27.くびれの岸と、夢の薄明
日が落ちる直前、川は色を変えた。
昼の間は透明だった水が、夕暮れを吸って黒くなる。
流れは同じはずなのに、底が見えないだけで、歩く気持ちが変わる。
町の外れから下流へ向かう道は、踏み固められていない。
草が足首に絡み、土が柔らかい。歩けば音が出る。
だから、ガルドは川べりを選んだ。
石の露出した場所を拾い、足を置く。滑るところは避け、鳴るところは踏まない。
レオンはその背中を追いながら、香炉を持ち替えた。
リリアから渡された小さな器。炭の熱は弱く、薬草の煙が細く立つ。
煙は甘くない。
鼻の奥がすっとし、意識が一段だけ静かになる。
エリシアが囁く。
「効いてる。頭が軽い」
ガルドは頷くだけで足を止めない。
川がくびれる場所が見えてきた。
両岸が近く、流れが速い。
水音が岩肌に跳ね返り、同じ音が二度聞こえる。
霧が溜まっていた。
白くはない。灰色に近い。
灯りを吸い、輪郭をぼかす霧だ。
「……ここだな」
ガルドが言い、足を止める。
霧の向こうに、崩れた石段が見えた。
水へ降りるための古い階段。今は半分沈み、苔が光っている。
その段の上に、白い粒が落ちていた。点々と。
道しるべのように、間隔が揃っている。
エリシアが水晶片を一つ落とす。
微かな音。石の上で跳ね、霧の中へ消える。
「層が厚い。……下に口がある」
レオンは香炉の煙を少しだけ強くした。
薬草の匂いが濃くなると、霧の重さが一段引く。
それでも、完全に晴れはしない。
霧はただの水分じゃない。
――夢の残り香に近い。
そう思った瞬間だった。
霧の中で、声がした。
「……おい」
誰かが呼ぶ声。
レオンの背中が一瞬冷える。
村の声ではない。
ガルドでも、エリシアでもない。
もっと遠い、懐かしい音――
「……レオン」
今度は、確かに名前だった。
胸が鳴る。
足が、ほんの少しだけ止まりそうになる。
香炉の煙が鼻を刺し、意識が戻る。
“今”の川音が耳に戻る。
霧が、言葉を作る。
夢の中でしか聞かないはずの声で、足を止めさせようとする。
「……やめろ」
レオンは呟き、剣の柄を握り直した。
エリシアが息を吸う。
「幻聴に近い。霧が、記憶の層に触れてる」
ガルドが低く言った。
「聞くな。耳じゃなく、足を見ろ」
足。
現実の足場。石の硬さ。水の冷たさ。
レオンは視線を落とし、霧の向こうの石段を見た。
白い粒の点が、薄い線に繋がりかけている。
踏ませるための道だ。
「……迂回します」
レオンが言うと、ガルドが頷く。
石段を使わず、岸の岩肌を伝う。
狭いが硬い。音が少ない。
エリシアが光を絞り、足元だけ照らす。
眩しさは霧を揺らす。必要な場所だけ、細く。
霧の中で、影が動いた。
鳥ではない。虫でもない。
水面から、細い糸が伸びる。黒い線が、霧の中で揺れる。
水紐が、今度は複数。
足首だけでなく、膝、腰、香炉の腕へも絡もうとする。
レオンは香炉を左手で抱え、右手で剣を抜いた。
刃を深く入れず、糸の張りの弱いところへ当てる。
ぷつ、ぷつ。
切れる感触が、指に伝わる。
水面の影がほどけ、流れに消える。
だが、切るそばから新しい糸が伸びる。
――下で引いている。
ガルドが前に出た。
大剣を振るのではなく、柄で岩肌を叩く。
鈍い音。
霧の中で、糸が一瞬だけ揺れた。
「止まる」
ガルドが言う。
エリシアがすぐに反応する。
光を床へ落とし、糸の輪郭を浮かせる。
「根がある。……水の下、石段の裏」
レオンは息を整え、香炉の煙を一段強くした。
鼻が痛い。だが、霧の声が遠のく。
石段へ戻る。
踏まない。近づくだけ。
水面の下。石段の影に、黒い塊が見えた。
糸巻きのような核。取水塔で見たものより大きい。
――これが口の“手前”。
レオンは剣先を伸ばした。
水に刃を入れると、波が立つ。音が増える。
だから、剣先だけを水面に触れさせ、核へ当てる。
切るのではない。押す。ずらす。
核がわずかに動いた瞬間、糸の張りが緩んだ。
そこへ。
ガルドが踏み込んだ。
大剣を寝かせ、核の上へ落とすように叩く。
水が跳ね、霧が揺れる。
だが核は潰れない。潰せば散る。
ガルドは潰さず、押し込む。
石段の裏へ、核を“押し戻す”。
糸の伸びが止まった。
エリシアが光を落とし、膜を張る。
水面に薄い光の面ができ、核の動きを封じる。
「今のうちに、入口を探す」
エリシアの声は短い。だが揺れていない。
霧の向こうで、足音がした。
軽い。
濡れた石を踏む音が、迷いなく近づく。
フードの影が、石段の上に立っていた。
前に見た影と同じ。だが、今日は距離が近い。
霧の中でも、視線だけがこちらを捉えているのが分かる。
「おや。早いね」
声が笑っている。
状況を楽しむ音だ。
ガルドが前に出ようとするのを、レオンが視線で止めた。
今、追えば核が動く。糸が戻る。町へ繋がる。
影はそれを知っているのか、肩をすくめた。
「ここで踏み込めない。そういう顔」
からかうようで、観察のようでもある。
エリシアが低く言う。
「あなたが操っているの?」
影は首を傾げた。
「操る? いやいや。紐を通すだけ。
通れば勝手に引ける。人も魔物も、同じだよ」
レオンの胸の奥がひやりとした。
人も同じ。
だから、眠り歩きが起きる。
影は視線をレオンの剣へ向けた。
「その剣、静かだね。
持ち主が静かなのか、剣が眠たいのか」
挑発に近い言葉。
だがレオンは反応しない。香炉の煙が、心の揺れを一段抑えている。
ガルドが言った。
「どこへ繋げるつもりだ」
影は笑った。
「繋げたい場所は、たくさんある。
でも今日は、ここ。町の足元。ちょうどいい」
そして、手を上げる。
霧が濃くなる。
声が増える。遠い記憶の声が、また耳元へ寄ってくる。
レオンは香炉を強く振った。
煙が一瞬濃くなり、霧の層が揺らぐ。
エリシアがその隙に、石段の脇の壁へ光を滑らせた。
ひび割れの向こうに、暗い隙間が見える。
水が吸い込まれる音がする。
「……ここ。入口がある」
ガルドが頷き、体をずらす。
影に向けてではなく、入口へ向けて。
影が目を細めた気配がした。
「当てたか。すごいね」
褒めているようで、嬉しそうだ。
レオンは剣を構え直し、影から目を逸らさないまま言った。
「入口を閉じる。あなたが何を残したいのかは知らない。
でも、町に触れさせない」
影は、笑う。
「いいね。そういうの、好きだよ」
言いながら、後ろへ下がる。
霧の中へ溶けるように、撤退を選ぶ。
「またね。次は、もう少し届く場所で」
羽音はない。足音も薄い。
影は消え、残るのは霧と、水音だけ。
エリシアが入口の隙間へ光を当て、膜を厚くした。
「今なら塞げる。……完全じゃないけど、通りは細くできる」
ガルドが石を持ち上げ、隙間へ押し込む。
水が跳ね、石が噛み合い、隙間が狭くなる。
レオンは香炉の煙を弱め、呼吸を整えた。
霧の声が、遠のく。
代わりに川の音が、元の一つの音に戻っていく。
入口は残った。
だが、広げさせない程度には縫い縮められた。
それでも、影は逃げた。
楽しそうに。次があると言わんばかりに。
ガルドが息を吐く。
「……町へ戻る。今夜は、持たせられる」
エリシアも頷いた。
「痕が薄くなるまで、油断できない」
レオンは最後に石段を見た。
白い粒は残っている。だが、線になりかけた形は崩れていた。
霧の中で聞こえた声――あれが完全に嘘だとは思えない。
霧は記憶をなぞる。なら、次はもっと深く触れてくるかもしれない。
香炉の器を握り直す。
守るための灯ではない。
進むために薄明を作る、小さな火だ。
三人は霧の岸を離れ、町の灯りへ戻っていった。




