24.眠り歩く列と、霧の鳥
町へ戻るころには、朝の白さが霧を押しのけ始めていた。
川沿いの柵は立っている。灯りも増えている。
見回りの男たちが、眠気で赤くなった目をこすりながらも、きちんと立っていた。
バルツが駆け寄ってくる。
「どうだった」
ガルドが先に答えた。
「水門にも口がある。粉も虫も増えてる。入口は一つじゃない」
余計な飾りのない報告だった。だが、必要な情報は落ちない。
エリシアが続ける。
「水門の奥に人影がいました。近づくと引いた。
戦うためというより、手順を進めるために動いている」
レオンは、持ち帰った布袋を見せた。中で縫い甲虫が、まだ小さく暴れている。
「こういうのが、地上でも粉を揃えてました。放っておくと、痕が増えます」
バルツの喉が鳴った。
「……じゃあ、今夜も――」
「今夜が山だ」
ガルドが言った。
「灯りは柵の外。見回りは増やせ。
それと、粉が落ちてる場所は踏ませるな。縄を張れ。避けさせろ」
バルツは頷き、すぐに走り出して男たちへ指示を飛ばした。
町の動きが早いのは、怖がっているからだ。
恐怖は、時に人を働かせる。だが慣れれば鈍る。慣れる前に、手を打つ必要があった。
日中、三人は準備をした。
柵の外に灯りを置く位置を変え、川辺へ向かう道をわずかに遠回りにする。
粉の痕が薄く残る場所は、縄を低く張って“通れない”ように見せる。
エリシアは水晶片をいくつか残し、魔力の揺れを拾えるようにした。
派手な仕掛けではない。変化を見逃さないための耳だ。
レオンは布を裂き、簡易の袋を何枚も作った。
昨日の一枚では足りない。群れが来るなら、こちらも数が要る。
ガルドは川辺を歩き、足場を確かめた。
踏めば鳴る場所、滑る石、逃げ道になる崩れ――そういうものを先に拾っておく。
「ガルドさん、そこは……」
レオンが言いかけると、ガルドは振り返らずに手を上げた。
「分かってる。落ちるのは俺じゃねぇ。町の奴らだ」
言い方はぶっきらぼうでも、目線は“自分”ではなく“町”に向いている。
それがガルドらしかった。
夜。
灯りが増えた川辺は、逆に影が濃くなった。
明るいところがあるほど、暗いところが目立つ。
見回りの男たちが交代し、柵の外を歩く。
バルツも加わっている。顔色は悪いが、逃げてはいなかった。
三人は少し離れた場所で見ていた。
前に出れば相手は引く。なら、相手の“動き出し”を待つ方がいい。
――来るなら、今夜。
その予感は、当たった。
町の奥から、足音が聞こえた。
走る音ではない。揃った歩幅が、ゆっくり近づく。
「……来た」
エリシアが息を落とす。
角を曲がって現れたのは、町の人間だった。
男が二人、女が一人、そして子どもが一人。
全員、目が開いているのに焦点が合っていない。眠っているみたいに、表情が空っぽだ。
手には袋がある。小麦粉の袋に見える。だが、匂いが違う。
乾いた粉の匂いの奥に、あの白い粒の気配が混じっていた。
「……運ばせてる」
レオンの声が、思ったより低く出た。
ガルドが、ひとつ息を吐いた。
「止める。怪我はさせるな」
短いが、迷いのない方針だった。
レオンとガルドが左右に散る。正面からは塞がない。
塞げばぶつかる。ぶつかれば袋が落ちる。
エリシアは後ろに下がり、光を絞る。眩しさではなく、輪郭だけを作るために。
眠り歩きの列は、柵の手前で自然に足を止めた。
灯りに反応しているようにも見える。だが違う。足元だ。
縄で避けたはずの場所――その手前で、彼らは“迷わず”向きを変えた。
避けたのではない。避けさせられている。
黒い糸が、薄く伸びている。
土の上では見えにくいが、灯りが当たる角度で、かろうじて輪郭が浮いた。
エリシアが小さく言う。
「糸が……道を作ってる」
レオンは喉の奥で息を止めた。
袋を落とさずに止めるには、まず糸を断つ必要がある。
だが、触れた瞬間に張る糸もある。
地下で見た“継ぎ目”を探さなければ、散る。
レオンは距離を詰めすぎない。
一歩、半歩。足を置く場所を選びながら近づく。
眠り歩きの男が、袋を持ったまま柵へ向かって手を伸ばした。
その手首に、細い黒い輪が絡んでいる。
――ここ。
レオンは剣を抜かなかった。抜く音で列が乱れる。
代わりに、腰の短剣を抜き、刃先を糸へ寄せる。
糸の張りが変わる場所。
一本の糸が、わずかに“結び目”のように震える。
レオンはそこへ刃を当てた。
ぷつり。
抵抗が切れた。
男の肩が揺れ、顔が少しだけ動く。焦点が揺らいで、息が深くなる。
「……あ、れ……?」
言葉が出た瞬間、子どもがふらりとよろけた。
ガルドがすっと前に入り、子どもの肩を支えた。
抱き上げない。持ち上げれば暴れる。支えるだけで、立て直させる。
「大丈夫だ。寝ぼけてるだけだ」
声が低い。だが冷たくはない。子どもを脅かさない音だった。
列が乱れ始める。
乱れれば袋が落ちる。落ちれば粉が散る。
「レオン、袋を先に取れ」
ガルドが言った。
レオンは頷き、女の手から袋をそっと外す。
引っ張らない。指を一本ずつほどくように、袋の紐を抜く。
その瞬間、闇が鳴いた。
ばさっ、と。
頭上を何かが横切る。
黒い鳥――いや、鳥の形をした霧の塊が、灯りの周りを旋回する。
霧鴉。
灯りを嫌うのではなく、灯りを“歪ませる”。
影が揺れ、糸の輪郭が見えにくくなる。
見回りの男たちがざわつく。
「なんだ、あれ……!」
バルツが声を押し殺す。
霧鴉が一羽、地面へ降りた。
嘴がない。代わりに裂け目があり、そこから白い粉を吐いた。
粉が地面に落ち、薄い円を作りかける。
「……っ!」
レオンが身体を動かすより早く、エリシアの光が走った。
床を押さえる格子――ではない。粉の“上”に膜を作るような、薄い光だ。
粉が舞い上がらず、その場で湿ったように固まる。
「町の人が踏まないように。縄、ここ!」
エリシアの声が飛ぶ。
バルツが反応し、縄を投げる。男たちが引っ張り、簡易の境界を作る。
霧鴉が二羽、三羽と降りる。
灯りの周りに“落とす”ように粉を吐いていく。
――誘導だ。
人を眠らせて運ばせるだけじゃない。
その足元にも、薄い道を敷き直している。
ガルドが大剣を抜いた。
抜いた音が、夜に硬く響く。
霧鴉が一斉にこちらへ向いた。音に寄る。
「来い。まとめて落とす」
ガルドが言うと、霧鴉が灯りの影へ飛び込んできた。
斬らない。
ガルドは刃を寝かせ、風を作る。
重い風圧が霧鴉を押し返し、灯りの外へ弾き出す。
そこへ、レオンが布袋を放る。
口を広げた布が霧鴉を包み、霧の塊が布の中で暴れる。
霧は斬れない。だが、袋に入れれば“散り方”は抑えられる。
エリシアが光を細く落とした。布袋の中の動きが鈍る。
霧鴉が、布の繊維の隙間から抜け出しにくくなる。
「そのまま縛って」
エリシアが言う。
レオンが紐で布袋の口を縛る。
中で霧が鳴くように震えたが、外へは出ない。
その間にも、ガルドは霧鴉を灯りの外へ追い出していく。
斬撃ではなく、押し返し。
粉を撒かせないための戦い方だった。
――そして、気づく。
霧鴉は、誰かの意志で動いている。
自然に集まる数じゃない。散るタイミングも揃いすぎている。
レオンが視線を走らせた。
灯りの届かない、柵の外。
そこに、人影が一つ立っていた。
フード。小柄。水門で見た影と同じ。
町の喧騒も、こちらの動きも、観察するように見ている。
レオンの背中が冷たくなる。
追えば追える距離だ。
だが、今追えば――眠り歩きの列が崩れる。袋が落ちる。粉が散る。
フードの影が、こちらへ片手を上げた。
合図のように。
次の瞬間、霧鴉が一斉に引いた。
粉を撒き終えた鳥から順に、闇へ溶けていく。
フードの影も、同じように消えた。
足音が残らない。霧に紛れるのが上手すぎる。
ガルドが、遅れて息を吐く。
「……逃げ足が軽いな」
悔しさより、相手の癖を刻む声だった。
レオンは眠り歩きだった町の人々へ視線を戻す。
男は座り込み、女はぼんやりと空を見上げている。子どもは泣きそうな顔でガルドにしがみついていた。
バルツが走り寄り、家族を抱えた。
「すまねぇ……すまねぇ……」
謝る声は、誰に向けているのか分からない。
エリシアが、地面に固まった粉の薄い円を見た。
完全な形ではない。だが、狙いは見える。
「町の中に“点”を打ってる。
ここを踏ませれば、糸が通りやすくなる……たぶん」
推測は控えめだった。断定しない。
だが、十分に恐ろしい。
レオンは布袋を握った。中で霧鴉がまだ震えている。
縫い甲虫と同じだ。小さいのに、仕事が厄介だ。
ガルドがバルツへ言った。
「今夜は、もう一回あるかもしれない。
寝る前に家を見ろ。戸を締めろ。家族の様子が変なら、起こせ」
バルツが何度も頷く。
「分かった……!」
町の人間が動き出す。
恐怖に押されながらも、手順を覚え始めている。
見回りが落ち着き、灯りの列が整ったころ。
三人は川辺の少し上流へ移動していた。
霧鴉が消えた方向。フードの影が立っていた場所。
土の上に、黒い糸が一本だけ残っている。
切れたのではない。ほどけたように、端が丸い。
エリシアが光を当て、糸の先を見た。
「……この先、川を渡ってる」
ガルドが川面を見て、低く言った。
「町を迂回して、別の口に繋げるつもりだな」
レオンは頷いた。胸の奥に、嫌な納得が生まれる。
相手は戦いで勝ちたいんじゃない。
作業を終えたい。そのために、こちらの手を割かせる。
町の人間を使えば、こちらは乱暴にできない。
霧鴉を使えば、灯りを揺らせる。粉を落とせる。
丁寧に潰すしかない――その面倒を、相手は楽しんでいるようにさえ見えた。
ガルドが、川向こうの暗がりを指した。
「明けたら行く。今夜は町を保たせる。
……朝まで持てば、次はこっちが動ける」
レオンが「はい」と答えるより先に、エリシアが頷いた。
「川向こうに、もう一つ水の道がある。地図で見た。
そこが次の口かもしれない」
夜はまだ長い。
だが、霧の中に残った糸の向きが、次の場所を指していた。
レオンは静かに息を吸う。
灯りの列の向こうで、町が寝息を立て始めている。
今夜、もう一度揺れるかもしれない。
それでも、朝になれば追える。
川向こうの旧取水塔……そこに繋がる水の道があるはず。
その確信だけを手元に残して、三人は町へ戻った。




