死亡と推定


 ぎょっとして指が止まる。

 全員死亡?

 全員て何人だ。

 母は一体、何をしてたんだ。

 嫌な疑念が胸をよぎった。

 まさか…

 いやそんなはずはない。

 すぐに振り払う。

 そんなことをするような人じゃない。

 母の笑顔が頭に浮かぶ。


 目が離せず、指が勝手に次の頁を捲る。


 八月七日

 古神黒雨

 籠神日月

 加神影司


 国主の館にて、神剥がしを実施

 定着失敗

 特級として籠目に保管する


 八月八日

 籠神日月


 籠神本家の屋敷内にて惨殺

 原因不明

 生存者 籠神こよみ 


 逸らしたい。

 けれど、その頁から目を離せないでいた。

 視界が霞む。


 読んでいても文字が通り過ぎていく。

 指先が冷えて、紙の感覚がまるでなくなった。


 母はいなくなり、私は残った。

 あの日、私はそこで何をしていた?


 あの日の記憶は欠けたまま。

 けれど、この腹の奥は知っているんだろう。

 真実を。


 惨殺の文字だけが目に張り付く。

 これだけは紛れもない事実だ。

 この事実の中に、自分がいない保証はない。


 ふっと息が漏れた。

 自分が呼吸を止めていたことに気付く。


「……」


 これだけか。

 十年探して手に入れたのは、たった数行。


 記されている部分を何度もなぞる。

 意味が変わるわけでもないのに。


 そのまま目を下に向ける。


 手辺――だけ?

 そこで筆が止まっていた。

 墨が滲み空白になっている。


 気になるが、今はそれどころじゃない。


(もう、無理だ)

 これ以上は読めない。

 そのまま本を閉じ、仰向けに転がった。


(やはり、原因不明か)


 天井を眺める。

 思考が止められない。


 母が死んだ日。虹を見ていた日。

 ぽっかりと穴が空いている。


 私なのか。

 この腹なのか。

 それとも――


 答えは出ない。

 出なくたって消えることはない。


 都合のいい答えを期待してた。

 自分じゃない誰かだと。

 それでも、何かに縋らなきゃ崩れそうだ。

 希望なんて薄っぺらいものでも、無いよりはずっといい。


 落ち着かない腹をひとつ撫でた。


 知らないことを知らないままじゃ。

 もう知ることはできない。


 黒塗りの村。

 そこがわかれば何かわかるんだろうか。


 本を机の裏に戻し、そのまま目を閉じる。

 ふうと息を吐き出した。


 村の名前。

 古神の当主。

 そして、手辺だけの文字。

 頭の中で混ざり合いながら、そのまま眠りへと落ちていった。


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