26.古い鍵穴と、祈りの灯
町へ戻る道は、行きより重かった。
手の中の小さな金具――水路の鍵が、冷たいまま掌に収まっている。
軽いはずなのに、歩調が一段落ちる。
川辺の柵は保たれていた。
見回りの男たちが交代し、縄の境界が増えている。踏んではいけない場所が“見える”ようになっただけで、町の空気は少し落ち着く。
だが、落ち着ききってはいない。
広場の片隅で、毛布を掛けられた人が二人、長椅子に横たわっていた。
目を閉じたまま、唇だけが小さく動く。言葉にならない寝言が、喉の奥で絡まっている。
バルツが寄ってきて、鍵を見た。
「……それが、向こうの口の」
ガルドが頷いた。
「塔は抑えた。だが、手は逃げた。次がある」
バルツは一瞬だけ目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「町の中でも、まだ妙な歩き方をするやつがいる。昨夜ほどじゃないが……」
言いながら、自分の腕を掻く。
掻いた跡に、薄い黒ずみが残っていた。泥ではない。糸が擦れたような色だ。
エリシアがそれを見て、眉を寄せる。
「痕が残ってる。入口を塞いでも、すぐ消える種類じゃない」
レオンは息を吸った。
足元が揺れる感覚はないのに、町の地面の下で何かがまだ動いている気がする。
「……教会は?」
バルツが指で示したのは、川から少し離れた石造りの小堂だった。
鐘楼は低く、壁の装飾も簡素だが、扉の前だけは人が集まっている。
「今朝、神殿から巡礼の一団が来た。眠ってるやつらを起こそうとしてる」
ガルドが鍵を握り直した。
「今は、そこが一番安全だ。町の連中は、まず寝かせろ」
寝かせろ――不思議な言い方だった。
だが、眠りが奪われているなら、眠りを取り戻すことが守りになる。
小堂の中は、外より少し暖かかった。
蝋燭の匂い。乾いた薬草の匂い。
そして、低い祈り声。
中央の床に横たわる子どもの額へ、誰かが布を当てている。
その手が離れた瞬間、子どもは眉をひそめ、口元を震わせた。
「……だい、じょうぶ……」
掠れた声に、周囲の母親が息を飲む。
泣き出す前に、祈り声がさらに低くなる。泣かせないための音だった。
布を当てていたのは、白い外套の女性だった。
年は、レオンたちより少し上に見える。
髪は結い、目は穏やかだが、視線の奥が鋭い。疲れているはずなのに、手元がぶれない。
「落ち着いて。……怖い夢は、薄くできる」
その声は、人を安心させるための言葉を知っていた。
けれど、甘くはない。現実を見たまま、手を動かしている。
女性がこちらに気づき、会釈をした。
「旅の方ですか。今は町の人を優先しています。急ぎの方なら、扉の外で」
礼儀正しい。だが、譲らない芯がある。
バルツが慌てて首を振る。
「違う。こいつらが……川向こうの口を見つけた。俺は話を通しに――」
「口」
女性が、その言葉だけを拾った。
エリシアが一歩前へ出る。
「地下の異常に関係する入口です。町の人が眠り歩くのも、そこから繋がっている可能性がある」
女性は、子どもの額に布を当てたまま、頷いた。
「なら、閉じるだけでは足りませんね。……“呼び水”が残ります」
呼び水。
エリシアが微かに目を細める。言い回しが、学院のものではない。
女性は布を外し、立ち上がった。
「私はリリア。大神殿の記録係です。巡礼隊に混じって、ここへ来ました」
名乗り方が淡々としていた。自己紹介で場を取らない。
必要なことだけを置き、すぐ次へ進める人の声だった。
ガルドが鍵を見せた。
「これを拾った。水路の鍵だそうだ」
リリアは近づき、手袋越しに鍵を受け取った。
指先で刻印をなぞり、光に透かす。
「……古い型。王都が今の形になる前の、取水路の制御鍵です」
その言い方は断定に近い。迷いがない。
リリアは鍵を返しながら続けた。
「町の人が眠り歩くのは、夢を引く糸が残っているから。入口を塞いでも、糸の端が地上に触れていると、また引かれます」
レオンは喉が乾くのを感じた。
「糸の端……」
リリアは小堂の奥、眠る人々に目を向けた。
「ここに運ばれてくる人は、皆、同じ夢を見ています。水の音。暗い通路。足が勝手に進む感覚」
そして、少しだけ声を落とした。
「目が覚めても、体のどこかがまだ引かれている」
エリシアが静かに言う。
「入口の中心を断たないと、残る」
リリアは頷いた。
「はい。ただ、中心に近づくほど、人は“夢”を強く見ます。恐怖が増せば足が鈍る。足が鈍れば、糸は絡みやすくなる」
言っていることは、怖い。
だが、その言葉には逃げがない。怖いものを怖いと言った上で、やるべきことを探している。
ガルドが口を開く。
「俺たちは追う。町は守りながらだが、手を止める気はない」
リリアは少し考えた。
「なら、条件があります」
穏やかなまま、しかし譲らない。
「町の人を囮にしないこと。眠りに落ちた者を無理に引きずらないこと。……それが守れないなら、私は止めます」
レオンは頷いた。
「それは、同じです」
言葉が先に出た。
英雄としての誓いではない。ただ、ここまで来て“それ”を踏み越えたくない感覚がある。
リリアはレオンを見た。数秒だけ。
視線は温かいが、評価ではない。確認だ。――この人は守るか。
「分かりました」
それだけ言うと、リリアは小堂の棚から小さな香炉を取り出した。
中の炭が赤く、薄い煙が立ちのぼる。甘い香りではない。鼻の奥がすっとする薬草の匂い。
「これは、夢を浅くする煙です。強い霧には効きませんが、入口へ向かう途中なら役に立つ」
エリシアが短く頷いた。
「助かる」
ガルドは鍵をしまい、外へ目を向けた。
「……日が落ちる前に、町を固める。夜の動きが減ってる今が、最後の猶予だ」
夕方。
三人は広場でバルツと地図を広げた。
川向こうの取水塔。水門。旧い水路の線。町の外れの小堂。
レオンは図の上に石を置き、道をなぞる。
どこに点が打たれ、どこに線が引かれようとしているか――それが見えてきた。
「ここ……」
レオンが指したのは、取水塔から少し下流の、川がくびれる場所だった。
水音が反響しやすい。霧が溜まりやすい。足場が悪い。
ガルドが同じ場所を見て、頷く。
「誘導に使いやすい。逃げ道もある」
エリシアが測定具を鳴らす。
「霧の層が、そこに寄ってる。……入口がもう一つあるなら、ここに近い」
リリアは小堂を離れられない。眠る人を放ってはおけない。
だが、香炉と薬草を三つ、レオンたちに渡してきた。
「火は小さく。煙が目立つと、別のものを呼びます」
それだけ言って、また祈りの輪へ戻った。
夜へ向かう町の空気は、張り詰めている。
それでも昨日より、手順がある。人の顔が“何をすべきか”を知っている。
レオンは剣の鞘を押さえ、息を整えた。
追いかけるのは、影だけじゃない。
町の下に残った“縫い目”だ。
ガルドが先に歩き出す。
エリシアがその横へつき、レオンが半歩遅れて続く。
川の霧は、夜の色を吸い始めていた。
取水塔で逃げた影は、きっと次の口を開けに来る。
こちらが動けば、向こうも動く。
レオンの掌が、ほんの少し温かくなる。
剣ではない。手の内が熱を持った。
足元の感覚は、まだ確かだ。
夜の川辺へ向かう三人の影が、霧の中へ溶けていく。




